人それぞれ正義があって。 正義なんて振りかざした時点で正義ではない。みんなそれぞれの正義を持っている

正義感が強い人の魅力!短所や上手な付き合い方も紹介

人それぞれ正義があって

連載当初はこんなにも面白い作品はないと巷で噂されていたこの作品。 天邪鬼の私は何かと理由をつけて読んでいなかった。 (基本的に既刊になっていないマンガを読むのがあまり好きじゃないというだけだが その数年後 「最近の進撃の巨人は面白くない」 という声がちらほら出てきて、 「やっぱり一時的なブームだけだったじゃん」 と思っていた。 そして、偶然上記のキャンペーンを見つけ、ちょうど暇だし、読んでみるかと手にとってみた・・・ するとこれが想像以上に面白い! 読む前までは圧倒的な力を持つ巨人の前に 人間がいかにして対抗していくかといういわゆる「ジョーズ」的な作品 かと思っていたが、話が進むに連れて 巨人VS巨人という様相に代わり、 今度は「ウルトラマン」や「アベンジャーズ」的なSFアクション かと思いきや、急に謎解きミステリーが入ってきたりと目まぐるしくかわっていく。 そして、最終的にたどり着くのが「戦争」というテーマ なぜ人々は戦争を起こしてしまうのか。 そんな間違えを起こしてしまうのか。 わかっているはずなのに、戦ってしまうのか。 その理由を疑似体験できるのがこのマンガの面白さではないだろうか。 SEKAINOOWARIの歌詞ではないけれども 人はそれぞれ「正義」があって、争い合うのは仕方ないのかも知れない をひしひしと体感する。 ただ、その仕方なさでは世界は良くならないのだから、そこをどう変えていくのかが今後の展開として気になるところである。 (もしくはバッドエンドで収束していくのか) 既刊した時にまた1から読み直すと全く違った物語に見えることであろう。 グロい場面が多かったり、絵柄が独特だったりで万人受けする内容ではないかもしれないが、まだ未読の人はぜひ一度読んでみてはいかがだろうか。 他の参加者のnoteはこちらからどうぞ.

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正義と悪がどうして同義語になるの? 正義と悪なんて真反対に見える事象を同義語に扱うなんて、とんだ不届き者と思われると思いますが、どうぞ怒らずに最後まで読み進めてくださいね。 同義語だと結論付ける前に、まずは正義と悪って結局なんなのか?確認してみましょう。 正義と悪って、実は各々の主観に過ぎないんですよね。 人というのは自分が悪だという意識になる時は、とてつもなく少ないですが、実は「正義である」時も、「悪になる」時も、同じ考えの軸の中で思いが発露されているのです。 それは、 人とは、自分にとって正しいが正義となり、自分にとって悪いが悪となるからです。 悪になろうと正義になろうと、その軸となる判断は同じ基点の思想によってなされるのですね。 ここがポイントです。 実は全く違うように見えて、判断や主観はある一つの、つまりその人が持つ主観の定義によってなされているということです。 この主観の中にある軸たる思想という枠の中で、私たちは「善悪」を判断しているに過ぎず、その判断の枠の中にいる限り、実はどちらも五十歩百歩に過ぎないのです。 正義、相手から見ればそれは悪 人とは、自分にとって正しいが正義となり、自分にとって悪いが悪となります。 逆側から見ても、実はそれは同じこと。 あなたが悪だと思っている人がいたとします。 ですが、その人は自分が「悪」だと思って行動していると思いますか? その人の中に悪意が存在していると思いますか? 自分からの視点で見れば、悪意に満ちあふれている行動も、その人の主観、思想の軸、環境に立った上で見た時、多くは善として正義として成り立っているのが常です。 自分自身が悪の化身として動いていると思う人は、まずいません。 みんなそれぞれの善と正義の上で行動している結果が、今私たちに与えられている環境なのです。 つまり、自分にとっての悪は、悪に見える人からの正義であり。 悪側に立つ人たちの正義とは、あなたにとって悪に見えるだけなのです。 つまり、鏡なのです。 言っている基点は同じなのです。 波動で言えば同義語のその真意 なぜ、波動において「正義も悪も同義語」と言い切れるのか。 その答えは簡単です。 正義とは、自分の主観に基づいて行われる判断に過ぎず、その判断の中で正しいと思う部分が正義として、正しくないものが悪として振り分けされる。 だからこそ対立が起こる訳ですが……、 共通しているのは、正義に立つにせよ、悪に立つにせよ、どちらも「自分が正しい」という思いの上に成り立っている感情に過ぎないのですね。 つまり波動で言えば見える視点が違うだけの話で、波動領域帯としてはほぼほぼ同じ場所に存在していると言えます。 同じような場所にいるからこそ、感情が沸き上がるのです。 波動があまりに違いすぎれば、正義と悪で見極める感情は起こりにくくなるんです。 子供相手の喧嘩に大人が本気になれないように、波動領域帯が変われば変わるほど、相手が正義と主張してくる内容が、あまりに頓珍漢であっても、感情が伴わないようになるんですね。 そして、道理としてその矛盾点を指摘するようになるんです。 自分が正義だ!相手が悪だ!と言ってる間は、どちらも同じ土俵で戦ってるのと同じ。 そして、結局「自分が正義だ!」と感じる強い思いは、いずれ独りよがりになっていき、周りからみたら、「お前こそが悪」という事象を生み出すんですよ。 自分が正しいという思いが強くなればなるほど、 そうでない現実を見かけると、人は怒りを感じるようになります。 自分が正しいという思いが強くなればなるほど、 人との意見の相違が許せなくなり、人と意見を分かち合ったり共有することが減り、自分の意見だけが先鋭かしていきます。 すると、結局、その人の波動は低く(粗く)なっていくんです。 波動にノイズが混じっていき、 現実や未来に対する恐怖や不安が増し、 心は殺伐としていきます。 心は「今」に入りにくくなり、理想とする「未来」のためだけに生きようとしてしまいます。 結局、正義にのめり込むと、その人が想定もしていない悪の感情と同期していくんですよ……。 残念なことにね。 「自分は正しい」、「自分は善」などと自分に対する好意的なレッテルを貼り始めた瞬間から、あなたが思いもつかない悪の魔の手は、あなたの中に入り込むんです。 だからこそ、正義も悪も同義語なんですよ。 正義と悪は同意語っていうことがよくわかりました。 また、ついでにいつも人の悪口ばかりいっている人と距離を置けばいいこともわかりました。 その人の悪口は、その人にとっての正義であって、私の正義でないから、どうしたもんかと思っていましたが、単に私も、私視点での正義を振りかざそうとしていて、だからこんがらがるんですね。 別にどっちの意見が正義ってわけじゃないですね。 正義の意見、悪の意見、じゃなくて、単なる意見、悪口なんですね。 これは、常に相手との対立を生むので、生きるのが大変になるんですね。 わかりやすいんですけど、厄介なんですね。 どうもありがとうございました! 最近のコメント• に takehisayuriko より• に ファル より• に takehisayuriko より• に takehisayuriko より• に えく子 より• に 朝焼け より• に takehisayuriko より• に takehisayuriko より• に takehisayuriko より• に takehisayuriko より• に 反ハッピーちゃん より• に えく子 より• に 太田 より• に より• に takehisayuriko より• に えく子 より• に takehisayuriko より• に べっくはむ より• に takehisayuriko より• に takehisayuriko より.

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【重要】正義の反対は悪ではない。

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人間の社会的関係において実現されるべき究極的な価値。 善と同義に用いられることもあるが,善が主として人間の個人的態度にかかわる道徳的な価値をさすのに対して,正義は人間の対他的関係の規律にかかわる法的な価値をさす。 正義とは何かという問題については古来さまざまな解答が示されてきたが,一般的な価値ないし価値判断に関する見解と同様に,正義を客観的な実在と考える客観主義的,絶対主義的と,正義を主観的な確信と考える主観主義的,相対主義的正義論とに大別できよう。 法思想の領域では,だいたいにおいて論が前者に,が後者に属する。 従来の正義論のうちではやの見解が名高く,与えた影響も大きい。 アリストテレスは,道徳とは区別される正義 特殊的正義 について,と交換的正義 平均的正義,調整的正義とも訳される とを区別し,前者は公民としての各人の価値,功績に応じて名誉や財貨を配分することにおいて成立し,後者は私人としての各人の相互交渉から生じる利害を平均,調整することにおいて成立するとした。 キケロは,この配分的正義と同様な内容を「」という公式で表現した。 アリストテレスによると、名誉や財貨を各人の価値に比例して分配する配分的正義と、相互交渉において損害額と賠償額などを等しくする矯正的(整調的)正義とに分かれる。 また、国家の内で実現されるべき正義には自然的正義と人為的正義とがあり、前者が自然法、後者が実定法につながる。 国家権力の確立した社会では、実定法的正義は国家により定められるが、これは形式化・固定化されやすい。 そこで、各人がその価値に応じた配分を受け、基本的人権を中心とした諸権利を保障されるべしという社会的正義の要求が、社会主義思想などによって掲げられることになる。 正義は、古代ギリシア・ローマ時代以来、「各人に各人の分を」suumcuiqueという簡潔な標語で一般に言い表されてきた。 つまり、その人に相応するものをその人に帰属させることが正義であるとされるが、その人の当然の取り分をその人に与えるという「分配の正義」である場合もあれば、その人のなしたことに対して当然の報いを受けるという「応報の正義」である場合もある。 古代ギリシアのソフィスト派に属するトラシマコスが、正義を「強者の利益」と規定したのに対して、プラトンは「権力」と「権利」との区別を明確にして、「正義」を国家の備えるべき至高の徳とした。 アリストテレスは正義を「配分的正義」と「応報的正義」に分け、後の正義論に大きな影響を与えた。 正義というラテン語、およびそれと関連する西欧語には、「法」あるいは「権利」jus Rechtという語が含まれている。 したがって正義の問題は、法の問題と深い関係をもつものと考えられてきた。 しかもこの場合の「法」は、現実の実定法(成文法、不文法)に限らず、神法、自然法にも関係するから、正義の問題は、倫理学、法哲学、法学、政治哲学などにおいて従来広く論ぜられてきた。 正義は国家や社会制度の基準とされ、法において体現される場合もあれば、逆に悪法を批判する原理ともなりうるのである。 ところで、正義に関する議論は、具体的には平等の問題としていろいろと論ぜられてきた。 また法律上は、とくに「衡平(法)」equityの問題としてコモン・ロー(慣習法)の不備を補う原則として用いられている。 最近では正義の問題は、とくに「社会正義」social justiceという形で、現代世界における貧富の格差と社会経済的搾取や不平等、差別や人権侵害、政治的抑圧や軍事的暴力的対立と抗争などの諸問題を告発し、その解決を求める人道的人類的課題を呈示するものとして注目されている。 [飯坂良明].

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