しま かぜ。 護衛艦はたかぜ型 画像集

みずしま脳神経内科・内科クリニック 前橋市朝日町 城東駅近く 脳神経内科・内科

しま かぜ

朝方から買い気配を唱えていた丸松農林が寄り付いた瞬間、100万株以上の商いが成立。 いつもと違っていたのは中井戸が大阪に地盤のある中堅証券に習慣のように手口を聞いたその内容だった。 「いつもなら売り買いともに手口がばらばらだが、今日は5社ぐらいにまとまった売りが出ている。 しかも五社経由は同じ売り指値だったようだ。 買いは相変わらずまばらだけどね」という。 その後も丸松は上値を追ったが、「あれ、5社の売り手口がどんどん増えている。 合計で200万株くらいになった」と担当者は不思議そうに伝えてくる。 「5社の名前を教えてください」と中井戸が聞き、それをメモする。 その後、「どうやら止まったみたい」と担当者が言うのを聞いて電話を切る。 その時点で丸松農林の出来高は400万株を超えた。 午前中としては異例の多さである。 横にいた田代節也にメモを見せ、「どうも丸松農林の手口がおかしい」というや、売り手口の出た1社に電話を始めた。 返ってきた答えは「守秘義務があり、答えられない」。 知り合いがいる証券会社もあったが「中ちゃんといえども、この件はノーコメントだ」といわれた。 田代が当たった残りの3社も同様で、各社ともに厳重なかん口令が出ている様子だった。 中井戸はデスクの日高隆のところへ行き、「丸松農林株の売買手口に動きが出ました」と報告した。 若手記者の書いた原稿をチェックしていた日高は手を止めて、顔を上げて「どういう風にだ」と質問してきた。 中井戸は「売り手口がややまとまっています。 昨日、大証金が逆日歩を50銭上乗せして2円50銭とし、また貸し株利用等に関する申し込み制限措置が発表されたので、動向をウォッチしていたのですが、もしかして佐藤が売り抜けしたんじゃないかとも考えられます。 5つの証券会社から、合計約200万株の売りが出ています」 「とうとう、売り抜けたのか?」と日高は近くの端末で丸松農林の株価を見る。 5社の売りが出た後、株価は一段高になっている。 「それにしては、勢いが衰えていないじゃないか」と中井戸を見る。 「新規の空売りの規制が出ましたから、既存の売り方は株価の上昇で買い戻さざるを得なくなっているものと推察されます。 気にかかるのは200万株という手口です。 佐藤が丸松農林を当初仕掛ける際に得た種(たね)玉が200万株とみられ、符号することです」 「確か丸松農林の大株主だった生保から場外(取引所を通さない取引)で買ったものだったな」 「そうです。 ただ、その後の売買で保有株数は膨らんでいるかもしれませんから、断定的なことはいえません。 しかし、5%ルールでは一度も佐藤や一声の会の名前は出ていません」 「では、丸松農林はこれからどうなるのだ」 「相場の終わりが近いと想定すべきです。 信用規制がかかって、売り方の買い需要があるところに売りをぶつけたとすれば納得できます。 当面は買いの勢いが続くでしょうからね」 「仕手筋だからといって、株価の天井を売るわけではない、ということか」 「はい。 株数が多い分、流動性があるうちに売り抜けを考えるのが常道かと」 「わかった。 原稿を準備しておけ。 株価の動向を見ながら、載せよう。 投資家に警告を発するのも、専門紙の役割だからな」 中井戸は自席に戻り、原稿の執筆に取り掛かった。 まず和泉証券の石川に電話をすると、「予想通り、もう相場は終わるだろう」との答えが返ってきた。 そして、次に朝原には伝えておく必要があると思い、返す刀で電話番号を押した。 こんばんは。 今週は(も?!)色々有りましたね。 お疲れ様でした。 中井戸氏の読みどおり、相場の終わりは近いのでしょうか。 日高氏とのやり取りかっこいいですね。 >「わかった。 原稿を準備しておけ。 株価の動向を見ながら、載せよう。 投資家に警告を発するのも、専門紙の役割だからな」 報道の在り方をきちんと考える日高氏、やはり魅力的。 中井戸氏の読みを信頼しての指示ですよね。 そしてきちんと浅原氏に連絡を取ろうとする中井戸氏。 流石です。 >「仕手筋だからといって、株価の天井を売るわけではない、ということか」 「はい。 株数が多い分、流動性があるうちに売り抜けを考えるのが常道かと」 そうですよね。 売るタイミング・・・。 あちらのBlogでGANNFAN様も仰っていたように売る事を考えて買いに入らなければ売りたい時に売れるとは限らないと今回の騒動でも解りましたし、実際に大きな商いをする場合は重要な事なのですね。 自殺者まで出てしまうこの騒動。 小説同様、行く末が気になります。 今日の放送も切れ味鋭く良かったです。 &もっと聞きたかったです。 小説を継続希望と常々希望しておりましたが、書き過ぎて和島さんの身に何かあっても困るので程々で良いです。 読みたいけど・・・。 (支離滅裂) この騒動で画面に見入りPCの前に座り込んでいる時、先週の鳩のお写真を何度となく眺めていました。 今週はまだUPされていないようですが、どんなお写真が掲載されるか楽しみにしています。 来週は更にお忙しくなりそうですね。 程好い休憩を入れながら個人投資家に有益な報道メディアであって下さいね。 来週も楽しみにしています。 こんにちは。 本当ですね。 以前、和島さんが紹介されていた「今後5年間マーケットが閉鎖されても・・・。 」を聞いてから銘柄選びが慎重になり、今回に役立ちました。 調度、マスター様のご著書を読んだ後でも有り、見直す良いタイミングと今後の投資先を考えています。 私達は、個人投資家の方向しか、見ておりません(きっぱり)。 ありがとうございます。 日頃の放送からそれは十分感じます。 だから皆さん放送を楽しみにしているのでしょうね。 (私も) 凄く安心感があります。 来週もマーケットから目が離せませんね。 お体大切に。 胎動1 交通の動脈だった阪神高速道路は神戸、西宮市の7個所で橋げたが落ち、走行中の車が次々と落下。 橋げたが支柱から折れて崩れ落ちたため、多数の車や通行人が下敷きになった。 神戸市繁華街のビルが倒壊し、ダイエー三宮店、神戸市役所なども一部が損壊した。 電気は各地で停電し、ガス・水道といったインフラも壊滅的な打撃を受けた。 電車も軒並み運転休止となった。 電気が止まったうえに、レールが曲がり、土砂に埋まったところもあるためだ。 地震の大きさが歴史的だったことに加え、人々が朝食の支度のために給湯器などの火を使い始めた時間帯だったことが災いした。 火の手は住宅街から一気に広がり、地震で傷ついた建物を襲った。 死者、行方不明者6308名、焼損面積は神戸市の82万平方メートルを筆頭に西宮市7649平方メートル、芦屋市3645平方メートル、尼崎市257CX当時の現場は地震による災害、混乱、火の海とまさに生き地獄となっていた。 あたりには死臭も漂い、家族を探して泣き叫ぶ子供もいる。 震災による被害は、発生から一時間を経過したが、沈静化の気配がないどころか、どこまで拡大するのかまったく予想ができない状況なのだった。 1995年1月17日、午前5時46分。 夜も明けきらぬ近畿地方を中心に直下型の巨大地震が襲った。 震源の淡路島で地震の大きさを示すマグネチュードは7.2、震度は一部地域で最高の7(激震)を記録した。 震度6以上は1927年3月の北丹後地震以来という歴史的な地震が、大都市圏で発生してしまうという惨事になった。 胎動2 同日、朝7時の兜町。 中井戸玲次はいつもの時間に、東京は日本橋兜町にある証券金融新聞の編集局に入った。 テレビで関西に大きな地震があったらしいことは知っていたが、朝6時段階のテレビでは「関西支局と連絡がつきませんが、大きな被害は今のところ報告されていません」などと放送していたので、あまり気にせず家を出て、会社に来てからも取引を終えていたニューヨーク株式市場の状況を調べていた。 キャップの日高隆を始め、早出の他の記者もいつもと変わらず、コーヒーなどをすすりながら、各々が2時間後に始まる株式相場に備えた作業をしている。 デスクの日高隆が「今朝、地震があったのを知ってるか」と聞いてきたので、中井戸は「ええ、震度3ぐらいでしたか。 関西地方は結構大きかったようですね」と答えた。 少し遅れて金融部記者の田名部が入ってきて、いつもそうするようにテレビの電源を入れた。 すると、そこには信じられないような光景が映し出されており、田名部は「日高さん、こ、これはひどい!」と叫んだ。 テレビはヘリを飛ばして災害現場を写していたが、そこは朝焼けに映し出された、燃え広がる神戸の町と天まで届くような煙の帯だった。 火の勢いは衰えるどころか、さらに拡大しているように見えた。 日高はすぐに、「とにかく、大阪支社へ連絡しろ。 被害がないかを確かめるんだ」と田名部に指示した。 中井戸は「MHKのニュースはなんだったんだ。 報告が入っていないのではなく、通信が遮断されて連絡ができなかったということか」とテレビの映像を見て絶句した。 報道によれば、震源は淡路島付近、北緯34.6度、東経135.0度で震源の深さは20??。 マグニチュードは推定7.2の直下型地震だった。 死者・行方不明者は7時30分現在で確認されただけで、すでに800人を超している。 JR新幹線、在来線、私鉄が損害を受け、高速道路の崩壊・陥没、高架の落下が相次ぎ交通はマヒ状態。 電気・ガス・水道も各地で寸断され都市生活に深刻な状況を与えている。 気象庁は「平成7年(1995年)兵庫南部地震」と命名した。 ヘリコプターは現在、神戸市東灘区の上空から俯瞰映像を伝えているが、そこには地震で脱線した阪神電車と、激しく炎を上げる住宅街が映し出されている。 先ほどは数100メートルにわたって倒壊した阪神高速道路や、広範囲に燃えあがる長田地区の状況が映っていた。 テレビを見ているだけでも、死者・行方不明者の数が今後うなぎのぼりに増加するのは、画像を見るだけでも確実と思われた。 情報が伝わっていないのは兜町だけでなく、政府も同様だった。 当時の村山富市首相は午前行われた閣議後の記者会見で震災による死者が多数出ているようだが、との記者の問いかけに、「え、そんなにひどいのか」と初めて認識したという。 胎動3 田名部は「だめです。 何度かけても大阪には電話が通じません」と悲壮な声を上げた。 通信インフラが地震で痛手を受けたのか、あるいは安否を確かめる電話が殺到し、回線が混雑しているのか。 あるいはその両方かもしれなかった。 日高は編集局内に1台だけある携帯電話を取り出し、田名部に渡しながらいった。 「これでコールをし続けろ。 とにかく連絡がつかなければ、今日の記事はもとより、新聞の発送にも影響する」。 携帯電話なら途中の回線を飛ぶことができるうえ、緊急時には一般回線よりもつながる可能性が高くなる。 この時間では総務部などの事務方や広告、販売局なとのスタッフはまだ出社していないこともあり、日高の指示は的を射ていたといえる。 中井戸たち記者の仕事もあわただしさを増してきた。 時間の経過とともに記者が続々と出社してきた。 取材先である証券会社の関西方面支店の被害状況や、大阪証券取引所の売買がなされるのかどうか。 そして、最も重要なのは大震災が東証での売買に与える影響である。 ただでさえ低迷している日本経済が、今回の震災で一層落ち込む可能性も否定できない。 少なくとも投資家がそう考えれば、まとまった売りが出るかもしれないのである。 被害状況がまだよくわからないため、テレビ報道を、横目に手探りの取材になる。 中井戸は電話を取り、市場関係者や調査機関などに手当たり次第に取材を進めていった。 大証は1日休場することが決まった。 各証券会社の被害状況を見極めるためだが、交通が寸断されているため、被害がなくても出社できない社員が続出した。 大阪証券取引所の職員も集まらないといい、休場はやむをえない措置といえる。 一方、大証の周辺地域は北浜と呼ばれ、東京証券取引所がある兜町と並ぶ証券会社の密集地帯。 この付近は震度4前後だったが、ビルの一部が倒壊したり、窓ガラスが割れるなどの被害が出ていた。 証券金融新聞社の大阪支社もこの北浜の外れにあったが、幸い棚や照明器具が破損した程度で、大きな被害はなかった。 ただ、通信インフラがやられ、東京本社に連絡できない状況が続いていた。 胎動4 午前9時・東京市場の売買開始。 予想通り、全般は買い手控えムードか強く、軟調な始まりとなった。 震災の規模や被害の状況が確定されていない状況で、しかもあのテレビ映像を見た投資家に買い意欲がわかないのも当然といえる。 日本経済に与える打撃がGDP(国内総生産)の何パーセントとかのデータが出ればまだしも、震災発生からわずか3時間では売り買いの決断を下せるはずもない。 プロであるはずの機関投資家でさえ判断がつきかねている様子で、商いも閑散となっている。 しかし、こうした中で猛然と買い人気を集めた業種があった。 建設株である。 大成建設、鹿島、清水建設、大林組のいわゆるゼネコン(総合建設)を始めとして、不動建設、五洋建設など、関西に地盤のある建設会社や港湾工事に強みのある企業が軒並み高に買い進まれた。 兜町は古来、生き馬の目を抜くといわれる。 暴れた馬の目を射るほどしたたかなつわものがいる町という意味である。 大量の死者が出ているにもかかわらず、経済への影響が憂慮されている状況でも、この場面で儲かりそうな企業を一瞬にして選別し、命から2番目に大切であるはずのお金を惜しげもなく投資する。 ここはそういう町なのである。 投資家は今後想定される「復興需要」を早くも織り込み始めたのだ。 あれだけすごい震災なのだから、きっと復興にかかる資金規模も政策支援もスケールの大きなものにはずだ。 震災発生後わずか3時間で投資家はそう判断したに違いない。 電話取材をしていた同僚記者の田代節也はやや青ざめた表情で受話器を置いた。 「中井戸ちゃん。 建設株の買い注文誰が入れているか知っているか」。 「目ざとい個人投資家ってところじゃないのか」。 「それはそうなんだが、不動建への大手N証券経由の注文は神戸支店からの取次ぎらしい。 被害の少なかったのは金持ちが多く住む芦屋地区だって、さっきテレビでもいってたろう。 その高台に住む連中が、臨海地区や住宅密集地域の悲惨な状況を見て、N証券の神戸支店に押しかけてきたっていうんだ。 支店は休むつもりだったらしいが、お客の数が多くて急きょ開店したってわけだ。 電話が通じなくて、直接足を運んだということだろう」。 「そして、その金持ち連中が買い注文を出したのが不動建を始めとした建設株とういうわけだ」。 「まあそういうことだ。 おれもこの商売に入って長いけど、投資家というのは自分の利益のためなら何でもありというのを改めて認識したよ。 死人が山ほど出ているのに、それを好機ととらえる。 マスコミの端くれとしては、なんだか微妙な感覚だね」と割り切れなさそうにつぶやいた。 人の不幸ですら、自らの利益獲得のチャンスととらえる、兜町の真骨頂ともいえる現象である。 株価が上がりそうなら買い、下がりそうなら売る。 投資判断には情緒的な感傷や、政府の意向といった大儀名分は入る余地はない。 ひたすら自らの利益のために動く。 これが相場というものなのだ。 胎動(5) 証券金融新聞は株式投資情報の専門紙で、部数はトップ。 唯一全国販売を行っている。 部数トップとはいえ、バブル経済の崩壊後はジリ貧続きで、現在ではピークに比べて約4割減の9万部前後をうろついている。 為替、債券を扱う金融部や企業回り担当の会社部、マーケット担当合わせても記者30名。 全社でも200名に満たない小さな所帯である。 日高は今日の紙面をどうするか考えた。 田代ではないがマスコミの端くれとしては、被害状況にかんがみて建設株の急騰を煽るわけにはいかない。 しかし、ストップ高が続出している建設株の、実際の値動きを伝えないわけにもいかず、さじ加減が重要になる。 手の空いている記者に「調査機関に取材して、経済に与える影響を聞け。 まだ、数字なんかは出るわけないので、消費心理などへの懸念など、大雑把な感想でいい」、「各証券の被害状況もできる限り入手しろ」などと矢継ぎ早に指示した。 記者は兜町の地回り取材に向かったり、追加の電話取材に追われた。 実際、証券各社では被害状況の調査に追われていた。 大手、準大手といわれる証券会社は全国に支店網があるため、関西地区にも数多くの拠点がある。 総務スタッフは社員やその家族の安否に加え、支店の入っている建物の被害状況、さらには本社と支店を結ぶコンピュータの状況などを一刻も早く把握する必要に迫られていた。 今日は休業するにしろ、顧客の注文回線の確保は証券会社にとって、まさに生命線である。 また、事業会社の被害にも気を配らなければならない。 自らが幹事証券を勤めている会社の動向次第では、資金調達の方策を練らねばならないからだ。 そうした市場関係者のあわただしい動きの中、芦屋地区から海岸方面をじっと見続ける男がいた。 震災の発生直後からまんじりともせずに仁王立ちとなり、時刻はすでに昼を回っていた。 火災はさらにひどくなり、空には報道のヘリコプターが十数機、蝿のように飛んでいた。 眼下には救急車や消防車、それにパトカーの回転灯が無数に見えた。 サイレンの音も時間を追うごとに大きくなっていく。 兜町から姿を消してからおよそ20年。 人々の記憶からはすでに消えているのかもしれなかったが、この男は歴史的な瞬間に遭遇し、運命のようなものを感じていた。 そして、この一ヵ月後、東京に向かう新幹線の中にいた。 男の名前は佐藤崇といった。 胎動(6) 株式市場では震災をきっかけに建設株が急騰したが、それ以外の銘柄は、やはり震災による景気の落ち込みを懸念した売りが出て、相場はさえない動きとなっていた。 94年に日経平均株価は2万1000円台に乗せたものの、震災を契機に2万円台の大台も割り込み、下値模索を余儀なくされていた。 1月末になって証券金融新聞社では兜町の安居酒屋で遅めの新年会を開いたが、出るのは部数の減少を愚痴る声ばかり。 この日は編集局が中心だが、販売局や広告局からは「編集が面白い記事を書かないのが部数減少の要因」と戦犯扱い。 全社の会議ではデスクの日高や総合キャップの中井戸が吊るし上げられるのがパターンとなっていた。 中井戸は「せめて個別材料株や仕手株でもにぎわってくれれば、個人投資家の部数は増加するのに」と焼酎を煽りながらつぶやけば、日高は「証券会社に売上を頼る販売方針こそ問題ではないか」などとすでに酔って赤い顔をしかめた。 こうした状況では他の記者も意気消沈で、悪い酔いばかりが進む。 ただ、株式専門紙の宿命は相場が上がれば新聞が売れ、下がれば減るという、典型的な市況連動型産業であるという点だった。 個人投資家は株価が上がれば投資の情報を得るために新聞を購入するが、下落局面では自分の保有する銘柄の株価すら見たくなくなるという構図なのである。 記事の良し悪し以前に、株価の状態なのだった。 「株式市場は経済を映す鏡」といわれるが、バブル経済崩壊の後遺症に加えて阪神大震災の影響が重なり、鏡は下向きを映すばかり。 安居酒屋からカラオケへ、そして最後は上野のスナックと飲み歩いても皆の気分は晴れない。 挙句には記者同士の言い争いになるという、後味の悪い新年会になってしまった。 胎動(7) ビジネスホテルに部屋を確保し、さらに飲むという他のメンバーから別れ、中井戸はタクシーを拾った。 自宅が同じ方向の紺野という若い記者が小走りに「私も乗せてってください」と車に近寄ってきた。 もう終電車は出た後で、帰る方法はタクシーしかなかったし、これ以上記者連中と杯を重ねても、話題が明るい方に向かうとは考えられなかった。 紺野が乗車するのを確認して、運転手に「JRの阿佐ヶ谷駅まで、お願いします」と自宅最寄の駅名を告げ、煙草に火をつけた。 今日3箱目となる煙草の煙を大きく吸い込み、外の風景に目をやった。 そこで紺野が、「中井戸さんがさっきいってた、仕手株というのは何ですか」と聞いてきた。 入社3年目の紺野は、株式市場で仕手株が動くのをみたことがないという。 中井戸は「うん。 まぁ、株式市場にたまに咲く、一種のあだ花のようなものだな」とぼやかし、「そんなことより、君は事業会社回りを進めるべきだ」などとよせばいいのに、中年のおやじよろしく、説教じみたことをいった。 自らが上司から説教されることが嫌いなたちだけに、中井戸は自分の発言にその場で落ち込み、そして、煙草を灰皿に押し付けて消すと、思い直して仕手についての輪郭を語り始めた。 兜町では特定の団体・グループや個人が自らの利益を得るために動かす株式のことを仕手株と総称する。 そもそも、仕手という呼び名は日本の伝統芸能である「能楽」・「狂言」からきているといわれる。 能の舞台を演じるのは「シテ」と「ワキ」で、これはどの舞台でも同じ。 シテは舞台の主役を指し、ワキは文字通り脇役を意味する。 能・狂言の主役を張る「シテ」が転じて、「株式市場という舞台で主役を演じる」のが仕手(シテ)になったというわけだ。 仕手の漢字も能の世界で当てられた。 仕手が操る「仕手株」の歴史は古く、戦後の1949年(昭和24年)に東京証券取引所(東証)の売買が再開された時点では既に登場している。 起源は戦前にさかのぼるわけだが、株式用語の多くがそうであるように、米など商品相場の中で生まれたようだ。 昭和初期に小豆相場で大きく儲けた投機家がいて、この人物のことを誰が命名するではなく「仕手」と呼んだとの言い伝えが、兜町には残っている。 材料株とは何か材料が出たときに、その将来性を高く買う投資家が出ると、思わぬ相場に発展するような銘柄をいう。 例えば、ある製薬メーカーにガンで有望な薬が出来そうだ、などとのニュースが報道されれば、将来多額の利益が計上されるに違いないとの見方が広がると、時に数倍の株価に暴騰するケースなどがそれだ。 仕手株にしろ、材料株にしろ、全般相場が軟調な時に活躍しやすい。 全般相場が上潮の場合には、何もリスクを冒してまで値動きの荒っぽい銘柄を買う理由が少ない。 逆にさえない相場が続くと投資家は、値動きのない主力銘柄を嫌って仕手株に乗る。 大物が介入した仕手株や、大きな材料がある銘柄が長い間人気を集めると、利益を上げた投資家が次の銘柄を物色することで裾野が広がり、場合によっては全般相場の立ち直りの契機を作ったりする。 株式市場とはそういう側面もある。 中井戸が「せめて仕手株でも」と口走ったのには仕手・材料株に一縷の望みをかけているマーケット記者ならではの、やや屈折した心理を表していたのである。 「お客さん、阿佐ヶ谷の駅に着きましたよ」という運転手の声で中井戸は目を覚ました。 紺野相手に仕手株のことを話しているうちに、いつの間にか寝てしまったらしい。 紺野も運転手の声で起きたようだ。 西荻窪に住むという紺野の家までに相当する運賃を紺野の手に握らせ、「次は西荻にやってください」と運転手に声をかけ、紺野にも「じゃあ……」と軽く挨拶をして、車を降りた。 もう一本、煙草に火をつけて自宅のアパートに向かって歩く。 そこで「そういえば、90年のバブル相場崩壊後は、まともな仕手株は登場していないんだよな」とつぶやいた。 株価の崩落もそうだが、実体経済の悪化で仕手筋の資金源と目されていた不動産やノンバンクなど金融業界が経営危機に陥り、株式どころではなくなっていたことが背景にある。 また、当局による証券取引等監視委員会の設置で、投機筋が動きにくくなったことも追い討ちをかけているのだった。 特定の銘柄の関与が著しくなると、5%ルール(発行株式の5%以上を保有した場合届出が必要)などで引っかかる。 そうした状況下で、本格的な仕手の登場は困難そうだった。 胎動(8) 中井戸はタクシーを降りると、北口方向にある自宅アパート方面に向けて歩き出した。 旧中杉通りにある、酒の置いてあるコンビニエンスストアでビールを買い、自宅アパートに戻った。 アパートは、築30年は過ぎていようかというぼろ屋で、駅からは徒歩で15分はかかる。 安いだけが取りえの1DKだ。 どうせ一人暮らしで、帰ってくるのは夜遅く。 週のうち3回くらいは証券会社の情報担当者や事業会社、投資顧問関係者などと情報交換ついでの飲み会が入っていたから、まっすぐに自宅に向かうのはせいぜい週に1〜2回だ。 土曜、日曜日も書きかけの原稿を進めたり、会社主催の株式講演会の講師に駆り出されたりして、大半は外出している。 そんな理由で日当たりにはとん着しなかったが、日当たりが悪い部屋というのはじめじめしたもので、しかも手入れなどしていないから帰宅は憂うつだった。 部屋にはマーケット関係の書籍などがほこりをかぶって散乱している。 アパートを見上げて、ひとつため息をついた。 意志を強くもってようやく玄関を明け、真っ暗の部屋に明かりとストーブをつけると、取りあえず缶ビールのプルトップを引き、喉を潤した。 「この部屋じゃ、会社の人間は呼べないな」。 紺野は別れ際に、一緒に車を降りてもいいかというような視線をよこしたようだが、それを振り切ったのには中井戸なりの理由があったのである。 中井戸は私立大学の法学部を1985年に卒業すると同時に、銀行系の証券会社に入社した。 兜町支店で個人営業に従事したが、バブル相場のはしりでもあり、株式手数料収入はそれなりに上げていた。 しかし、87年のブラックマンデー(米国株価暴落に端を発した世界の株価崩落)に遭遇。 証券業の先行きに疑問を感じて退社し、もともと調査畑志望だったこともあり、88年1月に証券金融新聞社に中途入社した。 以降は慣れない原稿執筆と格闘しながら、企業回りの企業部、債券・為替担当の金融部などを取材記者として歴任した。 証券会社時の同僚と87年に結婚したが、証券金融新聞に移ってからは忙しさもあってすれ違いが多くなり、結婚生活は5年間でピリオドを打った。 離婚の際のごたごたで預金の取り崩しを迫られたことも、安いアパートに決めた大きな要因となっているのだった。 明日は土曜日で本来は休みだが、調べものがあるために午後には出社しなければならない。 時間は午前2時を回っていたが、酔いが醒めつつあり、アルコールを再注入しないと眠れそうになかった。 ビールを飲み干すと、テーブルに置かれたウイスキーを洗っていない使いかけのグラスに注ぎ込んで、ストレートであおった。 経済新聞の夕刊をつまみ代わりに手に取り、ぼんやりと眺めた。 3杯目のグラスを傾け、意識が混濁していく中でも、株式市場を取り巻く状況や自分の人生の先行きへの不安感が頭をよぎるのだった。 胎動(9) 株式市場全般は2月から3月にかけてもさえない展開が続いた。 村山内閣の政策運営の混迷ぶりをマーケットが感じ取っていたことに加えて、1月の大震災が経済に与える影響の大きさが日々高まり、日経平均株価は1万5000円をかろうじてこらえているような状況だった。 そんな株式市場に3月20日、さらに社会を不安に陥れる事件が発生する。 地下鉄サリン事件である。 3月20日朝8時前後 営団地下鉄千代田線の霞ヶ関駅を中心とする電車内で、猛毒のサリンがまかれた。 官庁、大企業の従業員を狙ったもので、その狙い通り、満員の電車に猛毒は牙をむいた。 犯行はビニールに入れた液体サリンを傘でつつくという方法で行われ、車内は異常な臭いとともに悲鳴、うめき声に包まれた。 日比谷線の築地駅など合計5駅でほぼ同時に襲撃された格好となり、朝の首都圏は麻痺状態に陥った。 後にオウム真理教という宗教団体の犯行とわかったこの事件では、地下鉄職員、乗客に死者12名、重軽傷者5500名超という犯罪史上類を見ない、テロ行為だった。 証券金融新聞の整理部記者杉浦も被害にあった。 杉浦は日比谷線で通勤途中、不運にも築地駅で犯行が行われた電車に乗っていた。 ただ、現場とは遠い車両にいたために、病院にはいかずに、タクシーを拾って会社に直行した。 そして駅構内が大混乱となった朝の出来事を、興奮気味に周囲の同僚に話していた。 その時、不意に杉浦は、 「どうして部屋に電気をつけないの。 すごく暗いじゃないか」とつぶやいた。 同僚は「杉浦さん、何言ってるのよ。 電気はついているし、太陽だって差し込んでいるじゃないですか」といぶかしげに返事をした。 「そうなのか。 あれ、でもおかしいぞ。 どんどん暗くなっていく」 周囲はそこで異常に気づいた。 「杉浦さん、もしかして、サリンにやられているんじゃないのか。 おい、誰か、救急車を呼べ。 急いで」 救急車で運ばれた杉浦は、精密検査の結果は異常なく、眼球の洗浄とその後の点眼薬だけで治癒できる見通しになった。 しかし、杉浦の一件は、ごく微量のサリンでも失明を意識させた今回の事件の恐ろしさを物語るものとなった。 同じ年の5月16日にオウム真理教教祖の麻原彰晃(本名・松本智津夫)が、ようやく逮捕された。 それでも、麻原から指示を受けた信者が、どこかでまた無差別殺人を起こすのではないかという懸念が、消えたわけではないのだった。 阪神大震災に続く、オウムサリン事件という立て続けに起きた歴史に残る天災、犯罪は、国民の消費や企業の設備投資意欲に大きな影響を与えた。 将来的に何が起きるかわからないという心理状況をかもし出し、消費は低迷、設備投資も落ち込む傾向を示し始めた。 バブル崩壊後やや持ち直しつつあった経済が停滞してしまっては、株価の上昇など期待できるはずがないのである。 4月入っても株価の下落が続き、マーケット関係者の中には92年のバブル崩壊後の最安値1万4309円を割り込むとの観測すら出始めた。 92年は宮沢喜一内閣の金融引き締めなどの失政により、株価の下落を招いた局面だ。 株価の下落も投資家にとって痛手だが、さらに深刻だったのは出来高の減少である。 1日の出来高が1億株に満たない日もあるなど不振を極めた。 証券会社の採算ラインが4億株といわれていたから深刻である。 証券会社は市場が開けば開くほど赤字が増加するという悪循環に陥った。 安くなれば買いたいという投資家はいるはずだったが、政府がPK0(プライス・キーピング・オペレーション=株価維持策)を行っており、当局の買い支えで不自然な株価形成となり、市場参加者が激減してしまったのである。 雑誌や一般マスコミが当時、「株式の死」と呼んだ惨状だった。 出来高は88年のバブルのピークには28億株に達していたのが、たった1億株にも届かないのである。 現在ではなんとか3〜4億株の商いとはなっているものの、相次いでメガトン級の悪材料が出現しているだけに、懸念は現実味を帯びつつあった。 そんな時期の編集会議が盛り上がるはずもない。 3月決算企業の決算発表は5月末に集中するが、その人員のやりくりや、5月に遊軍が取り組む企画などが話し合われたが、部数増加の決定打についてはやはり出ないのだった。 そんな沈痛ムードの中、中井戸の隣に座っていた若手の記者が暇をもてあましたようにこちらを向いてささやいた。 「中井戸さん、佐藤崇って知ってますか」 えっ、と中井戸は顔を若手記者のほうに向けた。 「佐藤がどうしたって」。 「いや、昨日中堅証券の株式部長とお酒を飲んでたんですが、その時に佐藤崇が復活した。 相場が少しは面白くなるぞっていうんです」 「佐藤が復活したって。 奴は刑務所から出てきているのか。 そうか、もう10年以上になるんだものなぁ」 「知っているのですね。 で、誰です?佐藤って」 「昔活躍した仕手筋だが、仮に今戻ってきたからといって、もう盛りは過ぎたんじゃないかな」 「へえ、有名人なんだ。 その人」 その場は、中井戸が会議の発言を求められたことで、話は立ち消えになった。 しかし、帰宅途中、中井戸は佐藤崇が復活したとは酒の席の戯言だろうと思いながらも、心に引っかかるものを感じていた。 佐藤崇といえば、株式市場では伝説の仕手グループを率いた総帥で、野島鉄鋼の株価を釣り上げたことで名を挙げた。 中井戸が証券界に身を投じる前のことなので、もちろん自分で野島鉄鋼の相場を見たわけではない。 しかし、今でも取材先の証券会社では、「あの佐藤の時は……」などと歴史の教科書のように語られる人物であり、グループなのだった。 しかし、彼は相場操縦かなにかの罪で逮捕されたのではなかったか。 大きな社会問題にもなっただけに、一般の新聞にも出ており、中井戸は新聞でも読んだ気がする。 もし、その佐藤とやらが本当に帰ってきたとしても、株式市場に影響を与えるだけの力量が残っているのだろうか。 中井戸は今ひとつ、ぴんとこなかった。 胎動(10) 数日後、和泉証券投資情報部長の石川敏夫から電話がかかってきた。 「中井戸くん、佐藤崇が『一声の会』というのを作ったの知っているか」 「佐藤って、あの佐藤ですか。 『いっせいのかい』とはどういう字を書いて、何をする会なのでしょう」 「一声は漢字の一に声、会合の会だ。 何をするつもりか知らないが、入会金はいらないそうだ。 知らないんだったら、入会勧誘書が手に入ったので、今からファックスするよ。 とりあえず、それをみて、何か新しいことがわかったら、連絡をくれ。 程なくしてファックスの機械が「ジ、ジー」と音を立て始め、数枚の紙が吐き出されてきた。 すべての受信が終わるのももどかしく、中井戸は受信されたものから順次読み始めた。 日本のGDP(国内総生産)成長率はバブル崩壊後大きく落ち込み、このままではマイナスになる可能性もあります。 失業者は二百万人に接近し、今後もさらに増える見通しです。 その影響をもろに受けているのがサラリーマンで、当然とはいえベースアップはありませんし、働けるだけでも幸せというのが現状です。 これに呼応するように個人の貯蓄額は一九六三年以来初めてマイナスとなりました。 私の人生経験からいくばくかでも、皆様方のお役にたてるのではないかと思ったのです。 不遜ないい方だと思われた方は、どうぞお気を悪くしないでください。 少しでもこの会に参加される方々のお役にたちたいと、心から願っております。 何年後か、何十年後かに『一声の会』に入っていて良かったと思って頂けるように頑張りたいと思います。 一緒に勉強していきましょう。 きっといずれ、あなたの心になにかが響くに違いありません。 お待ち申し上げております。 追伸 『一声の会』ではあなたのお金を預かることは致しません。 あくまでも勉強のためのサークルです。 入会金、会費なども頂きません。 お気軽に、またご自由にご参加ください。 日高は中井戸よりも7歳年上なので、佐藤についての知識や情報量は多いはずだ。 日高は一通り読んだ後、 「まず、この入会勧誘は本物なのかを調べる必要がある。 次に、本当に無料の勉強会なのか。 前回の仕手グループの時には特別会員、A会員、B会員、一般会員とランク付けして、それに応じた会費を徴収していたはずだ」 「ランク付けですか」と中井戸が口を挟む。 「そうだ。 佐藤が仕手グループ『日誠』というのを率いて、野島鉄鋼株の仕手戦をやったのを憶えているか」 「私は直接には知りませんが、いろいろな人から概要は聞いています」 「その時、相場に勝つ寸前に会社側の増資と大手証券の売りという攻撃を食らって潰されたんだ。 そして脱税で捕まった。 当局では本当は株価操作での立件を狙っていたんだが、証拠が不十分だったらしい。 佐藤を株価操作で立件したら、売り崩した大手証券も無傷では済まないという事情もあったとの指摘もある。 それはともかく、佐藤は検察庁で特別会員とA会員が誰だったのか、一切答えなかったという。 自分ひとりが罪をかぶったわけだ。 これが佐藤の名前をさらに市場で広めることになった。 特別会員には政治家や事業会社のオーナーなんかが数多く登録されていたというからな」 日高と中井戸の会話を聞きつけて数人の記者が回りを取り囲み始める。 その中の一人、紺野が聞いた。 「じゃ、B会員とか一般会員というのはどうなっていたのですか」 「仕手グループにとって、言い方は悪いが雑魚なんだ。 月額いくらとかのわずかなお金しか払っていない連中が対象だが、特別会員が最優先情報を入手し、順に伝達が遅くなる。 つまり、最後に買わされる投資家ということになる。 その人たちは佐藤を相当に恨んでいるじゃないかな。 でも、このファックスが本物だとしても、本当に無料なのか。 よくわからんな」 そこで紺野が「私、佐藤を取材してみようかな。 その瞬間、日高の血相が変わった。 椅子を蹴って立ち上がり、 「だめだ、絶対にだめだ。 それだけは。 俺たちは証券専門紙の記者なんだぞ。 一般紙の連中が興味半分に行くのは構わないが、それを俺たちがやったら致命傷になりかねない。 それがわからんのか」日高の顔は怒りで高潮し、机の上で握ったこぶしが震えている。 そして、「いいか紺野」と説き伏せるように説明を始めた。 証券専門紙は独自に取材して、ある企業が面白そうだと思ったら、その企業の記事を大きな扱いで掲載する。 これは広告局の圧力もなければ、証券会社の営業戦略にも乗せられない、編集局の独自の方針で決められる。 そうでなければ個人投資家はついてこないし、原稿の信ぴょう性を疑われる。 ましてや仕手筋との関係が、取材という形でもできてしまえば、大きく扱った記事が、「どこかで仕手とつながっているのではないか」との疑念を生みかねない。 実際には関係なくても、仕手側が「あの記事は実はうちが書かせた」などと悪意の情報を流さないとは言い切れないのである。 日高の強い口調はそういう意味だったのである。 日高の怒りが説教口調になったところで、各記者は自席に戻った。 そこで中井戸は、知り合いの投資顧問社長の朝原に電話をした。 投資顧問とはいっても、大量の資金を動かすような大手ではない。 一任勘定(投資家から直接お金を預かって運用する)免許のない助言業務(銘柄の情報を提供する)だけの小さな投資顧問である。 「朝原さん、佐藤崇が動き出したのを知ってますか」 「何となくは聞いている。 一声の会とかを作ったんだろ」 「さすがに情報が早いですね。 そこで、折り入ってお願いがあるのです。 気は進まないかも知れませんが、その一声の会に入会してもらえませんか。 会のうたい文句には無料なっていますが、もし、費用が発生するようなら、私が責任をもって負担します。 もちろん、交通費などの雑費もです」 電話口の向こうでは少し考えている様子だったが、しばらくして 「わかった。 そこで情報を取って来いというわけだな。 もしかしたら自分の仕事にも役に立つかもしれないし、やってみようか」 「ありがとうございます。 ついでといっては何ですが、適当な名前でもう一人分、入会しておいてもらえませんか」と、日高や紺野の視線を気にしながら付け加えた。 「何かあれば、あんたも出てくるというわけか。 それでさらにやる気になった。 くれぐれも、金は頼んだぜ」といって朝原は電話を切った。 その時、横で田代がこちらを向いて、何もいわず、にやりと笑った。 胎動(12) 2月中旬 佐藤崇は都内のホテルに長期滞在の契約をして、見晴らしの良い一室に収まった。 ベッドルームのほかに、やや広めの応接セットや事務机も備わっているセミスイート級の部屋だ。 仲間である数人のグループと銘柄や相場形成を考える拠点として、また来客も多く予想されることから、その事務所として使うには十分な環境だった。 佐藤はベランダに出て、深呼吸をし、これからの戦略をもう一度、頭の中でトレースした。 場所はアメリカ大使館に程近い山の手で、オフィス街や永田町にも至近で、今後の仕事を考えると立地条件も申し分がない。 あらかじめ送ってあった荷物をおおまかに整頓すると、早速、電話を掛け始めた。 まずは永田町である。 「先生、この間お知らせしましたように、東京に出て参りました。 大倉ホテルに部屋を取ってあります」 電話の先は大臣経験のある民自党の有力代議士である。 「ほう、相変わらず、やることは素早いねぇ。 で、どうなの。 本当に、また動くつもりなのか」 「はい、仕掛けようと考えている銘柄の大株主には既に売却の意向を取り付けてあります。 ここは是非、先生にもご登場頂きたく、ご検討をお願い申し上げます」 「そうか。 でも君、こんな重要な話は電話ではできないなぁ」 「もちろん、しかるべき場所で、じっくりご説明させて頂ければと考えております。 いつごろなら、お時間を頂戴できるでしょうか」 「わかった。 今日中にも連絡する」 「はい。 こちらの電話番号は53・・・・・・です。 では、連絡お待ちしています」 電話を切ると、すぐに次の代議士に連絡を入れる。 そして次は野党議員。 電話の先は時に資産家だったり、時には兜町の関係者だったりしたが、電話の相手の対応は大半が好感触といえるもので、面談や酒の席の予定が着実に手帳のスケジュール欄に積み上げられていった。 前回の15年前の仕手戦で逮捕されたときに、厳しい取調べに耐え、資金源について一切口を割らなかったことの信頼感が残っているようだった。 時を経て一線から身を引いたものも少なくないが、一方で、当時若手だった人物は着実に地位を上げている。 佐藤は当時と同じような仕掛け、いや、それ以上のことができる自信が湧いてきていた。 なにしろ、仕掛けについては前回検挙されたという反省を踏まえて、この一ヶ月間知恵を絞りに絞った。 相場の終わり方の絵図はきちんと描いたし、幾度もシミュレーションを繰り返した。 その自信が佐藤にはあったのである。 数日後、大臣経験のある代議士と、平河町からやや離れたところに位置する小ぶりな料亭で宴席を設けた。 かつても通った、口の堅さでは実証済みの料亭である。 床の間を背にした議員に向かって、佐藤はまず、「先生、大変ご無沙汰をしておりました。 ご活躍はテレビや新聞で拝見いたしておりましたが、お元気そうで何よりです」とお世辞に聞こえないように気を使いながら挨拶した。 そして、ビールのお酌をし、仲居に「とりあえず日本酒を熱燗で3本持ってきてくれ。 料理はここに並んでいるだけでいい。 先生と大事な話があるから、呼ぶまではこないように」と指示した。 仲居が日本酒を持ってきて、部屋を出ると、佐藤は周りを確認し、ふすまをゆっくりと閉めた。 そして、向き直り、「ご検討を頂けたでしょうか」とおずおずと尋ねた。 「うん、でもね、佐藤君。 君が証券界で大暴れしたおかげで、証券取引法も当時よりずいぶん厳しくなっているし、本人確認などの口座管理も面倒なことになっている。 そういうことは大丈夫なのか」 「おっしゃるとおりです。 しかし、手は十分に打つことができます。 既にカリブ海に浮かぶケイマン諸島に投資会社を作りました。 ここはタックス・ヘイブンで、49人以下の出資であれば、資金の出所や運用成績などを開示する必要がありません。 欧米のヘッジ・ファンドが同様の手法をとっているほか、経営危機に陥った国内上場企業が、名前を出したくない第3者から資金調達する際にも使われています。 」 タックス・ヘイブンとは税制上の優遇策を講じている国や地域を指す。 先進国の資金を呼び込むことで、法人数を増加させて税金収入を狙っている。 商品相場や株式、為替など利益の出そうな投資対象にレバレッジを効かせて投機を仕掛けるヘッジ・ファンドが設立されることで有名なのがケイマン諸島なのである。 日本でも転換社債を、ここを経由して発行する企業が多いが、割当先は日本企業というのが大半。 ケイマン諸島を通すことにとり、匿名性が確保できることが魅力となっている。 証券取引法は佐藤の仕手相場事件が社会問題になったことによって規制された経緯がある。 さらにはバブル崩壊以降の国内の証券会社では、大手証券を始めとする証券不祥事が相次ぎ、口座の本人確認が厳しくなった。 80年代までは本人確認の書類提出は義務付けられておらず、極端な話、飼い猫の名前でも口座を作ることができた。 また、証券界の隠語で「白封」というのがあり、売買報告書を自宅に郵送せず、顧客本人に直接手渡しするケースもあった。 これなら、家人に知られることなく株式の売買ができる。 佐藤はこうした規制に影響を受けない、海外での投資法人設立に動いたのだった。 佐藤自身、15年前に匿名性の高い割引債券にして、当局の目を逃れた軍資金を、既にこの投資法人に流し入れることに成功している。 こうした一連の経緯を代議士に説明した。 「なるほど、仕組みはわかった。 で、いくら資金があれば相場が張れるんだ。 前回のこともあるから、信頼はしているが、リターンはどの程度期待できるのか。 表の金は当然ながら、出せないしな」 「金額はお任せしますが、前回同様、資金が多いほど相場の成功確率が上がることをご理解ください。 政治資金収支報告書に記載していない、別勘定のお金を振り向けていただければと存じます」 「わかった。 今後は秘書と連絡を取ってくれ」 「ありがとうございます。 ご期待に沿うような結果を出すべく努力いたします」 佐藤は座布団を外し、丁寧に頭を下げた。 そうして、ふすまを開け、「おい、先生に料理の続きをお出ししてくれ」と声を掛けた。 佐藤はこうした宴席を、3月上旬まで続け、目論見通りの資金を集めていったのである。 蠢(うごめき)(1) 3月下旬の週末を利用して中井戸は大阪と神戸に向かった。 マスコミ人として街の状態をひと目見ておきたかったし、証券金融新聞社・大阪支社の被害状況や、取材先である北浜の証券会社の様子を確認することも目的だった。 震災直後のマスコミの取材が批判の的となっていたとも聞いていたので、しばらくは遠慮していた面がある。 巨大マスコミは目の前に苦しんでいる人がいても、テレビカメラにそれを収めることに専念し、被災者を助けようとしない。 また、自分たちは十分な防寒具を着ながら、ストーブもない避難所の被災者に無遠慮にマイクを向けたりする。 あるいは新聞社のヘリコプターが大空を何機も飛んでいるのに、物資援助のヘリは一機もないことなど、マスコミの対応のひどさに対する事例には枚挙にいとまがないほどだった。 しかし、阪神大震災から2ヶ月余りが経過したことで、ようやく行くことを決めたのだった。 金曜日の夜に北浜に本社がある中堅証券の株式部長とJR大阪駅で待ち合わせ、まず現在の復旧状況の大まかなレクチャーを受けた。 その際に念を押されたのは、「くれぐれも好奇の目で人々を見ないこと。 取材のような口調で市民に接しないこと」だった。 2ヶ月が経過しても、心の傷がいえるということがないということを、肝に銘じた。 その後、大阪支社に寄り、再会を喜び合った。 賃貸の建物は見た目には被害がないようだったが、よく見ると細かいひびが入っていたり、建てつけがゆがんだりしていた。 大阪支社は支社長と記者2名、営業2名という小さな所帯。 震災直後に谷川という女性記者から水がなくても使えるシャンプーを送ってくれと頼まれていたのだが、宅配業者の輸送路が断たれており、要望に応えられなかったことを詫びた。 そして、居酒屋で震災以降の証券会社や事業会社の動向や、街の様子などを聞いた。 北浜よりやはり、神戸の復興が遅れているようだった。 ビジネスホテルに泊まり、翌日、神戸の三ノ宮駅で下車し、海岸のほうに向かって歩くと、神戸市役所は途中の階がつぶれ、道路も復旧しておらず、わき道は手付かずだった。 次に長田地区を訪れたが、壊れた建物の撤去は終わっていたものの、壊れかけの家屋はそのまま放置され、神社は傾いていた。 街全体がゆがんでいる印象で、前夜の酒は残っていないはずなのに、足元がふらつく感じを味わった。 ただ、コンビニは通常営業だったし、屋台のラーメン屋に人々が集まるなど、ライフラインは復旧しつつあるようだった。 カメラでの撮影は控えたが、心に目を通して見た映像が、しっかりと焼きついた。 阪神電車からの復興半ばの風景も、忘れられないものになったのだった。 蠢(うごめき)(2) 株式市場は新年度を迎え、5月を過ぎても、大震災や地下鉄サリン事件の影響による経済の先行き不透明感が拭えず、じりじりと下値を模索する展開が続いていた。 一方、米国株式市場は93年に登場したクリントン政権が着実な手腕を発揮し、年初から株価は大幅に上昇し、ダウ工業株30種平均は連日のように史上最高値を更新している。 なんとも皮肉な状況で、証券会社の中には国内株に見切りをつけて、米国株の推奨に乗り出すところも出る始末だった。 国内の投資資金が日本株を買わず、米国株という海外に流れる。 これでは、なおさら日本株が上がる理由がなくなる。 米国ではゴア副大統領が提唱した「スーパー情報ハイウェー構想」が実を結び、インターネットが爆発的な普及の兆しを見せるなど、彼我の差が一段と広がる気配。 日本では村山内閣の弱体化も徐々に進展しているのだった。 佐藤崇が会員を募った「一声の会」の初会合が6月にも開かれる見通しと朝原から連絡を受けたのは5月も半ば。 ただ、相場に対する力量や出方がわからない状況で2ヶ月を越え、中井戸玲次の中では会の存在感は徐々に薄れていた。 おりしも、5月中旬以降は企業の3月決算がピークとなるため、マーケット取材よりも事業会社取材が忙しくなり、どうなるかわからない過去の仕手筋の動向など、構ってもいられないという事情もあった。 そのような状況が続き、6月に入ったばかりの4日。 朝方、市場関係者から中井戸に一本の電話が入った。 受話器を取るなり、「今日発売の月刊誌、『投資時報』を見たか」とやや興奮した大声が耳に飛び込んできた。 やや受話器を放し気味にして、「いえ、見ていませんが」と答えた。 「佐藤崇がその雑誌で、インタビューを受けている」 「え、本当ですか」 「本当だ。 やる気かどうかはわからんが、一応銘柄まで出ているんだ」 「そうなんですか。 今から、買いに行って、読んでみます。 では、とりあえず電話切りますね」 「何かわかったら連絡をくれよな」 「了解です」 中井戸は受話器を置くと、振り返って事務の女性に「月刊・投資時報という雑誌を買ってきてくれないかな」と頼んだ。 銘柄が出ているとしても、自身が売り抜けるための手段かもしれないな、などと思いながら、途中だった仕事を続けた。 蠢(うごめき)(3) ほどなく、事務の女性が帰ってきて、くだんの雑誌を中井戸に手渡した。 中井戸は1000円札を取り出し、「ありがとう。 お釣りはいらないよ」と例を言って、さっそく雑誌を開いて、記事を探した。 そこにはすぐわかるほどの大きな見出しが躍っていた。 長い低迷が続いている株式市場。 その中で、『兜町の風雲児』佐藤崇が再び動き出した。 わが『投資時報』では独占インタビューに成功!佐藤氏はその中で胸の内を熱く語った。 一声の会設立の経緯と、現在の株式市場についてお聞かせください。 これが株式市場の下げにつながっているわけですが、今こそ、ビタミン剤を投与して、遅滞した経済に活力を与え、健全な市場経済へと蘇生させるための適正な政策を、迅速に実行させるべきです」。 「しかし現状は、投資家にとって厳しい状況です。 株式投資をしても一向に利益を上げることができない。 いや、買えば買うほど損失を抱えてしまうような環境なのです。 ただ手をこまねいている訳にも参りません。 私は一寸の虫のような存在ですが、五分の魂があります。 私にも、何かできることがあるのではないか。 このことを訴えたくて、会を作りました」。 今の買い手不在の原因は、証券市場がもはや魅力的でないから、買い手に『買いたい』という欲求を起こさせるものがないからです。 でも、よく見てください、と投資家の皆様に私は言いたい。 全部が全部下がっているわけではないですよ……と。 実体価値の変化とともに、投資の原点に返って研究すれば、買える銘柄必ずあるのです。 野中の一本杉があることを認識することで、投資家が帰ってくれば、杉は1本が2本に、2本が3本に、そしてそれは林となり、いずれは森となるでしょう。 それが私たちの考える市場活性化です。 個人投資家一人一人が着実に力をつけていく市場を蘇らせるために、勉強会を作りました。 それが一声の会です。 会員の方々と親しくしていきたいという目的で、毎月1回ほどのフォーラムというか、簡単な会合を開催したいと思っております。 入会手続きはこちらから送付する案内書に記入して返送していただくだけです。 入会金は不要ですし、もちろん、株券やお金を預かることなどは致しません」。 健康について、宗教観について、あるいは趣味についてなど、投資家同士のふれあいの場を提供することも、大きな役割ではないでしょうか」。 貴方が豪腕を発揮した昭和54年(1979年)の野島鉄相場のこと。 そして、その後の逮捕のことです。 当時、佐藤さんは「日誠」という投資グループを率いておられましたね。 今回の一声の会も、投資集団にするおつもりではないのですか。 私は昭和48年(73年)に証券界に入り、コミッション(歩合手数料制)の証券マンになりました。 私の推奨する銘柄が当たるようになり、ありがたいことに、お客さんが増えていきました。 投資顧問会社だった日誠グループはそうしたお客さんのひとつです。 だから、私が率いたという表現は正しくありませんし、日誠からお金をもらったこともないのです。 ただ、野島鉄株は発行済み株式数の約5割を買い集め、経営権を取得しようとした点で他の銘柄とは違いました。 誤解のないようにしておきますと、私たちは会社側に株式を高値で買い取らせるために集めたとか、誰かに肩代わりさせるつもりだったとうことはありません。 ただ、株主の権利をおろそかにするなということを経済界に問いかけたかったのです」。 「私たちは名義を出し、株主総会に出席して株主への利益還元を主張しました。 安定配当とはいえ、内部留保が厚く、株主を大事にしていないと感じたからです。 私たちが経営すれば、思い切った増配ができる。 この点を主張したつもりでしたが、会社側やマスコミの方々は『脅し』ととってしまいました。 しかし、野島鉄はその後に実質増配と倍額増資を行います。 私は、主張が通ったと感じましたが、どういうわけか大手四証券による売り崩しの動きが出て、野島鉄の相場は終わりました。 本来ならば、株価は増配と倍額増資を評価していたのでしょうが、私が財界や金融界のこと、世の中の裏のことを知らないばかりに、当時の会員の方にご迷惑をおかけしました。 そして、忘れもしない81年の2月。 東京地検特捜部による40億円の脱税容疑で、私は逮捕されました。 40億円という金額は見たこともありませんし、一介の証券マンだった私がそのようなお金を動かせるはずもありません。 当然のことながら私自身に対する脱税容疑は無罪でした。 私の無罪や勝訴が、マスコミによって報道されることはありませんでしたが……。 一連のことを、いまなお「野島鉄事件」と称される方がありますが、それも私の不徳のいたすところです」。 「ですから、一声の会は誤解を招くような集まりにするつもりは毛頭ございませんし、設立の趣旨からもあくまで、個人投資家の方の集まり、親睦団体となります」。 中井戸はここまで一気に読み進み、「おいおい、誤解していただと。 インタビュアーが相手方のペースにまんまと乗せられてどうする」と怒気の含んだ声を出した。 中井戸も入会の勧誘文書を入手して以降、過去の新聞のスクラップをひっくり返したり、国会図書館などにこもって勉強したりした。 確かに無罪だったし、その後の民事裁判にも勝った。 しかし、あれは紛れもなく「事件」だった。 当時をよく知る証券マンによると日誠は発行株式の5割以上の株数を買占め、水面下で会社側に買取りを迫ったということだった。 これに窮した会社側は大手証券に泣きつき、土壇場で倍額増資、すなわち、1株50円で発行株式を2倍にするという奇策に打って出た。 資金繰りがいっぱいいっぱいだった日誠はこれに応じるすべがなく、株式を投げ売りするしかなかったという。 これが相場終結の真相なのだった。 大手証券では一斉に空売りを仕掛け、日誠という名の佐藤グループの処分売りが一巡したところで、悠々と買い戻した。 佐藤が野島鉄を自在に操っているときに、マスコミに登場し「大手4社といえども、私たちのグループにちょうちん(追随買い)を入れる」と豪語したことがある。 これが大手証券幹部の逆鱗に触れ、相場を押しつぶす要因にもなっていたことは、市場関係者の間では常識だった。 そういう過去がありながら、今度はどういう相場を作るのか、ここが市場関係者の最大の注目点になっている。 蠢(うごめき)(5) 中井戸はさらに読み進めた。 天災の前に私たち人間は無力です。 神や仏に手を合わせることぐらいしかできません。 当日私も神戸で被災しましたが、幸いにも被害は少なくて済みました。 その中で、震災の復興を資本市場から支えることができないか。 祈り続けました。 祈り続けたことで、仏の思し召しが聞こえ、私の生きる道を見付けられたのでした。 注目点は同社が扱っております新建築材「AQC」の将来性です。 AQCはリグニン酸スルホン塩とカルシウムが水和化合を起こし固まります。 今までのコンクリート製品は強アルカリの溶出が起こったり、石灰が溶け出して強度が不足するなど経年変化によっていろいろな障害をもたらすという欠点がありました。 しかし、AQCはカルシウムを添加することにより、成分の溶出を抑えることに成功しました。 アスファルトへの応用も計画中です。 震災の復興に役立つうえ、他の地域への需要も見込まれます。 日本は地震列島の異名を持つほどです。 次の大地震に備えるためにもAQCが有効だと考えています。 今3月期の業績も2ケタの経常増益見通しで、増配予想です」。 680円が現在値で、前日比35円高。 そして、主力取引市場が東証ではなく、大証だったことを思い出した。 丸松農林の本社は大阪が創業の地であり、そのため、大阪証券取引所での出来高が多い。 確認すると大証の今日の寄付きは650円。 やはり現在値は680円だったので、雑誌を見てから飛び乗った投資家も少なからずいるようだ。 端末をさらに叩き、年初からの株価の値動きを追った。 「佐藤はどこから仕込み始めていたのか」。 株価の値動きを示すチャートを見ると、2月4週目、3月1週目に出来高が50万株を超し、それらしき形跡がみえる。 このときの株価は300円〜350円。 佐藤の買いで相場が動き始めたのは間違いない。 ここで買っていたとしたら株数は合計で100万株前後。 しかし、種玉(たねぎょく)、すなわち相場を仕掛けるための仕込み株式としては十分とはいえそうになかった。 「残りは保有していた金融機関などから、場外で買ったのか」。 中井戸は思いを巡らせたが、今後の相場展開については考えあぐねていた。 雑誌を読み終えた田代がこちらに首を回し、「どうも、これまでの仕手株とは様子が違うよね」とつぶやいた。 「本来は絶対表に出てこない本尊が、堂々と雑誌のインタビューに応じ、しかも個人投資家の応援団みたいなことを言っている。 もしかしたら、佐藤は改心して、本当に親睦団体を作るだけかもしれないぜ」。 中井戸は「それより、この雑誌が大丈夫なのか。 絶対表には出てはいけないはずの本尊を堂々と掲載するなんて、何か裏があると勘繰りたくもなる」。 横で紺野が、恨みを含んだ目線をデスクの日高の方に向けていた。 佐藤を取材したいと申し出て、先日こっぴどく怒られただけに当然ともいえた。 日高はというと、そ知らぬ顔で新聞のゲラ刷りをチェックしている。 しかし、どこからか圧力がかかったのか、中井戸の言うとおり、数ヵ月後にこの雑誌は休刊となる。 雑誌の部数は相当に出たであろうが、売れれば良いという論理が通じないのは、やはりかつての仕手筋の首謀者を掲載したからなのか、中井戸や田代といった現場クラスではわかりようもなかったのだったが……。 蠢(うごめき)(6) 雑誌への掲載を契機に、丸松農林株はじりじりと株価を上げ始めていた。 佐藤崇の復活を信じて買っている投資家も多く存在するのだろうが、その大半は疑心暗鬼の状態であることが株価の値動きから伺われる。 信じている投資家が大量に存在するのであれば、買いが買いを呼び、株価は急騰するはずだからだ。 値動きが良いので買ってはみたものの、利益が出ればすぐに売る。 そういう投資家が多いことを株価は示している。 それでも、下値を少しずつ、しかし着実に切り上げ、株価は一週間で700円台半ばの水準に到達した。 そうした中で、中井戸は関東財務局に出向き、丸松農林の大量保有報告書と有価証券報告書の貸し出しを受けた。 予想通りというか、大量保有報告書を見ると丸松農林の大株主だった生命保険会社の約350万株の株式が売却されていた。 報告義務の発生日は3月19日。 丸松農林の発行済み株式数は5,900万株なので、これは発行株式数の5.9%に相当する。 一方、5%ルールに新規に抵触している法人や個人はない。 大量保有報告書とは5%を超える株式を保有した場合、関東財務局に報告書の提出が義務付けられている書類。 80年代に頻発した株式の買い集めに対応するために、90年に証券取引法の改正で始まったものだ。 一般的には5%ルールと呼ばれている。 5%を超えている限り、1%以上の変動でも常に報告する義務があるため、上場企業サイドは買い集めの状況が把握でき、それに対する対抗策なども取りやすい。 80年代は前半に佐藤を含めた仕手筋が活躍、後半に入るとバブル景気とともに不動産会社などの収益が膨れ上がり、こうした企業に中には上場企業の株を買い進むところが相次いだ。 株式市場では個人の仕手筋と区別するために「仕手法人」と呼ばれ、実際に上場企業を買収するケースも少なくなかった。 未上場の不動産大手が小売業界の再編を旗印にスーパー株を片端から買い占めたり、居酒屋チェーンや消費者金融が大仕手戦を繰り広げたりした。 また、89年にかけてブーン・ピケンズ氏が小糸製作所の株式を買って株主総会に乗り込み、提案を否決されると米国に帰ってロビー活動を展開。 日本の資本市場は開かれていないとして、一時は日米摩擦の火種になった。 しかし、これも国内の自動車販売会社がピケンズ氏に名義貸しした株式が基になっていたというのは株式市場では有名な話だった。 95年3月期の有価証券報告書でも生保の名前が消えただけで、それに見合うような新規の大株主は存在しなかった。 中井戸はその場でこの生保に電話した。 株式を売却した理由と相手先を聞くためだったが、応対した広報担当者は「個別の案件については答えられない」の一点張りだった。 良心的に解釈すれば大手でも経営が苦しい生保業界にあっては、期末の資金捻出のために保有株式を売却したということだろう。 だとしても市場で売ったのか、相対で売ったのか。 今年に入って丸松農林株式が、1日に350万株もの商いが行なわれた日がないことは確認していたから、常識的には相対で売却したとしか考えられない。 5%ルールでは、報告書への記載義務に違反した場合、「懲役3年以下または300万円以下の罰金」という罰則があるが、これが適用されたことは一件もない。 実質的には無法地帯となっており、もし佐藤が5%を超えて保有していて報告していなくても、事実上問題はないということになる。 中井戸は「あの佐藤のことだ、名義を散らすことなど造作もないことだろうが」と 心の中で思った。 しかし、種玉が既に仕込まれているだろうことは、この報告書で十分に理解できた。 名義を分散したのなら、それは佐藤を支えるグループが存在することを意味している。 野島鉄鋼株の仕手戦でも複数のグループで仕掛けていたことを考えると、むしろ単独で動いていると考える方が、中井戸には無理があるような気がしたのだった。 株価はその後も上下動を繰り返しながら、上値を追う動きを続けていた。 信用取り組みも改善し始め、少しずつ仕手株という条件を満たしていくような気がした。 信用取組とは信用取引の売り買いの状態を示す。 上がると思った投資家は証券会社からお金を借りて株を買う。 これが信用買い。 下がると思った投資家は株券を借りて売る。 現金や保有株式だけでは物足りない投資家が利用する投機的な売買手法である。 取り組みとは買いの残高合計株式数を売り残で割って求める。 通常は買い残高の方が多く、買い残高が3で売りが1なら、取り組みは3倍ということになる。 売り残が多ければ小数点になるわけだ。 将来の株価に強弱感が対立してくると、信用取り組みが1倍に接近してくる。 信用取引は6ヶ月以内に決済しなければならず、信用買いは将来の売り要因、売り残は買い戻し要因ということになる。 売り残高が多くなった段階でもし、株価が急騰すれば、売り方は損失を覚悟で買い戻しにかかる。 そうすると株価がさらに上昇するが、これを業界用語で「踏み上げ」という。 仕手株は業績面や株価の刺激材料が乏しいのに上昇するケースが圧倒的に多い。 どこのグループが仕掛けているとか、大物投機筋が買っているようだなどという観測で買われるためであり、人気が短命と思えば空売り(信用売り)をする投資家が増加するためだ。 ただ、例えば外国人投資家の継続買いに大型優良株が意外な高値に進むこともあるのが株式市場というところ。 このような場合に信用売りがかさみ、買戻しに突飛高をしたときも、仕手化するという表現を用いる。 つまり、上場している企業は全て仕手化する可能性を秘めているということも出来るのだった。 これから、丸松農林がどうなるのか、誰にもわからない。 雑誌に出てきた株価の材料が本物かも判定は不能だ。 しかし、株価はじり高となっている。 空売りをする動機付けは十分ともいえる。 一方、過去の信者がお金を借りてでも丸松農林を買っている。 低迷が長引く株式市場でこの銘柄に賭けてみるという人たちが集まってくるのも長年この世界に入れば理解されるのである。 丸松農林が単なる市場のあだ花なのか、それとも大きく育つのか。 それは一声の会の会合がカギを握る可能性がある。 そして、「7月上旬第一回会合が開催される」との朝原からの連絡が、中井戸にあったのは6月も終わりのころだった。 蠢(うごめき)(6) 雑誌への掲載を契機に、丸松農林株はじりじりと株価を上げ始めていた。 佐藤崇の復活を信じて買っている投資家も多く存在するのだろうが、その大半は疑心暗鬼の状態であることが株価の値動きから伺われる。 信じている投資家が大量に存在するのであれば、買いが買いを呼び、株価は急騰するはずだからだ。 値動きが良いので買ってはみたものの、利益が出ればすぐに売る。 そういう投資家が多いことを株価は示している。 それでも、下値を少しずつ、しかし着実に切り上げ、株価は一週間で700円台半ばの水準に到達した。 そうした中で、中井戸は関東財務局に出向き、丸松農林の大量保有報告書と有価証券報告書の貸し出しを受けた。 予想通りというか、大量保有報告書を見ると丸松農林の大株主だった生命保険会社の約350万株の株式が売却されていた。 報告義務の発生日は3月19日。 丸松農林の発行済み株式数は5,900万株なので、これは発行株式数の5.9%に相当する。 一方、5%ルールに新規に抵触している法人や個人はない。 大量保有報告書とは5%を超える株式を保有した場合、関東財務局に報告書の提出が義務付けられている書類。 80年代に頻発した株式の買い集めに対応するために、90年に証券取引法の改正で始まったものだ。 一般的には5%ルールと呼ばれている。 5%を超えている限り、1%以上の変動でも常に報告する義務があるため、上場企業サイドは買い集めの状況が把握でき、それに対する対抗策なども取りやすい。 80年代は前半に佐藤を含めた仕手筋が活躍、後半に入るとバブル景気とともに不動産会社などの収益が膨れ上がり、こうした企業に中には上場企業の株を買い進むところが相次いだ。 株式市場では個人の仕手筋と区別するために「仕手法人」と呼ばれ、実際に上場企業を買収するケースも少なくなかった。 未上場の不動産大手が小売業界の再編を旗印にスーパー株を片端から買い占めたり、居酒屋チェーンや消費者金融が大仕手戦を繰り広げたりした。 また、89年にかけてブーン・ピケンズ氏が小糸製作所の株式を買って株主総会に乗り込み、提案を否決されると米国に帰ってロビー活動を展開。 日本の資本市場は開かれていないとして、一時は日米摩擦の火種になった。 しかし、これも国内の自動車販売会社がピケンズ氏に名義貸しした株式が基になっていたというのは株式市場では有名な話だった。 95年3月期の有価証券報告書でも生保の名前が消えただけで、それに見合うような新規の大株主は存在しなかった。 中井戸はその場でこの生保に電話した。 株式を売却した理由と相手先を聞くためだったが、応対した広報担当者は「個別の案件については答えられない」の一点張りだった。 良心的に解釈すれば大手でも経営が苦しい生保業界にあっては、期末の資金捻出のために保有株式を売却したということだろう。 だとしても市場で売ったのか、相対で売ったのか。 今年に入って丸松農林株式が、1日に350万株もの商いが行なわれた日がないことは確認していたから、常識的には相対で売却したとしか考えられない。 5%ルールでは、報告書への記載義務に違反した場合、「懲役3年以下または300万円以下の罰金」という罰則があるが、これが適用されたことは一件もない。 実質的には無法地帯となっており、もし佐藤が5%を超えて保有していて報告していなくても、事実上問題はないということになる。 中井戸は「あの佐藤のことだ、名義を散らすことなど造作もないことだろうが」と心の中で思った。 しかし、種玉が既に仕込まれているだろうことは、この報告書で十分に理解できた。 名義を分散したのなら、それは佐藤を支えるグループが存在することを意味している。 野島鉄鋼株の仕手戦でも複数のグループで仕掛けていたことを考えると、むしろ単独で動いていると考える方が、中井戸には無理があるような気がしたのだった。 株価はその後も上下動を繰り返しながら、上値を追う動きを続けていた。 信用取り組みも改善し始め、少しずつ仕手株という条件を満たしていくような気がした。 信用取組とは信用取引の売り買いの状態を示す。 上がると思った投資家は証券会社からお金を借りて株を買う。 これが信用買い。 下がると思った投資家は株券を借りて売る。 現金や保有株式だけでは物足りない投資家が利用する投機的な売買手法である。 取り組みとは買いの残高合計株式数を売り残で割って求める。 通常は買い残高の方が多く、買い残高が3で売りが1なら、取り組みは3倍ということになる。 売り残が多ければ小数点になるわけだ。 将来の株価に強弱感が対立してくると、信用取り組みが1倍に接近してくる。 信用取引は6ヶ月以内に決済しなければならず、信用買いは将来の売り要因、売り残は買い戻し要因ということになる。 売り残高が多くなった段階でもし、株価が急騰すれば、売り方は損失を覚悟で買い戻しにかかる。 そうすると株価がさらに上昇するが、これを業界用語で「踏み上げ」という。 仕手株は業績面や株価の刺激材料が乏しいのに上昇するケースが圧倒的に多い。 どこのグループが仕掛けているとか、大物投機筋が買っているようだなどという観測で買われるためであり、人気が短命と思えば空売り(信用売り)をする投資家が増加するためだ。 ただ、例えば外国人投資家の継続買いに大型優良株が意外な高値に進むこともあるのが株式市場というところ。 このような場合に信用売りがかさみ、買戻しに突飛高をしたときも、仕手化するという表現を用いる。 つまり、上場している企業は全て仕手化する可能性を秘めているということも出来るのだった。 これから、丸松農林がどうなるのか、誰にもわからない。 雑誌に出てきた株価の材料が本物かも判定は不能だ。 しかし、株価はじり高となっている。 空売りをする動機付けは十分ともいえる。 一方、過去の信者がお金を借りてでも丸松農林を買っている。 低迷が長引く株式市場でこの銘柄に賭けてみるという人たちが集まってくるのも長年この世界に入れば理解されるのである。 丸松農林が単なる市場のあだ花なのか、それとも大きく育つのか。 それは一声の会の会合がカギを握る可能性がある。 そして、「7月上旬第一回会合が開催される」との朝原からの連絡が、中井戸にあったのは6月も終わりのころだった。 蠢(うごめき)(7) 株式市場は相変わらずさえない動きが続いていたが、7月3日に日経平均は1万4485円41銭という安値を付けた後、ぼんやりとだが戻し始めた。 丸松農林という人気銘柄が出てきたことで、大型株は動かなくても、材料株などに個人投資家の打診買いが入り始めたことが、全体の株価にもいい影響を与え始めているようだった。 7月1日からはディーラーの規制緩和が行われ、その日の新値を買っても良いというルールが適用されたことも後押し要因になった。 それまでは値段の付いた価格でしか売買できず、自らが当日の高値を買うとか、安値を売りに行くということは禁じられていた。 大手4社を中心にマーケットの低迷に危機感を抱き、当局に掛け合って認めさせたルールだったのである。 見方によってはその効果が早くも出てきた。 ディーラーとは証券会社の自己売買部門のことで、所属する証券会社のお金を短期的に運用する人を指す。 彼らは基本的に1日で一定の利益を出すことを求められる性質上、値動きのある銘柄を買う傾向が強い。 業績や新たな材料が手がかりの、材料株が同意付くのは個人投資家に加えて、ディーラーの存在も大きいと考えられた。 そうした地合いにあった7月10日、都内港区のホテル「トークラ」で、一声の会の第一回会合が開催された。 中井戸は投資顧問経営の朝原繁とともに、会場に向かった。 営団地下鉄神谷町の改札を抜け、階段を上がって表に出ると、既に夏の日差しが二人に降り注いだ。 坂を上がってホテルに着くと、「一声の会、初会合会場(2階大ホール 於午後2時)と書かれた大きな看板が出迎えた。 その看板を確認して入場する人数は相当な数に見受けられた。 二人も紛れ込むようにホテルに入っていった。 佐藤崇のインタビューが雑誌に掲載されてまだ2週間で、投資家の関心も高く、会場は1000人はいるのではないかという混雑ぶりだった。 会合出席にあたり、中井戸は朝原繁に頼んで、他人の名前と住所を登録してもらって、入場券を入手した。 実名で応募しては記者であることが気づかれる可能性があるし、そうなると今後の取材がやりにくくなる。 また、読者に対して記者が仕手筋と関係があると疑われては、新聞への信頼感が損なわれる危険性があった。 それでも面が割れる可能性があるため、中井戸は目立たないように地味なスラックスとジャンパーという軽装姿を選択した。 さらに帽子を深めにかぶってエントランスホールに入っていったのだった。 ホテルの宴会場に足を踏み入れて、まず目に付いたのが壇上に置かれた巨大な仏像である。 高さは4メートルもあるだろうか。 やさしげな表情をたたえ、左手親指を右の掌(たなごこころ)で包むような手の合わせ方をしている。 朝原は「あれは大日如来だね。 光り輝き、遍く照らすという意味がある」と年配者らしい知識を披露した。 中井戸は「はあ。 仏像にもいろいろあるということですね」とそっけなく答えると、「だめだな、今の若い者は」と仏像を見ながらつぶやいた。 朝原によると、大日如来は宇宙における森羅万象のすべての徳を顕したものであり、釈迦や観音も根本は大日如来なのだという。 「これから、何をしゃべるかしらんが、大日如来を選んだ佐藤のセンスはなかなかのものじゃないか」と一人納得している。 その仏像の周りには白い布が縦横に配置され、それなりに荘厳なムードをかもし出していた。 二人は残り少なくなった空席に陣取り、佐藤の登場を待った。 周囲を見渡すと50〜70歳と見られる男性の姿が多く、中には若い人や女性の姿も散見された。 この中にはかつて佐藤が率いた投資集団「日誠グループ」の会員もいるのだろうか、と中井戸は思った。 予定の午後2時を過ぎたころ、会場の電気が一斉に消され、真っ暗になったかと思うと、例の仏像だけにスポットライトが当たり、神々しさを増した。 会場がどよめき、その声が収まったころ、いつの間にか、佐藤が壇上に現れている。 佐藤にスポットライトが当たったのである。 写真との比較でしかないが、野島鉄相場を仕掛けた15年前と、あまり変わらない印象を受けた。 佐藤は仏像の前では違和感のあるような青の光沢のあるスーツ姿だった。 中央で深々と頭を垂れ、顔をゆっくりと上げ、場内を確かめるようにさらに時間をかけて見渡した。 しばらくあって「私は生かされています」と第一声を挙げた。 蠢(うごめき)(8) 「私は1月17日、忘れもしない阪神大震災の起きたあの時刻、神戸の自宅で寝ていました。 ゴーッ、という地鳴りに異変を感じて目を覚ました瞬間、突き上げる揺れがきて、後は必死に体を支えるだけでした。 いや、支えきれず切れずにのた打ち回り、体を丸くしてなすすべなく耐えるだけでした。 地震であるという自覚はありましたが、それは、神様が与えた試練、私の人生の至らなさを叱られているような気もしました。 もっとも、それは後からそのように思っただけで、その時は本当に身を小さくしてうずくまるばかりだったのです。 経験したことのない巨大な揺れは、数分間の出来事だったのでしょうが、私には気の遠くなるような時間に感じました。 ここで佐藤は声を詰まらせ、天を仰いだ。 しばらくは涙をこらえるように、両手を壇上につき、やや胸をそらせるように天井付近の照明方向をじっと見やった。 そして、続けた。 「巨大な揺れが収まったころ、私は自分の手が動くこと、足が動くことを丁寧に確認しました。 次にゆっくりと起き上がり、両方の手で体に異変がないかを点検したのです。 どうやら助かったと感じられた次に、周囲を見渡しました。 たんすが倒れ落ち、窓ガラスが割れていました。 たんすの上に乗せていたものが散乱していました。 この日、神戸にいたのは私だけで、妻や子供は東京に居りましたので、とりあえず家族の心配が要らなかったのは幸いでした。 もちろん、関東に被害がなかったことは後で知ったのですが。 顔に温かい感じがしました。 拭ってみると血でした。 倒れた家具が頭にぶつかったようですが、不思議と痛みは感じません。 立ち上がってタオルで血を拭き、割れた窓ガラス越しに外を見ました。 そこには悲惨な光景が広がっておりました。 我が家はちっぽけな家ですが、高台にあります。 日の出が始まったばかりの空は夕焼けのように赤く、眼下を見ると火の手が上がっておりました。 火の出ていない場所では住宅地だったところが、がれきの山となっておりました。 ここで私は初めて、巨大地震が起こったことを認識したのです。 隣近所に目を移すと、幸いなことに周辺は、うちも含めて家が傾いたり、ガレージが壊れたくらいで済んでいるようでした。 普通の地震ならそれでも大きな被害でしょうが、わずか数百メートル下の地獄のような被害状況と比較するとあまりに軽微です。 ニュースを見るためにテレビをつけようと思いましたが、やはり停電でしたし、電話もつながりません。 どうしようかと考えながら、それでも事態を把握しきれずにしばし呆然としておりました。 その時、突然、『私は生かされている』と感じたのです。 大勢の人が亡くなったことは明らかです。 中には優秀な人も、立派な地位にあった方もおられたでしょう。 何のとりえもなく、疑いは晴れたものの、一時は刑務所に収監されたこともある、私のような人間が生き残ってしまった……。 これは、神様か、仏様かはわかりませんが、何らかの、見えない意思によって生かされたのではないかと思ったのです。 私のような小さい人間でも、他人様のために何か役に立つことがあるのではないか。 それが生かされた要因であるのなら、その意思に従ってみようと」。 蠢(うごめき)(9) 言葉をいったん区切ると、聴衆をゆっくりと見渡し、その後仏像のほうに向き直り、顔をしばし仰ぎ見て、手をあわせてからさらにゆっくりとお辞儀をした。 佐藤が数分間じっとしている間、1000人以上の聴衆は波を打ったような静けさで佐藤の次の言葉を待っている。 株式投資の話を聞きに来たはずの人々だったが、朴訥に語る佐藤の人間性に惹かれていったのである。 中井戸は「完全に佐藤のペースだ」と思ったが、会場の静かな熱気にやや押され気味でもあった。 佐藤が聴衆の方にもう一度向き直ると、心なしか吹っ切れたような表情になった。 「そこで、私にできますことといえば、少しばかり株式投資をかじったことぐらいです。 株式投資とはご存知の通り、企業に資金を投じることにより、その企業の発展に寄与し、その流れが大きなものになれば、日本の経済の建て直しにも貢献することができます。 銀行がお金を貸すという間接金融なのに対し、証券市場は直接金融という形で、直接企業に資金を回すことができるのです。 日本経済はバブル崩壊後低迷を続けており、設備過剰、失業者の増加、賃金の減少など企業もサラリーマンも厳しい生活を強いられています。 地価の下落にも歯止めがかかりません。 そうした中での今回の震災は、経済状況をさらに押し下げてしまうかもしれません。 株式投資を通じてこうした状況を改善できないものか、それを考えるのが私の使命だと確信しているのです。 しかし、私一人では絵に描いた餅です。 そこで、皆様と一緒にどのようなことができるのかを考えていくのが、この会の趣旨です。 企業が伸びれば株主には配当や株式の値上がり益という形で還元されます。 伸びる企業が増加すれば産業が活性化し、経済も元気を取り戻すでしょう。 まずはその第一歩を踏み出すべく、皆様にお集まりいただきました」 佐藤がここで会場を見渡すと同時に照明が付いた。 再度佐藤が頭を下げると、会場からは万雷の拍手が沸き起こった。 どうやら、ここでいったん休憩に入り、個別の銘柄については後半に話すようだ。 どうせ丸松農林だろし、付随の銘柄については朝原に聞いてもらえばよい。 朝原に「すいません、明日の原稿の用意もありますので、私はお先に。 新しい銘柄が出たら、連絡をお願いします」といって、中井戸はホテルを後にした。 中井戸とすれば、佐藤の顔を見ることが大きな目的だったので、成果は十分といえた。 それに、この後、個人的な用事もあったのである。 蠢(うごめ)き(10) その日の夕方、中井戸玲次は日本橋にある和紙の老舗「はいばら」という店の中にいた。 2ヶ月ぶりにある人物と会うためだ。 朝原には会合を抜け出す際に「仕事がある」という理由を使った。 もちろん書きかけの原稿はあり、それはこなしてきた。 急ぐ仕事ではなかったが、会合の後に朝原から「ちょっと一杯行こうか」などと誘われては断るのが面倒なので、中座したという方が当たっている。 待ち人は成田空港からJRに乗り、品川駅で都営浅草線に乗り換えて江戸橋駅(現在の日本橋駅)に着く。 わかりやすい場所としてここを指名してきたのだった。 中井戸は仕事を早退してでも成田まで迎えに行くつもりだったが、日が悪かった。 さらに「貴方も仕事が忙しいんでしょ」という気遣いもあり、この店で待ち合わせることにしたのだった。 18時の待ち合わせ時間に5分と遅れることなく、佐伯由美子は、はいばらに着いた。 中井戸は折り紙を見るとはなしに、店の外を気にしていたので、由美子が入ってくるのはすぐにわかった。 しかし、相手に自分を見つけてもらいたくて、声をかけられるのを待っていたのだった。 由美子に後ろから「お待たせ」と声をかけられ、驚いたような演技をし、「よう、久しぶり」と答えた。 そして、「これ、日本を忘れないためのプレゼント」と和紙で出来た人形を差し出した。 普通のやりとりだが、日々取材と原稿に追われる中井戸にとって、由美子のためにプレゼントを選ぶことは、新鮮な作業だったのである。 雑談の後、中井戸は由美子に「腹は減っているのか。 それともすぐに飲もうか」と聞いた。 由美子は「うーん。 どっちもだね」と微笑み返した。 「じゃ、築地に行こう」と店の外に連れ出し、タクシーを拾った。 運転手に「築地の交差点まで」と伝え、「元気だったか」と尋ねた。 由美子は「うん、まあまあ」とそっけなく答えながら、中井戸からもらった着物姿の紙人形を両手で包み込むように眺めていた。 タクシーはほどなく築地に到着し、中井戸が行きつけの寿司屋の暖簾をくぐった。 とりあえず生ビールと刺身の盛り合わせを頼んだ。 時を置かずにビールが来ると、二人はグラスを合わせ、久々の再会に乾杯した。 由美子は欧州系で世界最大の通信社に勤めている。 現在は政治部門担当の記者で、アジアの首脳の動向などを取材している。 海外に出れば1〜2ヶ月は帰ってこないが、帰国のたびに一献酌み交わす程度の間柄だった。 中井戸とは5年位前に、由美子が国内担当で、同じ電機セクターの担当記者という時期に知り合った。 由美子は中井戸の5歳年下の28歳だが、電機担当の記者としてパーティーなどで一緒になるうち、話が合うこともあり定期的に会うようになった。 それは、お互いの部署が変わっても続いている。 恋愛関係というわけではない。 中井戸は一回目の結婚に失敗してから、女性には臆病になっていたし、佐伯由美子は一流の国立大学出身で一流のマスコミに在籍。 当然ながら英語にも堪能だ。 対して中井戸は二流の私立大学の出で、しかも業界紙という引け目もある。 会っていて心は安らぐのだが、次の一歩を踏み出す勇気もないのだった。 しかし、由美子はそういうことに頓着しないのか、日本に帰ってくる時期になると中井戸に電話してくる。 優秀で性格もいい由美子のことだから、彼氏がいないと考えることの方が、無理があるともいえた。 その後、寿司の握りを頼み、お互いの近況を話すうちに日本酒の杯を重ねていった。 ふと時計を見ると、時間はあっという間に10時になっていた。 回りにいた客も既におらず、店員は店じまいをしたそうな雰囲気を見せていた。 築地の夜は早い。 市場が早朝から開くので、準備が深夜から始まるためだ。 中井戸の仕事も朝早いために、一軒で打ち上げということになる。 会計を済ませて外に出る。 たいした話はしていないようだが、中井戸は日ごろのストレスが抜けるような気がした。 そして、それは由美子と会うたびに、毎回そう思うのだった。 蠢(うごめき)(11) 由美子は日比谷線で日吉まで帰る。 時間的に送っていけないし、そういう関係でもない。 二人は日比谷線の築地駅に向かって歩き始める。 今回は韓国からの帰国で時差ボケはないはずだが、「今日は酔ったみたい」と赤らめた顔を中井戸のほうに向けた。 うれしい半面、やや戸惑いもあり、中井戸は築地駅の方に向けて足を踏み出した。 その時、思いがけず由美子が中井戸の手を握ってきたのである。 その手を振り払う勇気もなく、お互い黙ったまま、しばらく歩道を歩いた。 日比谷線の築地駅では中井戸は茅場町へ、由美子は反対の神奈川県方面の電車に乗る。 中井戸は何かを言わなければとあせりながらも、気の利いた言葉が出てこない。 企業や証券会社取材では脳で考えるよりも先に電話のプッシュボタンを押し、すぐに取材先に向かう仕事ぶりが嘘のように、こう着してしまっている。 握りあった手が汗ばんでいるのは、初夏という天候のせいばかりではなく、それを悟られまいとするほど、中井戸の汗腺は活発に活動するようだった。 二人は手をつないで、そのままゆっくりと歩き続けて築地駅にまで来た。 そして神奈川方面行きのホームに回り込む。 電車が来て由美子が乗り込む寸前に、ようやくという感じで「今日は本当に楽しかった。 ありがとう。 また、会えるね」と話しかけた。 由美子はそれで納得したのか、「うん」とようやく明るい表情を見せ、手を離して電車に乗り込んだ。 そしてドアが閉まり、姿が見えなくなるまで、中井戸に手を振り続けたのだった。 中井戸はうれしくも、あまりに突然の由美子の行動には戸惑いを隠せない状況の中を、反対側のホームに向かい、帰路についた。 茅場町で東西線に乗り換え、阿佐ヶ谷に着く。 相変わらず汚れ切った部屋に入ると、ふと、大掃除をしなければと思い、その直後に今度は「おまえは何を考えているのだ」と戒める言葉が脳裏をよぎる。 ウイスキーをロックで飲みながら、ひとり苦笑したのだった。 蠢(うごめき)(12) 翌日の朝、朝原からは丸松農林のほかに、半導体製造装置メーカーのアジア産業と、検査装置の日本アベロニクス、それに漁業の極東が取り上げられたこと、それと第二回会合については追って通知すること、そして会報の発行を考えていることの3点が電話で伝えられた。 勘が鋭い朝原は、最後に「中井戸君、なんか機嫌が良いようだが、昨日あれから何かあったのか」と聞いた。 中井戸は取り乱しそうになりながら「いえ、昨日の会合で朝原さんの仏像に関する知識豊富さを知ったので、ちょっと尊敬しているんですよ」とかわした。 その後、アジア産業やアベロニクスなどの株価は上がるには上がったものの、やはり本命は丸松農林であるらしく、着実な上昇トレンドを描いていた。 出来高を見ても、他の2銘柄とは比較にならない多さだった。 上昇とともに8月8日には大証金(大阪証券金融)から日々公表措置がとられ、9月13日には大証から信用規制が実施された。 日々公表とは通常週に一回の信用取引残高の発表が毎日行なわれることで、信用規制とは信用取引を行う際に現金担保の割増など一定の制限措置がとられることである。 いずれも空売り残高が増加している証拠で、株価の過熱指標である一方、売り方が一層厳しくなっている様子が伺える。 市場の格言に「逆日歩に買いなし」というものがある。 日歩とは信用取引を行っている買い方が支払う金利のこと。 売り方が株式を貸す形になっているので、金利相当分を受け取れる。 しかし信用取引で売り買いが拮抗すると証券金融会社が空売り株券の調達に苦労するようになり、本来売り方が受け取るはずの金利を支払わなくてはならなくなる状態になることがある。 これが逆日歩である。 逆日歩になるくらいに売り方が増加しているのなら、そろそろ相場は天井を付ける。 これが「逆日歩に買いなし」の語源だ。 しかし、これは一般的な相場の話。 丸松農林のように意図的に仕掛けられた相場では、買い方がまず信用買いしておいて、これを現物株券として引き取るという「現引き決済」という方法で、市場から株券を吸収する。 これにより売り方の株券調達は一気に苦しくなるうえ、逆日歩がつき、踏み上げを誘発させたりする。 ある銘柄を空売りしていたとして、逆日歩が仮に3円だとしよう。 1000株売っていたら1日当たり3000円を支払う義務が生じる。 しかも取引のない土日分まで払わなくてはいけない。 10万株なら1日30万円だ。 これに耐え切れなくなって損をしてでも買戻しをせざるを得ない状態になる可能性があるのである。 3月24日に今年の安値389円を付けた丸松農林は佐藤の雑誌インタビューでの注目銘柄となったことで700円台に乗せた。 そして、一声の会の第一回会合以降は上げ足を速めて、8月に入ると1500円台とさらに2倍以上になっている。 売り方の悲鳴が聞こえてくる状況だった。 その後一時下落し、1200円台まで下げた局面では「旅人の止まり木」と題された会員リポートが配られた。 内容は佐藤崇が生かされているという例の講演会の内容に加えて、健康法などが書かれているものなのだが、その最後に丸松農林のほか数銘柄が淡々とした会社紹介として掲載されている。 会員の中には丸松農林を売って利益を出し、次の銘柄を欲している者もおり、そうした会員には別の銘柄を紹介する必要がある。 会合でもそうだったように、これも重要なポイントだ。 しかし、仕手筋には本命銘柄があり、残りは全て周辺銘柄的な位置付けというのがこれまでの仕手株相場の経験則なのである。 蠢(うごめき)(13) 丸松農林という仕手株が登場し、一部の玄人投資家がこれに便乗する格好で相場に参加し始めた。 中には佐藤の出た雑誌を読んだり、会合に出て疑いなく丸松農林を買った素人の投資家もいるに違いない。 しかし、どういう形であれ、株式市場にお金を投じる個人投資家は増えつつある。 そうした状況を映してか、7月3日に日経平均株価が1万4485円という底値をつけた後は戻し歩調になっていた。 佐藤が意図したものかどうかはともかく、個人の資金で相場が反転に向かっている。 相場が上がると思えば、投資する人数は一層増えてくる。 丸松農林を買えない投資家はアジア産業を買い、そうでない投資家は15年前に佐藤が手掛けた実績のある銘柄を買う。 過去に買った株なら、また買うかもしれないという幻想なのだが、そう考える人数が増えると動き出すのが相場というものだった。 物色の流れが横へ広がることで、相場全体にも好影響を与えているのだった。 こうなると、一般の銘柄でも新製品開発などのニュースが出れば反応が良くなる。 仕手相場は材料株相場へとさらに発展する勢いを見せ始めたのである。 8月下旬なると、丸松農林はいったん1840円まで買われ、その後乱高下した。 市場関係者の中には「丸松相場は終わり」と見る向きも増加したが、その中で和泉証券投資情報部長の石川敏夫だけは強気の見通しを崩していなかった。 中井戸の取材に対し、石川は「仕手株が本当に育つ時には何度かの『振るい落とし』という状況が出てくる。 今はその振るい落としの時期ではないか」というのが、いくつもの仕手株相場を見てきた、ベテラン証券マンの見解だった。 振るい落としとは、株価の先高期待が強いと現物、信用に限らず、買ったら売らないという投資家が増加する。 仕掛けている方にとって見れば、これ自体は悪いことではない。 しかし、自分たちが買いたいと考えても、売り物が出にくくなってしまい、相当に高い株価を買いに行かざるを得ないというジレンマが生じる。 振るい落しとは、こうしたちょうちん(提灯)筋を投げさせて、相場の仕切り直しをするという意味である。 ちょうちん筋とは本尊の力量を信じて買っている追随投資家のことを表す。 暗闇でちょうちんを手に持ち、どこにいるかわからない本尊を頼ってついていくということであり、追随買いを入れることを「ちょうちんをつける」という。 振るい落しは買いの手を緩めると同時に、売りを出して相場を一時的に冷やすという方法が一般的だ。 2週間程度乱高下を繰り返すと、信用の買い残高が減少し、ちょうちん筋が振るい落ちたことを確認できた。 この間に売り残高も減り、結果として信用規制も解除された。 佐藤のグループは、当然ながらこの場面で持ち高をさらに増やしたに違いないのである。 そして、丸松農林株の本当の快進撃が始まった。 疾風(1) 8月下旬に1210円で底を入れた丸松農林株は9月の声を聞くと再度騰勢を強め、10月に入ると先の高値1840円を更新した。 ふるい落としを終えて動きやすくなったことに加えて、この間、数回にわたって開催された一声の会の会合や、折に触れて出されるリポート「旅人の止まり木」も株価の上げ要因になっていることは明らかだった。 中井戸は第1回会合の後は面が割れるのを警戒して出席していないが、投資顧問経営の朝原を送り込んでいたので、情報は逐一報告される。 費用は中井戸持ちというのが当初の約束だったが、今のところ、交通費など一切の請求はない。 朝原の会社は投資家からお金を預かって運用するというような大手投資顧問と違い、助言業務のみの零細投資顧問である。 証券界では通称、「街の投資顧問」と呼ばれる。 収入は顧客向けに銘柄のリポートを出したり、ダイヤルQ2サービスといわれる有料の電話サービスなどが大半。 顧客は全て個人投資家ということになる。 毎回、会合に出席している朝原は、リポートやQ2で会合の内容を伝えているに違いなく、一方、朝原の顧客にとっても今はそれが最も知りたい情報ということになっているのである。 おそらく、朝原の会社は今回の一声の会旗揚げ以降、相当な数の新規顧客の開拓に成功し、会社の利益も上がっているはずだ。 その会合出席のきっかけは、中井戸からの会合に出席してくれないか、との依頼だった。 最初は費用持ちという言葉で大した期待もなく出席したかもしれないが、今は商売のネタとしては最高の材料になっている。 もう、中井戸に費用の請求は不要なほど稼ぎ、むしろ恩義すら感じているかもしれないのだった。 これは朝原に限ったことではなく、第1回の会合から佐藤の様子を伺いに来た街の投資顧問関係者は多く、彼らは例外なく今回の丸松農林相場で潤っている。 中には佐藤崇のイニシャルを連想させる「Sの次の銘柄はこれだ」などといった怪しげなレポートを作り、客の呼び込みをするやからも出始めていた。 佐藤がこうした状況をあらかじめ想定していたかはともかく、彼らもまた、結果的に丸松農林の株価の煽り役を演じているのだった。 しかし、佐藤は会合で「丸松農林を買え」とは一度もいっていない。 これはその後の朝原からの報告でも確認している。 宗教めいた話をして、健康のための食べ物などの解説をし、最後に銘柄をいう。 このパターンは毎回変わってはいない。 丸松農林の話に入っても新建築材「AQC」の将来性を語り、現状を解説する。 雑誌掲載の時と同じように「AQCという建材は特殊な構造で固まります。 今までのコンクリート製品は強アルカリの溶出が起こったり、石灰が溶け出して強度が不足するなど経年変化によっていろいろな障害をもたらすという欠点がありました。 しかし、AQCはカルシウムを添加することにより、成分の溶出を抑えることができます」などとし、震災の復興に役立つうえ、他の地域での需要も見込めるというような一般的な説明をするだけ。 株価については、「株価というのは上がる時もあれば、下がる時もあります。 私はこの銘柄を良いと思うけれども、将来はわかりません。 高値を買わず、押し目がいいのではないでしょうか」などとまとめる。 ほかの銘柄についても同様なのである。 リポートも同様だ。 仕手本尊なら「3000目標で買っている」などといった威勢の良い言葉が出そうなものだが、そうした発言は一切ない。 逆に見れば「相場操縦」とか「風説の流布」といった、違法行為として罰することも難しい。 買う人はあくまで自己責任という状況をキープしているのだった。 会合は後ろに仏像を置くという形式で、一種の新興宗教のように見える。 宗教なら「信じるものが救われる」などと教えを説くのだろうが、第1回会合から出ている投資家は佐藤の言うことを「信じたものが救われた」のである。

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護衛艦はたかぜ型 画像集

しま かぜ

しまかぜ 基本情報 建造所 運用者 艦種 級名 建造費 692億8300万円 母港 所属 第8護衛隊 艦歴 発注 起工 進水 就役 要目 4,650 5,950トン 150m 最大幅 16. 4m 深さ 9. 8m 4. の2番艦。 艦名は「島に吹く風、島から吹いてくる風」に由来し、この名を受け継ぐ日本の艦艇としては旧海軍「」、「」に続き3代目。 5インチ砲による空包発射 「しまかぜ」は、に基づく計画4,500型護衛艦2312号艦 として、でに発注され、1月13日に起工され、1月30日に進水、1988年3月23日に就役し、同日付で隷下に新編された第63護衛隊に編入され、に配備された。 1番艦の「」より排水量が50t大きい。 これらはを「はたかぜ」までのホールス式からアドミラリティ式に変更したことによることと揚錨機や揚艇機を改善したことによるものである。 からの間、ターター装置装備認定試験 SQT のため、米国に派遣。 からの間、護衛艦「」、「」とともに米国派遣訓練に参加。 、護衛艦「はるな」、「」、「みねゆき」、「」、「」、「」、「」、補給艦「」、潜水艦「」とともに、方面に派遣され、からまで、(リムパック90)に参加した。 からまで、護衛艦「はるな」等と四国南方から沖縄東方に至る海域でアメリカ海軍とともに第78次対潜特別訓練を実施。 同年から護衛艦「」「」とともに米国に各種訓練従事のため派遣され、に帰国。 、「」の除籍に伴い、第63護衛隊が廃止となり第3護衛隊群直轄艦となる。 、「」の就役に伴い、第63護衛隊が再編され、編入された。 から22日にかけて・で行われたフィリピン海軍創立100周年記念国際観艦式に参加した。 、護衛艦「」等と共に、出港後、外洋練習航海部隊として東南アジア各地に寄港する。 、護衛艦「」、「」、「」、「」、「」、「」、「」、補給艦「」、潜水艦「」とともに環太平洋合同演習(リムパック2000)に参加するため横須賀基地を出港し、からまでハワイ周辺海域において同演習に参加した。 からの間、護衛艦「」、「」とともに米国派遣訓練に参加。 、に基づき、護衛艦「」、「」と共にに派遣。 同年まで任務に従事し、帰国した。 、第62護衛隊に編入され、定係港がへ転籍。 、護衛隊改編に伴い、第1護衛隊に編入。 6月22日から7月21日までの国際観艦式に参加、港とその周辺海域で行動した。 8月22日、日豪新共同訓練に参加するため、訓練海域であるから周辺で8月29日まで訓練を実施、8月29日から9月14日まで主催の多国間海上共同訓練「カカドゥ12」に参加した。 8月20日夕刻、にて岸壁に接触する事故を起こした。 負傷者は居なかったものの、艦尾左側が約5mに渡って歪み3cm程度の穴が数箇所発生した。 また、同年午前8時ごろ佐世保基地に停泊中に第1機械室で出火した。 乗組員が消し止め、けが人はいなかった。 、編成替えにより第8護衛隊に編入。 10月15日及び16日、南方海空域において護衛艦「」とともに日加共同訓練(KAEDEX19-2)に参加。 からは「」が参加し、訓練、対水上訓練射撃等を実施した。 午前、の公海上(上海の南東約290kmの沖合)で船籍のタンカー「NAM SAN 8(ナムサン8)号」(:8122347)が船籍不明の小型船舶と接舷し、で禁止されている「」とみられる作業を行っていたことを確認した。 また「NAM SAN 8号」は,平成30年3月に北朝鮮制裁委員会から資産凍結・入港禁止の対象に指定された船舶であり、前日16日にも、同様の接舷状態を海上自衛隊所属の「」()が確認していた。 3月30日午後8時半ごろ、のの西約650キロの東シナ海の公海で警戒監視のため航行中に籍の漁船と衝突した。 しまかぜ乗員に人的被害は発生しておらず、左舷の後部に、若干、穴が開いたり、若干の損傷があるが、航行に支障はなかった。 現在、定係港は佐世保である。 歴代艦長 [ ] 歴代艦長(特記ない限り) 代 氏名 在任期間 出身校・期 前職 後職 備考 1 茂木通保 1988. 23 - 1989. 14 8期 しまかぜ艤装員長 第43護衛隊司令 2 田代誠盡 1989. 15 - 1991. 19 防大12期 人事教育部 教育課教範班長 教官 兼 研究部員 1990. 1 1等海佐昇任 3 山中嘉勝 1991. 20 - 1992. 14 防大9期 防衛部 第3幕僚室長 舞鶴地方総監部監察官 4 新海博夫 1992. 15 - 1995. 22 防大12期 舞鶴通信隊司令 横須賀戦術訓練装置運用隊司令 1995. 1 1等海佐昇任 5 柴田哲治 1995. 23 - 1996. 14 防大16期 海上幕僚監部人事教育部 教育課学校班長 艦長 1995. 1 1等海佐昇任 6 椋尾康広 1996. 15 - 1998. 30 防大17期 海上自衛隊第1術科学校教官 兼 研究部員 こんごう艦長 1997. 1 1等海佐昇任 7 間々田俊治 1998. 1 - 1999. 10 防大17期 管理部人事課長 1等海佐 8 山崎正雄 1999. 11 - 2000. 7 ・ 28期幹候 艦長 分析部 分析第1課統合見積班長 1等海佐 9 永沼延廣 2000. 8 - 2002. 31 防大20期 海上幕僚監部装備部装備課 整備管理班長 司令 1等海佐 10 比留間広明 2002. 1 - 2003. 19 防大21期 艦長 司令部幕僚 2003. 1 1等海佐昇任 11 舩渡 健 2003. 20 - 2005. 28 ・ 29期幹候 総務科長 艦艇開発隊 2005. 1 1等海佐昇任 12 一ノ瀬洋一郎 2005. 1 - 2007. 27 防大19期 海上自衛隊第1術科学校主任教官 兼 研究部員 佐世保基地業務隊補充部付 1等海佐 13 高草洋一 2007. 28 - 2008. 25 防大22期 海上幕僚監部指揮通信情報部 呉海上訓練指導隊 14 藤村栄次 2008. 26 - 2010. 19 防大24期 司令部幕僚 開発隊群司令部付 15 隈部秀彦 2010. 20 - 2011. 31 海上自衛隊第1術科学校主任教官 兼 研究部員 16 矢野幸浩 2011. 1 - 2013. 19 防大30期 横須賀地方総監部管理部人事課長 司令部 首席幕僚 2012. 1 1等海佐昇任 17 後藤康二 2013. 20 - 2014. 18 防大32期 横須賀地方総監部管理部人事課長 海上訓練指導隊群司令部首席幕僚 18 黒木一博 2014. 19 - 2016. 17 防大34期 海上自衛隊第1術科学校総務部 総務課長 海上自衛隊第1術科学校主任教官 兼 研究部員 19 前久保一彦 2016. 18 - 2017. 14 7期 護衛艦隊司令部幕僚 艦長 2017. 1 1等海佐昇任 20 吉福俊彦 2017. 15 - 2019. 31 護衛艦隊司令部 21 齋藤岳彦 2019. 1 - 艦長 脚注 [ ]• 2008年12月1日, at the. 海上幕僚監部 2011年6月21日. 2013年2月1日時点の [ ]よりアーカイブ。 2013年9月11日閲覧。 海上幕僚監部 2012年7月31日. 2013年2月1日時点の [ ]よりアーカイブ。 2013年9月11日閲覧。 海上幕僚監部 2012年8月21日. 2013年2月1日時点の [ ]よりアーカイブ。 2013年9月11日閲覧。 2013年8月21日時点のよりアーカイブ。 2013年8月21日閲覧。 2019年12月27日. 2020年1月6日閲覧。 2020年3月31日閲覧。 参考文献 [ ]• 石橋孝夫『海上自衛隊全艦船 1952-2002』(並木書房、2002年)• 『 増刊第66集 海上自衛隊全艦艇史』(海人社、2004年) 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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観光特急しまかぜ|近畿日本鉄道

しま かぜ

スポンサーリンク しまかぜ空席予約状況確認 近鉄特急しまかぜを紹介しているサイトは色々ありますが、公式サイトが一番早いです。 (毎日12時更新) (最新空席予約状況) 乗車予定日・乗車予定時刻、発着・終着を入力しますとしまかぜの予約状況が確認できます。 (1ヶ月以上先の予約状況は確認できません。 ) 難波発〜賢島の場合でしたら一番早いダイヤが10時20分(土・休日)なんで、 乗車予定時刻を10時に設定でいいと思います。 しまかぜのチケット(きっぷ)販売場所 近鉄主要駅の特急券窓口ほか、近畿日本ツーリスト・JTB 日本旅行各グループ、農協観光など主な旅行会社で発売。 しまかぜは、乗車券+特急券+しまかぜ特別車両券が必要です。 また、個室を利用する場合は個室券もいります。 全席禁煙で特急券自動発売機では発売していません。 インターネットでの予約・販売もしています。 (会員登録で予約ができます) しまかぜのチケット(きっぷ)発売日 乗車日の1か月前(前の月の同じ日)の10時30分から発売しています。 前月に同じ日がない場合は以下の通りです。 お問い合わせ 近鉄旅客案内テレフォンセンター 8:00〜21:00(年中無休) TEL 大阪:06-6771-3105 名古屋:052-561-1604 スポンサーリンク.

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