中川 くれ は。 故・中川昭一「いくら世界のためだ、黙ってカネを出せと言われても、日本はキャッシュ・ディスペンサーになるつもりはない」今思えば遺言だった…産経編集委員田村秀男 : ネトウヨにゅーす。

中川紅葉(なかがわくれは)

中川 くれ は

【これまでの記事】• デビュー作となった童話集『いやいやえん』の出版が1962年、『ぐりとぐら』が雑誌に掲載されたのは翌63年。 当時、中川さんは20代後半、息子さんは2、3歳とまだまだ手がかかる時期だったはず。 仕事と育児に追われる日々の中で、創作に向けるエネルギーはどこから生まれてきたのでしょう。 ねえ、どうしてできたのかしら(笑)。 でもね、みどり保育園は一切残業をしない園だったの。 はじめと終わりの時間はきちんと守る、園だよりもない、行事もない。 とにかく無理はしない、っていうのが一番のモットー。 何しろ職員が私と天谷先生の2人しかいないんだから。 お昼寝の時間は子どもたちと一緒に寝ちゃってたしね。 だから創作は子どもを寝かしつけた後の夜にやってたんでしょうね、きっと。 あまり覚えてないんだけど。 だいたい私は400字詰め原稿用紙7枚だから、仕事の依頼は「できそうだな」と思えるときだけ引き受けていたの。 ただし、台所で書くとかそういうことは一切やらない。 書くときはちゃんと自分の机で書く、ということはきっちり守っていたの。 台所で空き時間にちょこちょこ書くとか、そういうのは主人も嫌がるし、それだと全部が中途半端になってしまうから。 私、出版の世界のことは(児童文学作家、翻訳家、編集者の)石井桃子先生にすべて教わったの。 最初の本『いやいやえん』が出たとき、石井先生から「お仕事を断るのはとっても嫌なことなのよ。 でもちゃんと断らなくちゃいけません。 それをやらないとあなたが駄目になる」ってピシっと言われて。 それに何より保母という本業がありましたからね。 保育の仕事にマイナスになるようなことはやらない、プラスになることだけを引き受けよう。 そうすることで作品の質を高めることができて、引いてはそれが保育の質を高めることにもなる。 そう信じてずっと創作を続けてきたんです。 夫も美術家として仕事をしていますからね。 「もし結婚がマイナスになるようだったら別れよう」というのは、2人の間でずいぶん早いうちに決めていました。 仕事部屋に飾られた「ぐりとぐら」の原画。 私も子育て中の身なので読んでいてとても励まされました。 気持ちがすーっと楽になる考え方や、パッと視界が開けるような言葉がいくつもあって。 そんな風にお役に立てたのならよかったです。 毎朝、うちの前を通って保育園に行く元気な親子がいるんだけど、そのお母さんにこの本を渡したら、「題名を見ただけで元気が出た。 職場に持って行ってみんなで読みました」って喜んでくれて。 とりわけ、全編にわたっての「お母さん」たちへの寛容な眼差しが印象的ですね。 働いているお母さんは無理しちゃいけない。 昔、働きながら子育てをしていた知り合いの女性は、ありとあらゆる便利な家電製品にお給料をつぎ込んでいましたよ。 最新式の洗濯機とかね。 毎日やるべきことはたくさんあるんだから、全部を完璧にやる必要なんてないのよ。 もしも働いていることに罪悪感を持っているお母さんがいるとしても、そんなの子どもに見せちゃだめよ。 むしろ「私は働いているのよ!」っていばらなきゃ(笑)。 家族の犠牲になんかなっちゃいけません。 子どもは子ども、自分は自分。 赤の他人...... じゃあもちろんないけど、子どもは親とは別の人間であり、それぞれが社会の一員として尊ばれるべき存在なんです。 その上で、お母さんたちには自分を一番大事にしてほしいの。 だから健康診断は欠かさず行ってくださいね。 お母さんが健康であること。 これが子どもにとっても家族にとって一番幸せなことなんですから。 そうよ、お母さんは世間で何が起きているかをしっかり見聞きして、選挙にも行かなくちゃだめ。 特に今のような時代の状況ならなおさら。 でも戦争や平和って、なかなか口で伝えられるものじゃないのよね。 うちの息子が3、4歳くらいのときかしら。 「ママ、戦争ってなあに?」って聞いてきたのよ。 「国と国とのケンカよ。 戦争が起きると今まで住んでいた所から離れなきゃいけなくなったり、遠い国へ行かなきゃいけなくなったり色々あるの」って説明したら、息子は目には涙をいっぱい浮かべて最後まで聞いた後に、「でも、僕はやっぱり戦争に行く。 守らなきゃ!」って。 それを聞いて「ああ、こりゃ難しいなあ」って思っちゃった。 本当にそう。 でもね、世の中のすべてのことは我が子の将来にかかってくるのですから。 今、社会の先端に立っているのは子育て真っ最中のお母さんたちなんですよ。 中川李枝子(なかがわ・りえこ) 1935年、北海道生まれ。 都立高等保母学院を卒業後、みどり保育園に17年間勤務。 主任保母として働くかたわら絵本の創作を続け、1962年に出版した『いやいやえん』で厚生大臣賞、NHK児童文学奨励賞、サンケイ児童文化賞、野間児童文芸賞推奨作品賞を受賞。 「ぐりとぐら」シリーズ、『ももいろのきりん』など著書多数。 中川さんの最新刊、毎日がんばるお母さんへ向けて語り下ろした『』(新潮社刊)が発売中。 () 【関連記事】•

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中川泰宏

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2019年2月2日 16:00 もしも王貞治選手が荒川博コーチと会わなかったら、もしもイチロー選手が河村健一郎コーチと会わなかったら……。 そうした出会いの大切さについて、ネットニュース編集者の中川淳一郎氏が考察する。 * * * 時々ゾッとすることがあります。 そもそも人生というものはどんな親から生まれるか、ということがまずは大事なのですが、一旦この世に生を受けてコミュニケーションを取れるようになってからは、友達、親戚、先生、先輩、後輩といった縁のある人の中から「恩人」とも言える人の存在が自身の人生を切り拓いてくれるようになります。 高校までの友人にも感謝することは多いですが、「社会」と接するようになると、大学以降の友人にも感謝が必要です。 私の場合は、大学同期の常見陽平君(千葉商科大学専任講師)、治部れんげさん(ジャーナリスト)、そして現在一緒に会社を経営しているY嬢の3人に絶大なる感謝をしたい。 こうしたベースがあったうえで、様々な人との出会いがあり、現在45歳の自分の生活を形作っているのですが、ここでは小学館のK氏について述べさせていただきます。 同氏はちょうど1年前、2018年1月上旬に心筋梗塞で倒れ、1月28日に亡くなりました。 今年、ご命日の当日にお墓参りをするとご家族に余計な気遣いをさせるのでは、ということで、K氏が指揮を執っていたプロジェクトに関わってきた人たちを中心に、役員、社員及び契約社員、フリーランスの総勢約20名で27日に墓参りに行ってきました。 一人ずつ墓前でお祈りをしたのですが、私は以下のようにK氏に感謝の念を伝えました。 とにかく偽らざる気持ちのすべてです。 「Kさん、安らかにお眠りください。 本当にあなたに会えて自分の人生は一段階上がりました。 Kさんに会うまでの私は、仕事はきちんとあるフリーの編集者でしたが、何か『もう一つの実績』が必要でした。 Kさんが主導して作ってくれた『NEWSポストセブン』というサイトにかかわらせてもらうことにより、私自身は色々と発見をし、よりネットニュースというジャンルで新たな世界を見せてもらえたと思います。 また、小学館で仕事をさせてもらったことにより、それこそ新潮社をはじめとした出版社、そして新聞社やテレビ局等からも注目してもらい、今、Kさんのお蔭で仕事をたくさんもらえています。 Kさんの同僚や部下の方とも今日こうして一緒に墓前に来られたわけで、良くしていただいております。 すべてKさんのお蔭です。 本当にありがとうございました。 Kさんはオレの恩人です」.

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中川

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歴史民俗資料館には、真室川町が生んだ世界的な版画家「中川木鈴」を紹介しているコーナーが設けられています。 彼は日本独特の版画技術を受け継ぎ、広重の「東海道五十三次」を始めとして、国宝の「源氏物語絵巻」などの復刻に活躍しました。 日本伝統版画技術重要無形文化財にも指定され、昭和54年59歳で生涯を終えました。 中川木鈴 作品の一部 中川木鈴 略歴• 大正8年 山形県真室川町に生れる。 昭和10年 東京美術学校版画部講師片岡美登氏に師事。 田辺至氏に洋画を学ぶ。 昭和30年 日本伝統版画製作技術(木版彫刻)東京都より無形文化財に指定される。 昭和37年 日府春季展奨励賞受賞。 委員推挙される。 雅号「木身」を「木鈴」に改名。 昭和39年 社団法人日本画府(日府展)常任理事に推挙される。 昭和54年 旧制第五高等学校「赤レンガ」完成。 同年他界。 昭和56年 真室川町立民俗資料館に木鈴作品他陳列保存。 中川木鈴追想展(ギャラリー・アネックス)• 昭和60年 真室川町・版画展に木鈴賞設定。 真室川町立歴史民俗資料館 第二展示室にて中川木鈴作品等展示 開館時間• 4月1日から10月末 午前9時から午後4時30分• 11月1日から3月末 午前10時から午後4時 休館日• 月曜日及び祝祭日の翌日。 毎月末日(その日が日曜日のときは、その前日)。 12月29日から1月3日 電話:0233-62-3511.

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