産屋敷加賀屋 死亡。 【鬼滅の刃】産屋敷耀哉の病は呪いの影響?妻と子供を巻き添えに死亡した?

【鬼滅の刃】お館様の早すぎる死!鬼殺隊のためなら手段を選ばない!?産屋敷耀哉の驚くべき最期とは?

産屋敷加賀屋 死亡

の最高管理者である産屋敷の一族の97代目当主・の5人いる子供の一人。 子どもの中では唯一の黒髪で、かつ 男の子である。 つまり、の跡継ぎ。 では名前が出ておらず、『童子』とされていた(舞台版では『黒髪』)。 彼を含め、きょうだい揃って母であるに顔がよく似ている。 初登場はが参加したの案内役だった。 その際に顔がよく似た彼の姉妹と一緒にいたため、双子の姉妹のように思われたが、コミック収録時に「どちらかが男の子」と記述されていた。 また、柱合会議が収録された6巻では、最終選別の案内役として現れていない姉妹がさらに二人登場。 同巻では実は5人きょうだいであること、及び女装しているのは、 産屋敷の男子は病弱なため13歳までは女子として育てるからという理由が明かされた(実際厄除けで男子を女子として育てる風習はある)。 最終選別以降は、とを倒した際に、望外の喜びの顔を見せる父・耀哉が、その後血を吐くように咳きこんだコマで、「父上!! 」と心配して駆け寄る様子が描かれるのみで、本編に登場することはしばらくなかったが…。 以下、ネタバレ注意 『無限城決戦編』にて 単行本16巻にて、父・輝哉と母・あまね、姉妹のうち姉の・が、と対峙し死亡した。 この後に98代目の当主となったと同時に、年齢が 8歳であることが判明している(また、コミック17巻にて彼らきょうだいは 五つ子であることが明かされた)。 当主となったため、男子の正装に変わっている。 炭治郎及び達がに捕捉され、無限城に取り込まれたため、共に生き残った妹の・と共に戦局を見通すため、協力者であるの術である『目』を使って、城内の製図化、および指揮をしている。 その際の見事な采配、鬼殺隊士を先代のように名前で呼び捨てしていることから、既に当主としての自覚が現れている。 両親からは(短命であるが故に)人よりも早く大人となるべく厳しい教育を受けていたが、同時に愛情をもって育てられとても慕っていたことが作中で語られた。 しかし無惨が繭の状態から回復し、その場にいた隊士達が皆殺しにされた際は動揺して指示を出せなくなるなど、まだ当主としての精神面は未熟である一面が描かれている。 また、が炭治郎の危機を察し飛び出した直後に「 禰豆子は好きにさせなさい 大丈夫だから」という父の声を聞いた時は、父を思い涙を流していた。 204話では最後の柱合会議にて、柱の中で生き残ったとに向けて妹達と共に心からの感謝の言葉を贈ったところ、2人から「 礼など必要御座いません」「 輝利哉様が立派に務めを果たされたこと 御父上含め産屋敷家御先祖の皆様も 誇りに思っておられることでしょう」と返され、大粒の涙を流していた。 最終回では無惨が死んだ事で呪いから解放され、人並みの寿命を得たどころか 現代まで長く生き続けており、日本最高齢を記録しテレビで報道されている。 名字しか出ていないが、恐らく本人の可能性が高い。 本編の舞台は最終選別での炭治郎とのやり取りから3年~大正7年(1914年~1917年)とされ、本話における現代が2年(2020年)とすると、現在の彼の年齢は 111歳~114歳ということになる。 関連イラスト.

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☆播磨陰陽師(播磨陰陽道)

産屋敷加賀屋 死亡

事件の背景 [ ] 薩摩藩の財政再建と抜荷 [ ] 薩摩藩は慢性的な財政難を抱えていたが、近世後期に入ると財政難はより深刻化し、4年 1807年 には藩の負債が126万両に達した。 危機感を抱いた藩主は側近たちとともに藩政改革を始め、その中で琉球王国の対中国貿易の拡充、介入の強化などによって利益を確保するという財政改革を目指すものの、人事面や制度改革の進め方について前藩主のの反発を招き、結局斉宣主導の藩政改革は挫折し、斉宣は隠居に追い込まれた。 これがである。 斉宣の隠居後、今度は重豪主導の藩の財政再建が進められることになる。 重豪もまた琉球王国の対中国貿易への関与を通じての利益確保を財政再建の柱とした。 その中で薩摩藩は琉球王国によるを通して入手した中国産品を正規のルートではない、いわゆるによって利益を確保する行為を活発化させていく。 長崎貿易の統制弱体化 [ ] 長崎でも抜荷の横行を助長する事態が起きていた。 年間以降、長崎に貿易業務のために訪れる船舶の乗組員たちが私的に荷物を長崎に持ち込み、唐物を密売する「水夫手廻り」が増加し、また船主たちも密売に加担するなど、密売すなわち抜荷が公的な貿易を圧迫するようになっていた。 年間以降、長崎の公貿易であるの貿易は著しい不調に陥っており、貿易への依存度が高い長崎町内は密売に頼らざるを得ない状況が生じていた。 実際文政期以降、本来厳しく規制されていた個人的な商品の持ち込みと密売は公然化し、長崎の役人たちのみでは取り締まりが困難となった。 取り締まりに抵抗して騒動となった中国人たちを抑えるために、長崎町内の警備担当であった兵や長崎港口警備の兵の救援を仰がなければならない事態が発生した。 しかも大村藩、福岡藩の藩兵の力を借りて事態を鎮静化させた後、貿易への悪影響を懸念して問題を起こした中国人たちに処罰を加えることも出来なかった。 広まる唐物抜荷の噂 [ ] 薩摩藩が関与した琉球を通じて入手した中国産品、いわゆる唐物抜荷については、やがて風説を交えながら様々な疑惑として取り沙汰されるようになる。 文政年間以降、幕府は薩摩藩から抜荷を行う船が運行されていることを把握するようになった。 噂は幕府内ばかりではなく、民間にも広まっていた。 例えば抜荷で主力取り扱い品目のひとつであったは、慶長14年(1609年)に朱座が設けられて以降、朱と朱墨は国内産、輸入品を問わず朱座に属する商人の独占販売とされていた。 天保3年(1832年)、は絵師と考えられる人物から、中国製の朱が薩摩の船によって新潟に運ばれ、そこから江戸など各地へともたらされており、朱座の商人から購入する正規品よりも安価であり、越後の門人に依頼すれば江戸よりも質の良い朱が入手できること。 そして松浦静山の主治医の使用人からは越後生まれの人物からの話として、薩摩船が漢方薬種を積んで来るので、越後ではとても安く漢方薬種が入手できるため、薩摩船を持て囃しているとの情報をに記している。 天保6年(1835年)3月、はに対して、薩摩藩に関する抜荷についての風説をまとめた風聞書を手渡した。 その中で、多くの抜荷品目が北国(北陸)筋、越後あたりへ送られ、売りさばかれているとの記述がなされていた。 翌月、土方は蝦夷地ので買い入れられた上級品の煎が抜荷となって、薩摩に出回っているとの申し立てがにもたらされたため、天保4年(1833年)に越後の港湾等の巡検を行ったところ、確かに松前産の煎ナマコが大量に出回っており、それらが薩摩船に積み込まれているのは間違いないとの報告があった等の報告書を提出した。 蝦夷地で産出された煎ナマコ、昆布等の海産物は、長崎における貿易でとして輸出するため、長崎へ搬送されるべきものであった。 その海産物の多くが抜荷として薩摩藩に流れていることが明るみになったのである。 つまり薩摩藩は琉球を通じて入手した朱、漢方薬等を抜荷として北陸、越後方面に運んで売りさばき、帰途にはやはり蝦夷地から抜荷として持ち出された煎ナマコ、昆布等の俵物を積んでいくという構図が明らかになりつつあった。 このようにして入手された煎ナマコ、昆布等の俵物は薩摩から琉球に運ばれ、さらに琉球貿易の主交易品として大量に中国へと流れていった。 唐物抜荷の実態 [ ] 天保6年5月6日(1835年6月1日)付の、新潟美濃屋長之助から越後の薬種商である加賀屋清助に宛てられた書状には、漢方薬種を積み込んだ薩摩からの船が春季と秋季に新潟に入港すると記されている。 そして新潟港にもたらされた薬種は、や江戸、などに販売されると述べられている。 そして前年の1834年(天保5年)の美濃屋と加賀屋とのやり取りからは、多種の漢方薬種が薩摩船の抜荷として新潟に持ち込まれ、公然と取り引きされていたことが判明する。 後述のによる「北越秘説」においても、やはり新潟港には年間約6隻の薩摩船が入港し、サツマイモ等の薩摩の産物の下積みとして薬種、朱などの抜荷を大量に持ち込み、新潟から各地へと売りさばかれているとした。 中でも朱については、、、などの塗物の産地に広まっており、それらの地方では朱塗りの製品が主力商品となっており、会津若松では朱塗りの漆器が黒塗りのものよりもきわめて安価になっていると報告されている。 また北越秘説には、領主である側も薩摩船による抜荷を黙認し、その代わりに薩摩船からは他船よりも運上金を割増で取り立てていたとの情報も載せられていた。 薩摩藩関連の唐物抜荷最大の取引場所は新潟であった。 これは前述のように新潟から各地へと抜荷品を売りさばくルートが構築されていた上に、対価となる蝦夷地産の昆布など俵物の集荷にも好都合な場所であったためである。 売薬業が盛んな富山は天保期には江戸、大坂、京都の三都に次いで薬店が多い場所となっていたが、天保期にはこれまで大坂で主に仕入れていた薬種の買い付け高が、以前の半分程度にまで落ち込んでいたとの報告がある。 これは富山に抜荷品の漢方薬種が供給されるようになったためと推測される。 ただし富山の場合、新潟のように各地に抜荷品を広く売りさばくルートが出来るほどではなかったと見られている。 幕府の取り締まり強化 [ ] このような薩摩藩による琉球貿易で入手した中国産品、いわゆる唐物の抜荷は長崎における唐物の売れ行きに悪影響を与えた。 そして輸出品である昆布等の集荷も困難をきたすようになった。 19世紀に入ると長崎会所の収支は赤字になっており、その要因のひとつとして薩摩藩の唐物抜荷と蝦夷地産の俵物の抜荷が挙げられていた。 薩摩藩側のやり方に危惧を抱いていたのは、日本側ばかりではなかった。 文政8年(1825年)の段階で、長崎で貿易を行っている中国人商人は、琉球貿易で中国にもたらされている昆布等の海産物は、調べてみると薩摩から琉球を経由して中国に輸入されていることが判明したとした上で、長崎ルートよりも早く中国にもたされる上に安価で質が良いため、長崎で貿易に従事する中国人商人の商売を圧迫するのみならず、長崎会所の経営状態に悪影響を与えると長崎奉行所に訴えていた。 しかし薩摩藩は大藩であり、その上、時の将軍の御台所、の実父は島津重豪であり、将軍家と薩摩藩主のは縁戚関係にあった。 幕府にとって薩摩藩が深く関与している琉球貿易を規制していくことは困難であったが、抜荷の摘発を通じて蝦夷地産の俵物等の集荷に打撃を与え、薩摩藩側に圧迫を加えていくことがもくろまれた。 天保6年(1835年)7月、勘定奉行の土方勝政はとともに唐物抜荷、俵物抜荷の取り締まりを求める言上書を提出した。 言上書の中で土方と久世は、唐物抜荷と俵物抜荷は対になって発生している事象であると指摘した上で、松前藩に俵物抜荷の取り締まりと俵物の長崎会所以外への販売厳禁、そして薩摩藩には唐物抜荷の取り締まりを要求し、幕府公認のの差し止めを示唆する通達案を提示した。 この通達案は天保6年(1835年)末には薩摩藩、松前藩に実際に申し渡されることになる。 第一回唐物抜荷事件 [ ] 薩摩船の難破 [ ] 天保6年10月19日(1835年12月9日)、に向かっていた薩摩湊浦の八太郎の持ち船が、強風にあおられて漂流した上、代官青山九八郎支配下の、村松浜(現)で難破した。 難破した薩摩船には船頭として船主の八太郎が乗り込み、沖船頭として源太郎、水主4名、その他に唐物抜荷仲買人の久太郎、そしてもう1名が乗り合わせていた。 船は難破してしまったが乗組員は全員無事で、積荷も多少海水に浸かってしまったものの、被害は比較的軽微であった。 しかしここで難題が持ち上がった。 この薩摩船には漢方薬種、毛織物、、など40個以上の抜荷が積み込まれていた。 難破船は検分を受けなければならない規定があり、村松浜は天領であるため出雲崎代官所の検分を受けることになる。 しかも唐物抜荷仲買人の久太郎らが乗り合わせていた。 難破後、まず問題の抜荷を村松浜村の善右衛門所有の網小屋に隠した。 まもなく抜荷を積んだ薩摩船が難破したとの一報を受け、新潟港の廻船問屋、北国屋敬次郎の下男である松蔵が現地にやって来た。 松蔵は同僚である北国屋下男の長之助、やはり新潟港の廻船問屋の若狭屋市兵衛の下男仙蔵とともに問題の解決に当たった。 松蔵らは村松浜村の組頭繁右衛門、百姓代金次郎、百姓源右衛門と対応を協議した。 その結果、善右衛門所有の網小屋に隠していた抜荷を源右衛門の土蔵へと移動させ、その後再び善右衛門所有の網小屋に戻し、隠匿場所を変えることによって代官所の目をごまかそうと試みた。 そして乗船者に唐物抜荷仲買人らが居るのはまずいということで、仲買人の久太郎、そして他の1名と船主兼船頭の八太郎は新潟町の佐藤屋嘉左衛門の船宿に隠れることになった。 結局、出雲崎代官所の手代、赤城国助の検分を受けて問題なしとなった。 抜荷の発覚 [ ] 出雲崎代官所の検分を終えた後、難破によって多少濡れてしまった抜荷品は新潟へと運ばれ、その後各地へと販売されていった。 当初、これまでと特に変わりなく販売が進んでいったようであるが、市場に広まっていく中で幕府は抜荷の事実を把握していく。 前述のように幕府は天保6年(1835年)末には薩摩藩、松前藩に厳しい抜荷防止令を下していたが、その中で新潟での唐物抜荷発覚については言及されておらず、天保6年末の段階ではまだ幕府は事件を掴んでいなかったと考えられる。 しかし天保7年(1836年)4月の久世広正の言上書には、前年10月、出雲崎代官青山九八郎支配の越後国村松浜で難破した薩摩船に、漢方薬種が積み込まれていたとの報告が代官青山九八郎よりなされていると記されており、幕閣は天保7年(1836年)4月までには抜荷の事実を把握するようになったとみられる。 取り調べの開始と関係者に対する追及 [ ] 北国屋敬次郎の下男、松蔵や若狭屋市兵衛の下男、仙蔵ら6名は新潟から江戸に連行され、天保7年8月11日(1836年9月21日)、で取り調べの上、入牢となった。 翌日には6名がやはり評定所での取り調べ後に入牢、さらに天保7年9月7日(1836年10月16日)には新潟町の佐藤屋嘉左衛門ら8名が入牢する。 取り調べの過程で松蔵、仙蔵は獄死し、佐藤屋嘉左衛門も獄中で重病に罹ったため出牢を許されたもののまもなく死亡した。 事件の関係者についての捜索は新潟や越後ばかりではなく、信濃、越中、と広範囲におよび、また捜査と裁判の期間も約4年と長期におよんだ。 これは抜荷品が新潟から広範囲に販売されたことによって、係累者が広範囲かつ大勢になったためである。 捜査が進む中で天保7年9月以降も数回、抜荷品の密売買、密売買の幇助の容疑で連行、入牢が繰り返された。 越後十日町の薬種商である加賀屋清助にも捜査の手が伸びた。 天保7年8月26日(1836年10月6日)付の書簡で、加賀屋と抜荷漢方薬種の取引を行っていた新潟の美濃屋長之助が逮捕されたこと、そして帳簿類も押収されたため、取引先にも捜査の手が伸びるであろうとの情報が加賀屋側にもたらされていた。 取り調べの過程で美濃屋長之助は取引相手として加賀屋清助の名前を自白した。 天保7年9月1日(1836年10月10日)、は十日町を管轄していたに対して、抜荷の漢方薬種を美濃屋長之助から購入していた容疑で加賀屋清助の御用状(逮捕状)を送付する。 しかし加賀屋側は天保7年9月5日(1836年10月14日)付で、加賀屋清助は前年の天保6年6月に病死しており、まだ子どもたちも幼く、商売のことは全て清助が行っていたため、残された遺族たちは事情が良くわからないとの上申書を関東取締出役に提出し、捜査、逮捕を免れることが出来た。 判決 [ ] 第一回唐物抜荷事件の判決は、天保10年3月7日(1839年4月20日)に計48名に対して下された。 新潟町の山田屋六右衛門は自ら薩摩船の難破現場に赴いて唐物抜荷仲買人の久太郎から直接抜荷品の買取りを行い、さらには抜荷品の隠匿と唐物抜荷仲買人らが身を隠すことに加担したしたとして、にとなった。 そして新潟町の室屋巳之助は下男を現場に派遣し、抜荷の事実について報告を受けながら犀角などの抜荷品の買取りを行ったとして、に遠流となった。 事件の主犯格である仙蔵、長之助、松蔵の主人に当たる。 若狭屋市兵衛、北国屋敬次郎は、店の経営を下男に委ね続けたあげくに唐物抜荷についても下男たちが行ってきたことを知りながら追認していたとして、家財没収、とした。 難破現場の村松浜で抜荷品の隠匿等に関わった組頭繁右衛門、百姓代金次郎、百姓源右衛門については、組頭繁右衛門は江戸十里四方追放、金次郎は江戸払、源右衛門はお礼として受け取った品の没収と過料5貫文とされた。 また新潟町への抜荷品の移送、保管場所の提供を行った4名に関しては、事情をよく確かめもせずに抜荷品と知らずに協力したとして、となった。 難破船の検分を行った出雲崎代官手代の赤城国助は、抜荷の不正と乗組員の一部が身を隠したことを見抜けなかったことを咎められ、、永暇を言い渡された。 美濃屋長之助ら、抜荷品の売買を行っていた新潟町や越後の商人ら15名は、事件の主犯格の松蔵らから抜荷品とは知らずに買取、所持した上、売りさばいたとして、手元に残っていた抜荷品、売り上げ相当分の没収。 身代の3分の2を過料として徴収するとの判決であった。 そして越後、信濃、越中、上野の17名の商人等は、新潟町に自ら、または下男を派遣し、よく確かめもせずに抜荷の漢方薬種などを購入、所持、販売していたとして、手元に残っていた抜荷品、売り上げ相当分の没収の上、過料5貫文とされた。 この判決の中で、主犯格の松蔵、仙蔵は獄死しているため、判決文に名前が無いのは了解できるものの、もう一名の北国屋敬次郎下男の長之助について全く触れられていない点、そして判決は全て抜荷品を受け取る新潟等の関係者ばかりに下され、抜荷品を持ち込んだ薩摩船の関係者が一切登場しない点も疑問点として挙げられる。 川村修就の内偵と抜荷情報、風説 [ ] 北越秘説 [ ] 川村修就像 第一回唐物抜荷事件の概要が明らかになった後、老中は川村修就に対し、抜荷の実態を調査報告するよう命じた。 川村は北陸、越後一帯を内偵し、天保11年(1840年)9月に報告書「北越秘説」を提出する。 言い伝えでは新潟町内の内偵時、川村は飴売りとなって鉦を叩きながら街中を歩きながら抜荷の情報を集めていたという。 川村の内偵は第一回唐物抜荷事件の後であったために検査体制が強化されていたが、それでも新潟町には漢方薬種、唐更紗、朱などの唐物が多く出回っていて、しかも京都、大坂、江戸よりも安価であった。 抜荷品ではないかと調べてみたところ、新潟町の商人たちは春に京、大坂方面に商品の仕入れに行く際に長崎まで向かい、そこで唐物を仕入れて帰るというが、実際のところはよくわからないとの噂であった。 また新潟の検査体制が強化されたために抜荷の主取引場所は富山となり、富山から北陸、信濃そして関東方面の各地に抜荷の漢方薬種、朱などが流通するようになり、またのであるが薩摩船の抜荷取引の舞台となっているとの噂を書き記している。 抜荷を巡る情報、風説 [ ] 天保6年(1835年)末に、幕府は薩摩藩、松前藩に対して抜荷の取り締まりを命じ、その後、第一回唐物抜荷事件が明るみになる中、薩摩船の活動には大きな制約が加えられるようになった。 天保7年(1836年)5月に船を装った薩摩船が新潟港に入港するものの、積荷は蝋、砂糖、鰹節などが主で抜荷に当たる漢方薬種はわずかであった。 これは規制が厳しくなったため船籍を紀州船と偽り、積荷もこれまでのような大量の抜荷の搭載を避けたのであった。 このように船籍を偽ったり、他藩の船を利用しながら抜荷は続いていた。 そして上述の北越秘説で述べられたように、事件後数年後には薩摩船の活動が再開され始めた。 天保10年7月10日(1839年8月28日)、老中水野忠邦は勘定奉行に抜荷に関する文書を手渡した。 その中で、海上で琉球貿易で入手した唐物や蝦夷地の産物の抜荷取引が行われており、松前産の干アワビ、煎ナマコ、昆布等の俵物は薩摩船が抜買するために値段が高騰していること。 薩摩商人はを拠点としての、などでも少々抜荷商売を行い、能登のでは漆器作りのために抜荷の朱の需要が多いこと。 そして新潟町の商人が3月に抜荷品の漢方薬種や朱を大量に仕入れ、江戸を通しての方まで売りさばいた等の風説が載せられていた。 第二回唐物抜荷事件 [ ] 摘発と捜査、取り調べ [ ] 第二回唐物抜荷事件の舞台となった新潟港の錦絵『新潟湊之真景』。 安政6年(1859年)井上文昌筆(蔵) 抜荷に関する内偵を行っていた川村修就が報告書「北越秘説」を提出した直後の天保11年(1840年)11月、石見船によって新潟港に運ばれた長崎会所を通さない抜荷品の漢方薬種を、新潟町の廻船問屋である小川屋金右衛門が売買したことが発覚した。 これが第二回唐物抜荷事件の発端であった。 天保11年11月5日(1840年11月28日)、小川屋金右衛門ら15名が新潟町奉行の取り調べの後、入牢となった。 この第二回唐物抜荷事件では、新潟町内でも富裕な商人として知られていた高橋次郎左衛門と当銀屋善平に嫌疑に掛けられたために大きな話題となった。 なお高橋次郎左衛門と当銀屋善平は、ともに北越秘説の中で抜荷交易をもっぱらにしていると指摘されていた。 天保12年6月10日(1841年7月27日)、江戸から関東取締出役の手代2名が新潟に到着し、取り調べに加わった。 取り調べ対象も広げられ、容疑が固まったと見られた小川屋金右衛門ら12名は江戸に護送されることになり、天保12年7月3日(1841年8月19日)に江戸に到着した。 到着後、容疑者らは取り調べ中の収容方法を入牢者、の上で、宿預と区分けされ、勘定奉行が取り調べを担当することになった。 その後、新潟で取り調べられた容疑者のうち鈴木屋長八ら2名を除き、残りの容疑者たちも江戸で取り調べられることに決まり。 天保12年7月27日(1841年9月12日)には江戸に到着し、やはり勘定奉行の梶野による取り調べを受けることになった。 天保12年(1841年)11月ごろにはほぼ取り調べの目途が立ち、高橋次郎左衛門と当銀屋善平、当銀屋庄五郎の3名のみ取り調べが継続された。 結局、新潟町の有力商人であった高橋次郎左衛門と当銀屋善平、そして当銀屋庄五郎は嫌疑なしとされた。 判決 [ ] 天保14年(1843年)2月、判決が言い渡された。 今回は第一回唐物抜荷事件とは異なり、新潟港まで抜荷品を運んだ当事者である長崎の粂吉は中追放の判決を受けた。 また他の4名の当事者たちは吟味中に病死した。 受け取り側にあたる新潟町の主犯は小川屋金右衛門、越中屋七左衛門、出雲屋伝七の3名であったと見られている。 3名とも抜荷を持ち込んだ長崎の粂吉らから漢方薬種を他の商人たちに斡旋し、手数料を受け取っていた。 中でも小川屋金右衛門は自らも漢方薬種の売買を行っており、より悪質であるとして売上代金、手数料の没収とともに財産の3分の2を没収された。 越中屋七左衛門、出雲屋伝七の2名は売上代金、手数料の没収とともに過料10貫文の判決であった。 今回も多くの新潟町の商人らが、小川屋金右衛門、越中屋七左衛門、出雲屋伝七の斡旋を受けて漢方薬種を売買した。 それぞれ所持していた品物の没収、売上代金の没収とともに過料が課されたが、第一回唐物抜荷事件でも摘発された三条屋忠助は再犯として江戸十里追放となった。 また捜査の過程で、前回追放刑に処された若狭屋市兵衛、北国屋敬次郎ら3名が禁を破って新潟町の実母に会いに行ったことが判明し、若狭屋市兵衛、北国屋敬次郎は前回の江戸払よりも一段重い江戸十里四方追放という追放刑が改めて言い渡されるなど、前回よりも一段重い追放刑が改めて科せられることになった。 またそれぞれの母も急度叱となった。 第二回唐物抜荷事件においても、前回と同様に新潟町の商人から各地方に抜荷である漢方薬種は流通しており、捜査の結果摘発され、判決を受けている。 いずれも売り上げ代金の没収と過料という判決であった。 前回は越中、信濃、上野といった地方の商人たちが摘発されていたものが、今回は越後でも高田を除く全域や、会津若松、酒田、といった、方面に広がっている。 これは北越秘説でも取り上げられていたように、第一回唐物抜荷事件後、富山が抜荷流通の拠点となって、越中や越後の高田などは富山から抜荷品が流通するようになったことが考えられる。 事件の影響 [ ] 長岡藩への影響 [ ] 老中水野忠邦は新潟上知を将軍家慶に上申、実行に移した。 第二回唐物抜荷事件が発覚した天保11年(1840年)11月、幕府は長岡藩主を川越、主を出羽へ、主を長岡にさせる、を命じた。 しかしこの三方領知替えは庄内藩領民のが起きた上に、徳川家斉の実子を養子とした川越藩主松平斉典に対する優遇策であるとしてらの強い反発を招いた。 三方領知替えが広範囲の反発を招いて暗礁に乗り上げていた天保12年6月7日(1841年7月24日)、将軍は老中水野忠邦に対し、三方領知替えの断念とともに、取り締まりが不十分であるとの話が出ている酒田、新潟をして、替わりの地を給するべきではないかとの親諭を下した。 結局、三方領知替えは天保12年7月12日(1841年8月28日)に家慶の判断で中止となった。 三方領知替えは断念されたが、家慶の酒田、新潟の上知構想もいったんは見送られた。 しかし新潟の上知構想は復活、実現することになる。 新潟の上知 [ ] 天保6年(1835年)の第一回唐物抜荷事件、天保11年(1840年)の第二回唐物抜荷事件の摘発にも関わらず、その後も新潟港で抜荷が行われ続けているとの風聞は絶えることが無かった。 幕府は新潟にを派遣して情報収集につとめていた。 新潟での諜報活動を終え、天保12年12月21日(1843年2月1日)に江戸に戻った配下の御庭番の報告を受けた佐々木三蔵は、いまだ新潟港で抜荷が行われ続けていること、そして海岸の防衛体制も手薄であることを指摘し、新潟の上知が必要であると水野忠邦に提案した。 この提案を受けた水野は、新潟港の領主である長岡藩主の責任追及の意味も込めて、幕府挙げての一大行事である将軍家慶のの終了後に新潟港の上知を実現すべきであると上申し、家慶の裁可を得た。 水野忠邦は天保14年(1843年)2月、全国に唐物抜荷取締令を公布した。 取締令の中で新潟で起きた二度の唐物抜荷事件について公表された。 天保14年3月26日(1843年4月25日)、長岡藩主牧野忠雅は、二度の唐物抜荷事件の責任を取るべく幕府に謹慎の伺いを提出したが、謹慎にはおよばないとして却下された。 天保14年6月11日(1843年7月8日)、幕府は長岡藩に対して新潟上知を命じた。 幕府の上知の狙いは抜荷の防止と海防の強化であった。 二度の唐物抜荷事件を起こしたことで、長岡藩は幕命に抵抗することは出来なかった。 天保14年6月17日(1843年7月14日)、初代新潟奉行として幕府は、かつて新潟等で抜荷の内偵を行った川村修就を任命した。 なお天保14年(1843年)に新潟は上知されて幕領となった後、薩摩藩絡みの抜荷は富山の薬売りが関与するウエイトが増すことになった。 富山の薬売りたちは薩摩藩側から抜荷品である漢方薬種等を仕入れるとともに、薩摩藩側に昆布を輸送する便宜を図っていた。 薩摩藩への影響 [ ] 上述のように幕府は天保6年(1835年)末の段階で、薩摩藩側に抜荷を取り締まるよう通達した。 通達は唐物抜荷によって長崎会所の貿易に支障が出ており、これは国政に関わる問題であるとした上で、薩摩藩が幕府公認の上で長崎で行っていた唐物販売の差し止めを示唆する内容であり、薩摩藩としても重く受け止めざるを得ない内容であった。 幕府の強硬姿勢に薩摩藩は神経を尖らせた。 天保7年(1836年)2月、薩摩藩は領内に唐物の不法所持、密売買を禁止する命令を下した。 唐物の不法所持、密売買を禁止する方針は薩摩藩領内ばかりでなく、琉球そして薩摩船が航行する北国、関東方面の交易にも適用されていった。 薩摩藩が恐れていたのは先の通達で幕府がほのめかしていた、幕府公認の長崎で行っていた唐物販売の差し止めであった。 実際問題、天保6年(1835年)末の幕府からの通達に加え、第一回唐物抜荷事件の発覚で、新潟への薩摩船の航行は激減し、紀州船など他国の船を名乗ったり、他藩の船を利用して航行するような状況となった。 しかし天保7年(1836年)4月の久世広正の言上書では、第一回唐物抜荷事件について指摘した上で、薩摩藩の抜荷取り締まりは不十分であり、唐物の売りさばきルートを設けた形となっている薩摩藩の唐物販売は抜荷取り締まりに悪影響を与えていると想定され、さらに長崎会所の経営を圧迫しているとして差し止めを要求した。 第一回唐物抜荷事件の発覚は幕府の姿勢をさらに硬化させた。 明らかになった唐物抜荷の実態は、文政8年(1825年)の長崎で貿易を行っている中国人商人からの訴えや、天保5年(1834年)に老中から勘定奉行に提示された風聞書の内容を裏書きするようなものであり、長崎会所の経営を困難に追い込む薩摩藩の唐物販売の弊害を実感させた。 久世広正は薩摩藩の唐物販売の運営システムを考慮して、3年後の天保10年(1839年)に薩摩藩の唐物販売の停止を断行するよう提案して幕閣内の承認を受けた。 天保7年6月19日(1836年8月1日)、老中水野忠邦は薩摩藩主に対し、天保10年(1839年)に薩摩藩の唐物販売を停止する旨、通告した。 琉球への影響 [ ] 天保7年(1836年)正月、薩摩藩家老は鹿児島琉球館の在番親方に対し、幕府から唐物抜荷取り締まりに関する厳しい通達があり、もし幕府に抜荷が発覚したらどのような難題を持ちかけられるかわからないとして、琉球国内に幕唐物、松前産の俵物の密売買に対する厳しい取り締まりと違反者には厳罰を科すよう通告した。 この通告を受けた琉球王府は、まず天保7年(1836年)3月にから薩摩側の通告を琉球国内の各担当部署に周知する措置が取られた。 翌4月には中国からの帰国者に対する、唐物所有者の名前、品目、数量等をチェックするマニュアルが説明された。 そして5月には間もなく中国から帰琉予定の接貢船1隻、漂流船2隻への対応を念頭に、輸入された唐物の検査、保管、個人用や土産、進物用の唐物の確認、そして売却用の引き渡し時の取り扱い等を定めた8項目の唐物管理規定を公布した。 そして漂流船の帰琉時にはこれまで例が無かったことであるが、三司官と薩摩側のが唐物抜荷警戒のため、近くのに詰めることになった。 そして漂流船の帰琉のうち1隻が那覇港ではなく別の場所に帰着したので、抜荷を行ったのではないかと船頭に対して厳しい事情聴取が行われ、中国からの荷物に対しても厳しいチェック、監視が実行された。 このように琉球王国国内でも唐物抜荷を防止するための対応策が取られることになった。 長崎の抜荷取り締まり強化 [ ] 幕府は抜荷横行の要因の一つであった長崎の取り締まり強化も図った。 天保6年(1835年)閏7月、幕府は長崎奉行に「市中取締方」を命じ、実行役としてらを長崎に派遣する。 10月に長崎に到着した戸川は早速長崎の役人たちに取り締まり強化を命じ、不測の事態に備え、長崎警備の大村藩、福岡藩に対し、約100名の増派を要請した。 天保6年(1835年)11月には、長崎近郊在住者2名を中国人商人と抜荷を行った容疑で逮捕し、裁判後、警告の意味を込めて前で処刑した。 12月には取り締まり強化に反発した中国人たちが騒乱を起こした。 騒乱は番所や役所の破壊に至った。 結局、福岡藩兵が唐人屋敷に突入し、関係者を拘束の上、大村藩に引き渡し入牢処分とした。 また抜荷の横行には日本側の諸役人や中国人の知人、友人らが中国製品を私的に受け取り、それらが転売されるという構図もあった。 私的な贈与の範囲を超えて中国製品がやり取りされ、抜荷に繋がっていくのである。 そこで天保7年(1836年)には規制、取り締まりを強化することとし、天保9年(1838年)8月には長崎の役人に対し綱紀粛正30か条が通達された。 松前藩、蝦夷地への影響 [ ] 幕府は天保6年(1835年)末の段階で、薩摩藩とともに松前藩にも抜荷を取り締まるよう通達した。 松前藩への通達では、本来、中国輸出用として長崎へ送るべき昆布や干アワビ、煎ナマコなどが、薩摩や越後に抜荷されているとの風聞があると指摘した上で、これら俵物は必ず長崎会所に販売すべきであり、他への密売は厳禁であることを松前藩領、蝦夷地へも周知するようにとの内容であった。 文政4年(1821年)、松前、蝦夷地は幕府直轄地からの領地へと復帰した。 しかし幕府側は松前藩の統治能力に疑問を抱いていた。 具体的には特権商人と松前藩側と癒着、異国船に対する警備体制の不備、そしてに対する保護政策の欠如が問題視され、再度の蝦夷地上知論が出されていた。 このような中で発生した抜荷事件は、幕府内の上知案をがより強まることに繋がった。 川村修就は天保12年(1841年)11月、関係者からの事情聴取や現地報告をもとに、勘定奉行梶野良材と連名で、蝦夷地上知に関する提案、「初前蝦夷地之儀ニ付御内々申上候書付」を勘定奉行らに行った。 川村と梶野は若年の藩主続きで松前家の蝦夷地支配は行き届かず、商人との癒着が顕著であると指摘した上で、取り締まりが不徹底で抜荷が公然と行われており、さらにはアイヌに対する対応が劣悪で人口減を引き起こしているとした。 このような情勢ではがきちんとアヘンを取り締まって来なかったことがの原因となったように、異国との不測の事態が生じかねないとして 、新潟のような枝葉の地ではなく、蝦夷地こそ上知を行い、きちんとした統治体制を整えるべきであると主張した。 そして川村らは異国境の取締りのためには文政4年(1821年)以前のように蝦夷地全体の上知が最も望ましいとしながらも、から東蝦夷地、そして、を上知して松前家にはに代知を与えるという次善の策について、実際に東蝦夷地を上知した場合の必要人員、運営体制、警備体制、そして財政上の収支の見込みまで算出して提示した。 結局、川村と梶野の意見は、統治に問題があるのは確かではあるが、いったん松前家領に復帰すると幕府が決定した蝦夷地を再び取り上げるのは、徳義の問題となって幕府の威信を落とすことに繋がり、また幕府直轄地として防衛体制を充実するだけの財政負担に耐えられないとの反対意見により、採用されることはなかった。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 記事名については、事件の発生地である新潟市史、新潟県史が採用している唐物抜荷事件とする。 幕府は薩摩藩がとも抜荷取引を行っているのではないかとの疑いを持っており、捜査、警戒が行われる中での密貿易であるの検挙に繋がったという説がある。 天保10年3月7日(1839年4月20日)の判決に伴う過料銭納入者は、越後、信濃、越中、上野の計57名が対象者とされている。 32名の商人らについては、第一回唐物抜荷事件に直接関わりはなく、以前から抜荷の唐物を買取、所持、売却していたことが摘発されたとする見方もある。 第一回唐物抜荷事件以後も、薩摩藩の了承を得ながら他藩の船を偽装しての抜荷が行われていた可能性が指摘されている。 新潟町の有力商人であった高橋次郎左衛門と当銀屋善平に関しては、新潟のが釈放運動のため江戸へ上り、賄賂を裁判担当役人に贈ったことが摘発され、町年寄が処罰されることになった。 再犯者としては三条屋忠助の他に加賀屋専助がいたが、専助は三条屋忠助よりも違法性が少なかったためか、他の商人らと同様の判決であった。 唐物の売却先には、薩摩藩を通して日本本土に流通していくものの他に琉球国内消費用があり、唐物管理規定にはそれぞれ別の取り扱いが規定されていた。 幕府は蝦夷地で活動する商人たちや、の中でロシア人らとの間に交易が行われているのではないかと恐れ、搾取にあえぐアイヌがロシア側につくことを警戒していた。 出典 [ ]• 参考文献 [ ]• 浅倉有子 『北方史と近世社会』 清文堂出版、1999年。 上原兼善 『近世琉球貿易史の研究』 岩田書院、2016年。 川村修悦 「新潟市郷土資料館調査年報第6集 初代新潟奉行川村修悦文書5」『北越秘説』 新潟市郷土資料館、1982年。 黒田安雄「史淵」114、『文化・文政期長崎商法拡張をめぐる薩摩藩の画策』 九州大学文学部、1977年。 黒田安雄「南島史学」25、26『天保改革期の薩摩藩の唐物商法』 南島史学会、1985年• 徳永和喜 『薩摩藩対外外交史の研究』 九州大学出版会、2005年。 中野三義 「地方史研究」58(1)『新潟上知と唐物抜荷事件』 地方史研究協議会、2008年。 中村質 『近世長崎貿易史の研究』 吉川弘文館、1988年。 新潟市史編さん近世部会 『新潟市史 通史編2 近世下』 新潟市、1997年。 新潟県 『新潟県史上巻』 新潟県、1934年。 新潟県 『新潟県史 通史編5 近世3』 新潟県、1988年。 十日町市史編さん委員会 「新潟抜け荷一件」『十日町市史 資料編5(近世2)』 十日町市、1993年。 深井甚三「富山大学教育学部紀要」53 『近世後期、加越能の抜け荷取引地の廻船問屋展開と富山売薬商の抜け荷販売』 富山大学教育学部、1999年。 深井甚三 『近世日本海海運史の研究』 東京堂出版、2009年。

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産屋敷加賀屋 死亡

からまでの6日間は『もうひとりのおしん』放送、ならびにから翌年までは年末年始特別編成につき中断、NHKの連続テレビ小説では『』以来の1年間放送となった。 全297話。 NHKテレビ放送開始30周年記念作品。 下記の理由から、朝ドラの最高傑作とされる。 1983〜1984年の平均は 52. これはビデオリサーチの統計史上、 テレビドラマの最高視聴率記録となっている。 の少女期おしんは第4回から第36回まで、の青春・成年期おしんは第37回から第225回まで、の中年期おしんは第226回から。 老年期(役は中年期と同じく乙羽。 白髪の様相が特徴)おしんは第1回から登場(第189回まで度々)するが、人生の進行に伴っては第285回から登場する。 作品では、おしんの幼年期の苦労を描いただけではなく、義理や周りを見ることなく他人を押しのけてまで銭儲けをしてもいずれ自分を追いやってしまう、人として本当に大切な物は何かというメッセージが、おしんが人生の歩みの中で出会ってきたたくさんの恩人の言葉を通して散りばめられている。 作品は、、、、、、、、、、など世界68か国や地域で放送され、苦難に遭いつつも決してあきらめず、、、という貧困・戦乱・復興の中を生きた主人公・おしんの姿が、だけでなく各国で人々の共感を呼び、「オシンドローム」という言葉を生み出した。 「で最もヒットした日本の」とされ、なおファンが多く根強い人気がある。 NHKの連続テレビ小説において、初めてクレジットロールに指導者が明示された作品である(定着するのは『』から)。 田中ゆかりは『おしん』を「『本格方言ドラマ』の嚆矢」としている。 また、1983年10月放送の『おしん』において、日本初のの実験放送が行われた(本放送は『いちばん太鼓』から)。 2010年9月25日付のbeランキング「心に残る朝ドラヒロイン」アンケート結果では、本作のが第2位だった(第1位は『』、第3位は『』)。 ヒロインを務めた3人の女優のうち、小林はオーディションで選ばれた。 田中と乙羽はオーディションではなく直接キャスティングされている。 本編以降の放送日程 [編集 ]• 1990年代以降、総集編がBSと地上波で放送された。 放送日:BS2 1999年10月25日 - 1999年10月28日 20:00 - 21:30 地上波:2000年3月20日 - 2000年3月23日 21:35 - 23:05• 4月からは、本放送20周年記念で、毎週月曜日 - 土曜日の夜7時30分からで全297話が再放送され、放送終了後の7時45分からはが司会進行で『BSおしんだいすき』という5分間のミニコーナーで、次回予告や視聴者からのお便り紹介、ドラマに登場した当時の風俗や用語解説を行った。 またや、がゲストで登場したこともあった。 なお、当番組が放送されていたため、からに放送されている『』は、この年に限って15分遅い放送開始となっている。 全話放送は2003年以降からでそれ以前は少女編と総集編のみ再放送されていた。 これは当時田中裕子が所属していたの許可が下りなかったためである。 田中におしんのイメージが固定されるのを避けるための文学座の配慮ともいわれている。 からにはでも全話297回を2年間に渡って2回リピート再放送されている。 連続テレビ小説の放送50周年を記念し「おしん総集編」が2011年11月25日に、NHKよりがリリースされた。 なお売り上げ本数は9,000セットで、『』に抜かれるまで朝ドラDVD最高記録だった。 総集編はおしんの成長に合わせた展開で進み、小林と田中が活躍する部分に旅する老年期のおしんは一切登場することが無いが、最終話「最上川・時の流れ」で山形と東京を見て回るシーンが少し挿入されている。 【収録内容】• DISC. 1 第一話「最上川・ふるさと」 第二話「結婚・大震災」• DISC. 2 第三話「流転」 最終話「最上川・時の流れ」• DVD2枚組• 収録時間354分/画面サイズ4:3/モノラル/カラー/日本語字幕• 2013年、本放送30周年記念で、総集編と全297話がで放送された。 総集編:2013年1月1日〜4日 18:00〜19:30 全297話:2013年1月6日〜12月15日 毎週日曜日 10:00 - 11:30(毎週、1週間分を放送)、• 2019年、100作放送を記念して全297話がBSプレミアムで再び放送された。 全297話:2019年4月1日〜2020年3月21日 毎週月~土曜日 7:15 - 7:30、毎週土曜日 23:45 - 翌日曜日 1:15(1週間まとめて) 総集編 第1話:2019年5月11日 15:00-16:29 第2話:2019年8月18日 15:00-16:29 第3話:2019年12月8日 15:00-16:29 第4話:2020年3月22日 15:00-16:29 総合テレビで朝ドラ本放送後の平日8:15からされる『』では、朝ドラを観たキャスター陣が感想(朝ドラ受け)を述べることが恒例だが、その1人であるはこの本作再放送も視聴しており、2019年11月12日以降、不定期に『』のものと合わせて、本作の受けも行うことがあった。 ただし、は「時間差がある」と突っ込むことも恒例。 制作 [編集 ] 『おしん』誕生 [編集 ] 『おしん』誕生のきっかけは、「ある生まれの女性が、人に言えない過去を病床で綴ったものでした。 出身のの半生を、次女の千鶴子が代筆し、橋田壽賀子が「」誌で連載していた「母たちの遺産」に送ったことが発端である。 その後のドラマ化にあたり、橋田壽賀子やNHK番組関係者から取材を受け、脚本作りに協力した。 ドラマでは、丁稚に出る幼いおしんが、をで下るシーンが名場面として知られているが、丸山静江も榛原郡にに出るため、を筏で下って行ったという 主人公のモデルについては、誤報や誤解も多く、「の」や「の」とする噂話も存在した。 しかし、「母たちの遺産」での取材内容などをヒントにはしたが、特定のモデルは存在しないことを橋田自身が明言している。 「ヒントはいただいたが、モデルはいない。 いるとすれば、それは苦難の時代を生き抜いてきた全ての日本人女性です」 の人の苦労を伝えるのは、自分達の世代のだと感じた。 「でもテーマが地味過ぎて、どのテレビ局にも断られました。 でも、かなり反対があったんですよ。 『物は、当たらない』と言われてましたし…。 放送総局長(当時)の賛成で、やっと決まったんです」と橋田は述べている。 おしんの誕生年との誕生年は同じとなっている。 これは橋田壽賀子の意図的な設定であり、「私は昭和天皇にご覧いただきたくて、このドラマを書いたような気がする。 だからおしんの生まれを陛下と同じ明治34年にした」と語っている。 おしんというネーミングの由来は「信じる、信念、心、辛抱、芯、新、真」などの「しん」とされており、「日本人は豊かになったが、それと引き換えに様々な『しん』を忘れてしまったのではないかと思って名付けた」と橋田は述べている。 キャスティング [編集 ] 少女編を担当する子役を選ぶため、五次審査まであるオーディションが行われた。 四次選考で5人が残り最終審査に小林綾子ともう一人の2人に絞られた。 実は小林でないもう一人が本命だったが、人気子役でスケジュールが合わないため、小林綾子に決まった。 ドラマ撮影 [編集 ] おしん少女時代の撮影は山形県の中山町岩谷地区で撮影された。 ここで出演者の控室や囲炉裏のセットのモデルとなった築150年の農家の家が、地元有志によって「おしんの生家」として保存されていたが、2012年(平成24年)冬に雪の重さで倒壊。 その後、鶴岡市の庄内映画村オープンセットに移築されている。 当初NHKが山形での現地撮影に便宜を図って貰おうと山形の権威ある人物に協力をお願いに行ったところ、「山形はそれでなくても日本のチベットのように言われている。 そんな貧乏物語に力は貸せない」と追い返された。 ののシーンの撮影は、大江町役場の全面的な協力でいかだが再現された。 当時ほとんど見られなくなっていた筏を地元の元船頭の当時72歳の男性の指導で製作。 この男性が撮影で船頭もつとめた。 両親が口減らしのために出す『おしんを見送るののシーン』は、による窮乏と悲惨さを象徴し、本ドラマの代表シーンとして、必ず引き合いに出されるほど有名なシーンである。 このシーンの撮影が終わるとスタッフや見物の人々から大きな拍手がわきあがった。 しかし、父の作造が登場する場面は別撮りで、後年になって伊東四朗は、おしんの姿を見ずに演じることが大変であったことを明かした。 なお伊東は、の連続テレビ小説『』に、ヒロインの父親として登場し、船に乗って旅立つヒロインとその子供を港で見送るという、当作のようなオマージュシーンが存在する。 小林綾子演じる少女時代のおしんが奉公先から脱走するシーンは、ロケ地の雪山で本物の雪を巨大な扇風機で飛ばして撮影された。 その後の山小屋暮らしの撮影も雪山で行われ、麓の旅館と雪山を30分かけて往復したという。 が演じる脱走兵・俊作がで奏でている曲は原曲の『』という明治時代ので、何度かおしんも吹いている。 、の回想によれば、橋田壽賀子の脚本特有の長台詞に役者たちは皆苦労しており、撮影の合間も食事中も雑談する暇もなくひたすら台詞の練習をしていた。 は脚本と評判のいい少女編を受け継ぐプレッシャーの中、撮影中に倒れて救急車で運ばれて入院、1か月撮影が中断した。 このため、ドラマ放送を1週分中断し「」が放送された(後述)。 物語 [編集 ] (58年)新春、北へ向かう列車の中である老婦人が座っていた。 彼女の名は田倉(たのくら)しん。 各地に16店舗を構えるチェーンの創業者・経営者であった彼女は、新店舗開店という記念すべき日に行方を眩ましてしまった。 一族が騒然とする中、おしんとは血こそ繫がらないものの、孫同然の間柄である大学生・八代圭(やしろ けい)は昔、おしんが語ってくれた思い出話を頼りに、のへ捜索の旅に出る。 その地でおしんを探し当てた圭は、今すぐ三重へ戻るよう説得するも、おしんは帰ろうとせず、山形の山奥にある廃村に行こうとしており、話を聞かない。 だが圭はおしんの願いを叶えてあげたいという気持ちになり、彼女をおぶって雪深い山道を進み、廃村へと辿り着いた。 そこがおしんの生まれ故郷であり、雪の中で廃屋となっていた我が家を見たおしんの眼には涙が浮かんでいた。 そうして、おしんは圭にこの家出が80年以上の人生で自分は一体何を得て、何を失ってしまったか。 また、自分のことだけしか考えない経営方針に突き進む息子・仁(ひとし)を、どこででそういう息子にしてしまったのか、を振り返るための旅だと打ち明ける。 少女編(第1回〜第36回) [編集 ] 物語は40年()の春、明治も終わりにさしかかった山形の貧しいの娘・谷村しんの少女時代から始まる。 おしんの家は父・作造、母・ふじ、祖母・なか、兄・庄治、既にに出ている姉・はる、みつ、そして弟・正助、妹・こうにおしんを入れて9人家族だった。 その年、で7歳になるおしんは、4月からへ通うのを楽しみにしていた。 しかし家はここ数年のとへの借りも積り、食事はで食いつなぐ貧しい生活だった。 作造は口減らしのためにおしんに奉公に出るよう命じる。 おしんは嫌がり、ふじとなかはおしんがまだ7つだと反対する。 だが、おしんはなかがおしんのために食事の回数を減らしていたのを知る。 後日、おしんはふじが冷たい川に入っていくのを見て助けを呼ぶ。 ふじは引き上げられるがそれはのためだった。 おしんはこれから生まれる子のために1年奉公に出ることを承知する。 ・源助が年季奉公の前払いとして米一俵 を届けてくる。 奉公に出る日、なかはおしんにこっそり50銭銀貨 を渡す。 を材木問屋の奉公人定次の筏で下る途中、堤防の上を走っておしんを追いかける作造が泣き崩れる姿を目撃し、おしんは父も苦しんでいることを知る。 の中川材木店で、おしんは店の主人の軍次の子・武の子守をする。 おしんのお目付け役である材木店の奉公人つねは厳しく、ここでも大根飯、雪降る中で川でおしめを洗う辛い奉公生活だった。 ある日、尋常小学校を覗いたおしんは授業をしていた松田先生と出会う。 松田は夕方中川材木店を訪ねて来て、軍次ときんにおしんを小学校に来させるように説得。 軍次は子守りを承知でならと承諾する。 おしんは喜ぶが、つねは反対し、おしんを昼飯抜きにする。 おしんはそれでも学校へ通う。 見かねた松田はおしんに昼飯を持ってくる。 しかし同級生たちは松田の贔屓を快く思わず、おしんをいじめる。 武への危害を恐れ、おしんは学校をやめる。 定次から上流から筏を流すついでに谷村家にお使いに行ってやると言われたおしんは習い覚えたカタカナで手紙を出す。 定次は字の読めないふじとなかに手紙を読み聞かせる。 おしんは心配させぬよう辛いことは一切書かず、腹一杯食わせてもらっていると嘘を書いた。 町ではが脱走兵を探し回っていた。 ある時、つねの財布から50銭銀貨がなくなり、疑いをかけられたおしんは、首にかけた守り袋に入れていた50銭銀貨を取り上げられてしまう。 辛抱の糸が切れたおしんは、川の上流にある実家に向かい吹雪の中を歩き出す。 気がつくとおしんは見知らぬ青年に抱かれていた。 猟師の俊作が吹雪の中行き倒れとなっていたおしんを見つけ、体を温めてくれたおかげで、おしんは凍死を免れる。 ゆくあてのないおしんは、俊作と炭焼き・松造が暮らすが見える山小屋に春まで厄介になることになる。 で負った銃創が原因の高熱で倒れた俊作をおしんは懸命に看病する。 回復した俊作はおしんに読み書きや算術を教える。 おしんにせがまれ、俊作はの詩、『君死にたまふことなかれ』を朗読し、戦争の残酷さ、反戦を説く。 おしんが失踪してから20日。 つねの財布から50銭銀貨を持ち出したのは軍次だったと判明するが、つねはおしんが家に逃げ帰ったと思い、源助を呼びつけると、前払いの米一俵の回収と50銭銀貨の返却を依頼する。 源助から銀貨を渡されたふじは、おしんが死んだと思い悲しむ。 おしんは、毎日腹いっぱい食べ、勉強できる幸せな日々を送っていた。 春がきていよいよ家に帰ることになる。 足をくじいた松造にかわって、普段人前に出ない俊作がおしんを連れて山を下りる。 俊作から愛用のハーモニカをもらったおしん。 だが山狩りの兵隊につかまり、もみ合いの末、俊作は射殺される。 おしんは憲兵の取り調べで、俊作が脱走兵として追われる身だったと知る。 ようやく家に帰ったおしんにふじとなかは喜ぶが、作造は激怒、兄の庄治も村で白い目で見られると愚痴る。 松造はおしんをこっそり訪ね、俊作の身の上を話したあと去っていった。 家では妹のすみが生まれていた。 年季奉公が明けたはるが家に戻ってくるが、すぐにへ勤めに出た。 次の奉公先が決まらないおしんは、はるがくれた小遣いで買った石盤でこっそり字の練習をする。 その年も凶作で、生活に行き詰まった作造は一家でを決意するが、年老いたなかは置いていくという。 悲観したなかは川へ身投げしようとするが、おしんに止められ、移民の話は立ち消えになった。 そこで乳飲み子の末妹・すみを養女に出し、ふじがへ働きに出ることになる。 おしんはふじに代わって村の共同作業の杉苗植えをする。 りきが子守り奉公の話を持ってくる。 奉公先はの・加賀屋で2年で米5俵。 だという。 おしんは再び奉公に出ることを決意するが酒田に行く前に銀山温泉で働くふじに会うことを望み、家族に黙って銀山温泉に徒歩で向かう。 酌婦になっていたふじはおしんの訪問に驚くが、母子で一夜を過ごす。 翌朝、おしんはふじに似ているこけしを譲ってもらい旅立つ。 酒田の加賀屋に着いたが、跡取り息子の嫁である若女将みのはまだ加賀屋の意思決定権をもつ大奥様のくにに子守の雇用に関する許可を得ておらず、困惑しておしんを帰らせようとするがおしんは実家の窮状を訴えてなんとしても奉公させて貰えるよう哀願する。 その話にほだされたくにはおしんを奉公人として迎え入れ、みのの末娘小夜の子守りをさせる。 おしんの働きぶりにくには感心し、同い年の孫娘・加代の教育に利用する。 ある日、おしんは加代の部屋にあった美しい絵本に魅入られて持ち出してしまう。 だが、その後清太郎とみのは、街で聞いてきたおしんが奉公先から逃げ出し脱走兵と暮らしていた過去を知り、更に不信感を抱く。 おしんは俊作の形見であるハーモニカを取り上げようとした加代と取っ組み合いの喧嘩になり、加代に怪我をさせてしまう。 くにはおしんが居なくなることを惜しんだが、加賀屋の中で完全に庇うことが出来る筈も無くおしんをを出すことに決め、別の奉公先を見つけてくる。 おしんは解雇されることを覚悟し、加代への詫びの気持ちとしてススキの穂で作ったを託す。 ミミズクを受け取った加代はその出来栄えと、銭でを譲らなかったおしんの高邁な自尊心に思い至り、おしんをどこにもやらないでくれとくにに懇願する。 加代はおしんに心を開くが、みのと清太郎は訝しむ。 加代はくににおしんも学校に行かせて欲しいとねだるがくには奉公人のおしんには仕事があると断る。 その代り子守奉公の仕事が終わった後、くにはおしんに仕込みのやを教えはじめ、加代も一緒に手習いをするようになった。 だがみのからは奉公人の分を超えていると嫌味を言われ、いたたまれなくなったおしんはくにに辞退を申し出るが根性を出して続けてみろと諭されて続けることになる。 酒田にも送電が行われることになり、加賀屋に電気を通すための工事が行われるが、建てられる途中、電信柱が倒れる。 工事を見ていた加代が危うく下敷きになるところをおしんがかばい、ことなきを得る。 足がすくんで何もできなかったみのは感激し、以後、おしんを実の娘同様に可愛がるようになる。 正月を迎え、9歳になったおしんは加代とお揃いの晴着で初詣に行く。 そこで酌婦になったふじが客の男といるのを見かける。 その夜、加賀屋の近くに不審な女がいると聞いたおしんは、外に出てふじと再会する。 くには陰から一部始終を見届け、家に戻りひっそり泣くおしんを慰める。 その後もおしんは傲ることなく奉公人として勤め、加賀屋になくてはならない存在になっていった。 加代が洋服を買ってくれなければ学校に行かない、買うまで飯は食わないとわがままを言う。 くにはおしんに大根飯を炊かせ、加代とおしんに食べさせる。 大根飯を食べた加代は、おしんの境遇を想い、わがままをやめる。 ひな祭りの祝いにりきが顔を出す。 なかが危篤と聞いたくには、おしんに米一を持たせ、急ぎ家に帰らせる。 なかはおしんの炊いた白米粥を食べ、息を引き取る。 に歩くおしんは、家族のため働きづめで死ぬような女にはならないと心に誓う。 なかが布を織って貯めた50銭銀貨を形見にもらい、おしんは加賀屋に戻る。 青春編(第37回〜第86回) [編集 ] のに沸く5年()おしんが加賀屋へ奉公に来て7年の歳月が過ぎた。 16歳になったおしんはとして家事の他、くにに茶道や帳場の手伝いまで仕込まれ、忙しく働いていた。 一方、加代は絵描きを目指す自由奔放な女に成長し、を辞めようとしていたそんな折、おしんに縁談が持ち込まれる。 相手は相場で儲けた酒田の成金大店(おおだな)、桜木家の凡庸な息子であったが貧乏の辛さを知るおしんは、くにの紹介でもあり話を受け入れる。 ある日、おしんはみのに頼まれ、風景画を描くために砂丘に出かけた加代を呼びに行く。 そこで警察に追われる高倉浩太を助けることになる。 加代は浩太に惚れる。 ところが浩太はおしんを気に入り、何かと用を頼む。 浩太は地主の息子でありながらに命をかける男だった。 おしんはそれを知り、浩太に心惹かれるようになる。 浩太は過去に奉公人との悲恋がありそれが今の運動をするきっかけだという。 浩太は酒田を去るが、加代に内緒でおしんが浩太と会ったことが加代に知られる。 おしんは縁談と浩太の間で揺れる。 ふじが加賀屋に口利きしてもらい、女丁持になる。 加代はおしんへの浩太からの手紙を盗み見て家出すると、再び酒田に来た浩太の下へ行く。 加代はおしんの縁談を浩太に教え、強引に二人で上京してしまう。 おしんは桜木の家に手伝いに行くが、酔って絡んできた婚約者である桜木の息子を池に突き落とし、縁談は破談になる。 おしんは縁談を破談にしたこと、加代と浩太のことを加賀屋の人間に隠していることに耐えられず加賀屋から暇を貰い帰郷する。 おしんの戻った実家に、奉公先の製糸工場でを患い、瀕死の姉・はるが帰ってくる。 おしんははるが密かに好意を寄せていた製糸工場の監督員・平野にはるの見舞いに来てもらう。 作造が口入れ屋勝次を連れてきておしんの料亭奉公を決めるが、はるは勝次が製紙工場の女工を騙して女郎部屋に若い娘を売っていたと気づき、おしんに自分がになるために行く予定だった東京の髪結いの師匠の所書きと手持ちの銭を渡し、故郷から逃げるように言い含めて19歳の生涯を閉じる。 おしんはふじの協力で家を抜け出し上京。 の髪結い・長谷川たかの下へ向かった。 おしんはたかの店・髪結長谷川まで来るが、姉・はるの所書きを見せても人を入れる余裕がないと言われる。 おしんは店の裏手に回り、消えかけの竈火を熾し、台所や店を手伝ってみせる。 おしんの働きぶりに、たかは様子を見ることにする。 だが奉公人の中で一番若い下働きりつはおしんに仕事を取られ文句をつける。 翌日、おしんはりつに迷惑がかかるなら諦めるとたかに申し出るが、たかはやる気があるなら何人でも置くつもりだと言う。 それからおしんはりつを立て、自分は裏方に回る。 髪結いは12、13歳で弟子入りし、3年下働きし、それからやっとすき手になりまた何年も奉公し、一人前になるまでに7 - 10年もかかるという。 一年で一番忙しい年末年始、たかはおしんにすき手をやらせる。 だが先輩奉公人のおけい、お夏は、おしんが1年も満たない内にすき手になったことが納得できず辞めると言い出す。 おしんは自分が辞めるからと引き留め、ことは収まったが、たかはおしんは意気地がないと言い、以降客の髪を触らせなかった。 それ以来、おけい、お夏もおしんに心を閉ざしてしまう。 おしんが下働きのまま2年が経つ。 大正7年()になると髪結いの主流が洋髪になりつつあった。 おしんにふじから手紙が届く。 おしんが加賀屋で子守をしていた小夜が肺炎で亡くなったという。 おしんは暇を貰い久しぶりに帰郷、加賀屋を弔問する。 悲しみにくれるみのはおしんは実の娘と同じであり、ずっと加賀屋にいて欲しいと引き留めるが、くにに諭され諦める。 くには東京で加代に会ったらどうか助けてやってくれとおしんに頼む。 帰京したおしんはでのを聞きつけ、浩太の姿を求めて日比谷公園に向かい検挙されてしまう。 翌日、たかが身元引き受け人となり、おしんは店に戻る。 たかはおしんほどの娘が2年も下働きをさせられて嫌になったのかと労うが、逮捕されたことが噂になり、先輩奉公人らの風当たりも強くなる。 それから十日ほどたった夜、たかはおしんを呼び出す。 たかは最近客が減ったのはおしんのせいではなく、日本髪を結う客が減ったからだと言い、おしんに将来洋髪で一本立ちすることを勧め、まず日本髪の基礎を教える。 おしんは下働きの合間に他の髪結いを見学し、洋髪を独学で習得する。 ある日店にの「アテネ」の女給・染子が訪れ、洋髪を頼む。 たかはおしんを呼び出し、長谷川として初めて洋髪を結わせる。 染子はおしんの洋髪が気に入らず激怒して長谷川を立ち去るが、周囲から似合うと言われて上機嫌になり、おしんにあらためて髪結いを頼みにくるが、たかが長谷川では洋髪は出来ないと断り、おしん単独での出髪(出張結髪)に行くように命じる。 修行中で料金を取らず腕のいいおしんは、他の女給にも髪を頼まれるようになる。 さらにおしんは女給たちの恋文の代筆や着物の仕立てまでこなした。 恋文の宛先はすべて田倉竜三という男だった。 たかはおしんに独り立ちするよう言い渡す。 ある日、おしんは竜三から染子を介して依頼されたの高級カフェに出髪に行くが、アテネに出入りしていた髪結いのつると鉢合わせてしまう。 つるは自分の客を奪っていくおしんに自分の縄張りを主張するが、おしんが抵抗。 カフェの用心棒に出髪はつるに決っていると言われ、叩き出される。 騒ぎをききつけて店から飛び出してきた竜三は用心棒を制止し、倒れたおしんをひとりの女給が介抱するが、その女給は行方不明になっていた加代だった。 加代はその場を逃げ出すがおしんが追いかけ、二人はようやく再会。 加代は東京に寄り付かない浩太を下宿で一人待ち続けていた。 おしんは小夜の死を告げ、加賀屋に戻るよう懇願。 加代は酒田に一時期のつもりで帰郷する。 おしんは髪結いとして独り立ちし、たかの店の近くの老夫婦の家に下宿する。 竜三は自分が出髪を依頼したせいで迷惑をかけたとして、おしんに高価な鏡台を贈る。 加賀屋ではくにらが加代の男(浩太)からひと月も連絡がないことに見切りをつけ、家柄のいい政男を婿に決める。 加代は上京しようとするが、くにが倒れる。 浩太を諦めきれない加代はおしんに連絡を取り、下宿に浩太が来たら知らせて欲しいと依頼する。 加代の下宿に浩太があらわれ、おしんは加代の想いを改めて浩太に伝えるが、小作争議のために逃げ回る浩太は自分に会ったことは言わないで欲しいと言う。 おしんは酒田に行き浩太のことを伝えぬまま、を挙げる加代の文金を結う。 加代は加賀屋の跡取りになる覚悟を決め、祝言を挙げる。 おしんは、りきからふじが苦労していると聞き、実家に帰る。 小作の生活はあいかわらず苦しく、庄治、作造はふじに当たり散らす日々。 おしんはふじのためにも再び仕送りを始める。 東京に戻ったおしんは、加代の下宿で浩太を追っていた刑事に連行されてしまうが、竜三のお蔭で釈放される。 から上京していた母・清に見合いを勧められた竜三は、おしんと結婚したいと言い出し、清と源右衛門(源じい)は激怒。 求婚されたおしんもきっぱり断る。 おしんの実家の借金返済や、庄治が嫁をもらうための家を建てるため、作造は手紙でおしんにさらに仕送りを無心する。 おしんは仕送りの無理が祟り過労と心臓で倒れ入院する。 竜三はおしんに付きっきりで看病する。 清は病室に押しかけ勘当すると言い渡すが、竜三は田倉と縁を切り店も出ていくと言い返す。 退院後、仕送りが途絶えたおしんの様子を見に作造が上京する。 仕送りをせびる作造に嫌気がさしたおしんは、思わず「田倉さんのところに嫁にいく」と口走る。 逆上した作造は田倉店に怒鳴り込み、源じいと激しく口論してしまう。 作造はおしんに結婚しないよう言い含め帰郷する。 翌日、おしんと竜三は互いの想いを打ち明け結婚を決める。 大正10年()の春であった。 二人だけの祝言を済ませ、竜三は源右衛門の理解を得るため、おしんを田倉羅紗店に同居させる。 結婚に反対していた源右衛門はおしんが身につけている礼儀作法や商才、人柄、手際の良さに感服する。 佐賀にいる竜三の父・大五郎が上京する。 源右衛門が、おしんを褒めちぎり、竜三と一緒にしてやってほしいと書いた手紙を送られていた大五郎は、二人の結婚を認める。 源右衛門は自分は用無しなので大五郎と一緒に佐賀に帰ると言うが、おしんは「私を嫌いでなかったらここにいて」と引き止め、店に留まる。 その矢先、作造危篤の報が入りおしんは帰郷する。 新居に住む庄治と嫁のとらは冷ややかで、作造は古家に寝ていた。 作造は死の床でおしんに感謝し、また謝罪する。 おしんが祝言を挙げたことを告げるとこれを喜び、体を起こして作造危篤の報に接して集合したおしんの姉弟達と祝いの酒を飲んで息を引き取った。 葬儀の後、新居には小作争議のために小作人が集まっていた。 その寄り合いに来た浩太と再会したおしんは結婚したことを告げ、自らの初恋の想いに区切りをつける。 おしんは帰路、酒田の加賀屋に作造の葬式と自身の結婚の報告に上がる。 加代は浩太への未練と政男の不貞に悩んでおり、家を出たいと言うが、おしんは加代は我儘だと嗜める。 帰宅した政男は加代、みの、おしんの前で落籍した芸者のが妊娠したので産ませて認知すると宣言。 泣き崩れる加代におしんはためす術が無かった。 東京に戻ったおしんは竜三と一緒にたかの下へ結婚の挨拶に行くが、もあり、日本髪を結う客がめっきり減って、長谷川はたかとりつだけになっていた。 試練編(第87回〜第136回) [編集 ] おしん竜三夫妻のためにカフェ・アテネで結婚祝賀パーティーが開かれる。 その最中、田倉羅紗店の店員が羅紗を卸している大口の洋服店が明日にも破産宣告をすると伝えにくるが、竜三も源じいも酔いつぶれ、正気なのはおしんだけであった。 翌早朝、おしんは独断で卸した生地を洋服店から回収する。 それは加賀屋のくにの教えであったが、竜三は激怒しておしんを張り倒す。 だが直後に同業者がやって来て洋服店が破産したことを告げ、そして田倉商会がいち早く対応したことを評価した。 洋服店が倒産したのは戦後不景気が遠因だが、直接の原因は竜三が洋服店に薦め、出資した縫製工場のためだった。 竜三は自分の判断の甘さを恨んでふて寝してしまう。 大正10年の年末、髪結長谷川では急に日本髪の客が増えて手が足りなくなり、おしんは手伝いにいく。 たかはおしんに50円 の報酬を支払う。 戦後不況は続き、竜三の羅紗店も経営が危なくなり、源じいは店を畳んで佐賀に帰ると口にする。 おしんは髪結長谷川に駆け込み働かせてくれと懇願。 たかは洋髪をやるつもりもなく店を畳もうかとも考えていたが、おしんの申し出に店の再出発を決める。 おしんの持ち前の才覚で髪結長谷川は洋髪店として盛況となるが喜々として稼ぎに出るおしんに竜三は男としての面子を潰される。 竜三の努力の甲斐あって久しぶりに大口の注文が入り大量に納品したが注文は詐欺で羅紗を騙し取られてしまう。 おしんは田倉のため髪結の仕事に精を出すが、深夜に酔いつぶれた竜三が女給を伴って帰ってくる。 女給は高額のツケの支払いを要求するが、おしんは竜三に理解を示し、ツケを支払う。 髪結長谷川は盛況でおしんとたか、りつの他、新しい結い手を雇うほどになっていた。 田倉羅紗店は開店休業の状態がつづき、竜三は完全に商売への意欲をなくし、おしんが稼ぎ出した金で遊び歩くようになる。 たかは甘やかすなとおしんに言うが、おしんは竜三に尽くすため働く。 ある夜、竜三が女給を連れてカフェ・アテネへくり出すが、立腹した染子が竜三を激しく叱咤、自宅に戻った竜三はおしんに対して理不尽で身勝手な鬱憤をぶちまける。 おしんは自分の行いが竜三のプライドを傷つけているならと別れる気になるが、妊娠していることに気付く。 たかは髪結いの亭主と別れた自分の過去を語る。 女の稼ぎが男を駄目にすると聞いたおしんはその場で髪結をやめると申し出る。 竜三は源じいとおしんを連れて佐賀へ帰ることを提案するが、おしんは拒否。 退職したこと、子供が出来たことを伝え、東京で暮らそうと励ます。 おしんが髪結いをやめてから2ヶ月が経ち、とうとう米一粒もなくなるがおしんはのんびり構えていた。 見かねたたかが訪ねて来てお金を差し出すが、おしんは、竜三にどん底から立ち直ってほしいからと断る。 突然うな重の出前が届く。 竜三はかつて佐賀で面倒を見た小作の伜に頭を下げて借りてきた金をおしんに渡し、生活のためならどんなことでもすると宣言、おしんを感激させる。 竜三は知り合いに子供の洋服の需要が伸びてきたから、の商売を勧められる。 開業資金のためにおしんは不良在庫の羅紗をで売ることを思いつく。 竜三は渋り、知り合いの洋服店に勤めに出ると言う。 だがおしんは羅紗の仕入れ値を調べ、竜三と源右衛門の留守中に一人で羅紗を持ち出し、浅草の露天に売りに出る。 思った通り羅紗は飛ぶように売れるが、の男衆がやってきて無許可で出店するおしんに帰れと脅し、おしんともみ合いになる。 そこに的屋の親分・中沢健が現れて取りなす。 怪我をして帰宅したおしんは竜三に叱られた上、売上が入った袋を忘れたことに気付き悔しがる。 翌日、田倉羅紗店を健が訪ねてくる。 腹の虫が収まらないおしんは健に食って掛かるが、健は売上が入った袋をおしんに差し出す。 おしんは健が同郷の出身と知り意気投合。 健はおしんに、的屋のを教え、露天商の許可証も出す。 おしんは露天で田倉の羅紗を10日余りで売り尽くし、商売の資金確保に漕ぎ着ける。 おしんはミシンの購入、型紙の発注と子供服の商売の準備を着々と進めるが、洋服店へ勤めに出ている竜三は乗り気ではなかった。 しかし、おしんが子供服を一着縫い上げると一転乗り気になり、積極的に協力するようになる。 大正11年()9月1日、田倉商会は子供服専門店として再出発する。 しかし、10日経っても一向に売れなかった。 おしんは失敗と思いやめようと思ったが、呉服屋・大野屋の仕入れ担当が来て、子供服の納入を頼まれる。 竜三の営業の成果だった。 大野屋に納入した子供服が飛ぶように売れ竜三はすっかり有頂天、おしんに無断で縫い子と足踏みミシンを3台から6台に増やし、もっと大きな作業場も建てると言い出して勤めていた洋服店も辞めてしまう。 さらに裏庭に小さな作業場を建てミシンを5台増加。 身重のおしんを尻目に竜三はすっかり天狗になって遊び歩く。 大口の注文を取ってきた竜三は夜も縫い子を雇いミシンを動かすと言いだすが、おしんは製糸工場での無理が祟り早死した姉、はるの話をする。 源右衛門も竜三の安易な事業拡大を諌める。 おしん第一子の出産が迫り、竜三はおしんに内緒で山形からふじを呼び寄せる。 庄治夫妻は難産だが第一子が生まれたという。 竜三と源右衛門はふじを観光や外食でもてなし、おしんはやっと親孝行が出来たと二人に感謝する。 大正12年()1月、おしんに長男が産まれる。 の祝いで、竜三は雄と命名。 戦争嫌いのおしんは軍人になりそうな名前だと言う。 おしんはふじにそのまま田倉の家にいてもらうつもりだったが、ふじは譲らず山形に帰っていった。 佐賀から大五郎が生まれた赤ん坊に見にやって来る。 大五郎は作業場を見て金を融資すると言う。 竜三から融資の話を聞いておしんは万が一のことを考え、大五郎に融資を辞退したいと言うが竜三は承諾、程なく新築する作業場のための土地が見つかる。 酒田から出産祝いに加代が来る。 縫い子の糸子が怪我をし、処遇に関して竜三とおしんは言い合いになる。 加代はそれを見て本当の夫婦だと羨む。 加代はおしんに、加賀屋での生活を捨て酒田には二度と帰らない、東京の実家にいる浩太の消息がわかったので今度こそやり直すと打ち明ける。 加代は浩太と会うが浩太は謝罪を繰り返すだけだった。 一晩塞ぎ込んだ加代は浩太をあきらめ酒田に戻る。 田倉商会は今までの店の儲けを総てつぎ込み借金づくめで悲願の作業場を新築する。 9月1日、留守と子守りのために源右衛門と雄は羅紗店に残り、おしんと竜三が工場の落成祝いの準備をしている正午2分前、が田倉商会とおしん達を襲う。 揺れがおさまり竜三とおしんは羅紗店の方へ向かう。 店は倒壊、源右衛門は身を挺して雄を庇い抱きしめて死んでいた。 瓦礫から火災が発生し炎が迫る。 雄を抱いた竜三は源右衛門に縋りつくおしんを遺体から引き剥がして上野公園に向かう。 に2日野宿し火災が落ち着いたのを聞いて店を見に行く途中、たかとりつに会う。 たかから工場の辺りは焼け野原になったと聞いた竜三は動転し走り出す。 無事だった健がやってきて何かとおしん一家の面倒を見てくれることになる。 竜三が茫然自失で戻ってくる。 新築した工場は地震では全壊しなかったものの、その後の火事で全焼していた。 竜三は佐賀に帰ることしか頭になくなる。 だがおしんは佐賀の姑に嫁として未だに認めて貰っていないこともあり東京に残っていちから出直そうと竜三に進言する。 ふじが加賀屋の助けを借りて見舞いにやってくる。 おしんは絶対に佐賀に行かないと言い張るが、ふじに平手打ちされ、子供が出来た以上、夫に付き従って佐賀に行けと説得される。 おしんは佐賀行きを承諾、雄を連れて佐賀へ向かった。 おしんがやっと辿り着いた田倉家の敷居は高かった。 大五郎は震災を逃れた竜三、雄の無事を喜ぶが、竜三の長兄・福太郎は借金までした東京の商いの失敗に苦言する。 源右衛門の死について清はおしんさえいなければこんなことにならなかったとおしんを口撃する。 相談なしに竜三に金を出した大五郎も田倉家の中で立場がない。 おしんと竜三は物置のような一室を割り当てられる。 竜三が雄のおしめを洗うと清は割って入り嫁を甘やかすなと叱責する。 竜三一家無事の祝いが行われるが、おしんと福太郎の嫁・恒子の分の膳が無い。 おしめのことで清はおしんに小言を言う。 恒子に女は男衆が食事を済ませてから頂く、この辺の習慣だと言われる。 おしんは土間で食事、風呂もしまい湯。 おしんは台所を手伝いを申し出るが、恒子は本家の嫁の勤め、余計なこととおしんの助けを拒否する。 清は福太郎の手前おしんを客扱いできないと言い、竜三と一緒に、野良仕事をするよう言いつける。 田倉家は元々大地主で竜三は畑仕事をしたことがなかったのだが、大五郎の代で事業に失敗し凋落してしまっていた。 佐賀に着いた翌朝、おしんは洗濯の石鹸はどこかと恒子に尋ねるが、石鹸は一家ごとに別であり、買う金は清に貰う、雄のおしめ洗いで石鹸を使われたと愚痴る。 清はおしんに山形の実家はこれだけ娘が世話になっているのに何も送ってこないのかと嫌味、朝食時にはおしんがに手を伸ばすと「痩せの大食い」と嘲笑う。 竜三とおしんは作男・耕造とその妻・佐和と開墾を始める。 佐和は田舎の百姓の嫁とは思えない程の美人であった。 開墾は重労働だが弁当は握り飯二つのみ。 竜三は不満を口にするが耕造と佐和は小さな一本の薩摩芋を分け合っていた。 米の飯は小作や作男は祭りの時のみ。 耕造の家は母と小姑が三人もいるので佐和が苦労をしているとこぼす。 家に戻って耕造の話になると、佐和は元・ので村のつまはじき者であり、佐和と口を利くなと指示するが、おしんは元女郎のどこが悪いのと口答えしたため、清は憤慨する。 清が竜三に餅を差し出すと竜三はおしんの分も欲しいと言う。 すると清はおしんにおなごは腹が減っても自分のものまで亭主に差し出すものだと叱る。 おしんは、佐和の髪が見事なので野良で一度丸髷 を結う。 耕造と佐和は大変に喜んでくれたが、帰宅したおしんに、清は田倉家に泥を塗ったと激怒する。 佐和の髪を見て、田倉家におしんに髪を結ってもらえないかと頼む人がいるという。 それを聞いたおしんは、髪結いに行きたいと願うが、の家柄を誇りにしている清が許すことは無かった。 おしんは竜三になぜ髪結いしてはならないのかと不満と愚痴をこぼす。 おしんが髪結をしたいのは自由になるお金が欲しいからという理由を知った竜三はおしんの立場を理解せずに母・清に雑費のためにと金銭を無心するが、おしんは清から何も不自由はさせていないと小言を言われる。 姑と嫁、夫婦仲は険悪になるばかり。 畑でおしんは佐和から身の上話を聞く。 耕造は佐和ののために田畑を売って作男になったので佐和も家の中では針のむしろだという。 おしんは竜三に田倉家を出て町に出ようと言うが、商売に懲りた竜三は良い返事をしない。 だが竜三も実家の野良仕事に虚しさを感じてもいた。 竜三は大五郎がやっているの組に入り自分の土地を手に入れることを思いつく。 干拓事業は結果が出るまで長い年月を要するため、清は良い顔をしない。 畑になるまで10年もかかると言うが、大五郎の口利きで竜三は組に入る。 おしんはなんとか気に入られようと再度家事の手伝いを願い出るが叶わない。 長兄の子供たちが穀潰しと囃し立てる。 清がおしんをそう言っていると教えられる。 福太郎と清は、干拓は大きな台風がくれば水の泡となる事業だと愚痴る。 清は竜三の干拓参加をおしんのせいにする。 それを聞いたおしんは干拓事業を案じるが、竜三は聞き入れない。 おしんは心配をかけまいとして山形や酒田、東京への手紙には辛いことは一切書かず、普段の口数すら少なくなっていった。 大正13年()の正月。 東京のたかから年賀状が届く。 髪結長谷川を3月にも再開できそうだと記してあり、おしんは東京に戻ってたかの下で再び働くことを夢見るようになる。 それ以来、心の中で3月までの辛抱だと呪文のように繰り返すようになっていた。 おしんは再度竜三に田倉家を出るつもりはないかと問うが干拓に賭ける竜三の意思は固い。 竜三とおしんは衝突し、とうとう家庭内別居をすることになる。 おしんが源右衛門の墓参りをしていると、誰かが掘割に身投げしたという。 行ってみるとそれは佐和だった。 後日、おしんは一命を取り留めた佐和を訪ねると、佐和は納屋で寝起きをしていた。 聞くと佐和は自分が女郎であったことと、身請けのために土地を失ったことなどで夫が姑と喧嘩が絶えないのが申し訳なくなり、気づいたら飛び込んでいたのだと言う。 佐和の身の上を気の毒に感じたおしんは佐和に一緒に東京に逃げようと誘う。 たかから東京で仮住まいを定めたとの手紙が届き、おしんは喜ぶ。 おしんはの中日に発つと決め、佐和に汽車賃を渡す。 佐和はおしんが妊娠していることに気付く。 計画の日、竜三の次兄で陸軍・亀次郎が来て挨拶する。 末妹・篤子も帰郷して妊娠を打ち明ける。 おしんは雑木林で汽車の時間を待つが、佐和は身重のおしんの身を案じ、干拓に出ている竜三を呼び出して計画を漏らしてしまう。 おしんは竜三に見つかり、東京に行くなら雄を置いていけと言われる。 おしんは雄を奪う竜三に掴みかかるが振り解かれて倒れ、木の枝が刺さって流血、失神する。 竜三に介抱され意識を取り戻したおしんは東京に行くと泣き叫んで抵抗するが、佐和に宥められ、竜三の荷車で田倉家に戻る。 竜三は清に怪我に至った顛末を隠す。 おしんの怪我は酷く首から右肩にかけてざっくりと肉が裂けていた。 さらに激しい出血のあとの衰弱と傷からくる発熱とで3日ほど昏睡状態になる。 清は金がかかり疫病神だと罵る。 10日経ち右手は使えないが歩けるようになる。 だが清が世話する雄には会わせてもらえない。 おしんは竜三に怪我にかかった費用を手持ちの100円の中から出しておいて欲しいと伝えるが、竜三は清の気持ちが解らないのかとおしんを叱る。 おしんは「血を分けた母親なのにあなたは何もわかっていないのね」と愚痴るのであった。 篤子のの前日、おしんは床上げするが右手がしびれて思うように動かない。 祝いの日、おはぎも握れず、小鉢も割ってしまう。 竜三は怪我は首と右肩なのだから手が自由にならない筈がないと言う。 清は針仕事を持ってくるがおしんは針が持てなかった。 再び開墾に出るようになる。 畑で佐和は東京に出る筈の金をおしんに返すと言うが、おしんは裏切られた恨み言と共にそれを突っぱねる。 佐和は身籠ったことを竜三にだけは話した方がいいと言うがおしんは拒絶する。 怪我から1ヶ月経ったが、右手は相変わらずで思うように働けない。 そのことで清ばかりか、竜三にも疎んじられる。 見かねた大五郎はおしんを町医者に見せに行くがどこも悪くないという診断であった。 竜三が大五郎、清に呼び出され、おしんを実家に帰してはどうかと提案される。 清は竜三に離婚を迫る。 おしんが佐和から貰った腹帯を竜三に見られ、妊娠が発覚。 竜三は里に帰って産んだほうがいいと言うがおしんは谷村家はもう兄の代だからと田倉家にいると言う。 おしんの覚悟を知った竜三は、おしんに腹帯を締め、清におしんとは別れないと告げる。 おしんが佐和と逃げ出そうとしていたことが耕造の母親から清に知らされ、清はおしんを詰問する。 佐和の小姑がおしんの渡した汽車賃の30円 を見つけ、何の金かと佐和は姑小姑に折檻されたという。 再び身を売った金なのかと疑われ、おしんに貰ったと白状した。 おしんが外に飛び出すと放心状態の耕造が「佐和を返せ」とおしんに詰め寄る。 佐和は既に佐賀を逃げ出していた。 竜三は大五郎と清に、おしんの妊娠とおしんに怪我をさせたのは自分であると打ち明け、おしんはこの家で出産させると宣言する。 清は竜三に一つの家にお産が二つあると、どちらかが欠くと言われ、忌み嫌うのでおしんを他所に移すと言い出す。 大五郎はそんな風習はただの迷信だと一蹴するが恒子も心配する。 竜三と夫婦の絆を取り戻したおしんは、大きなお腹で野良仕事の日々だが、清に口をきいてもらえない。 ある日、佐賀では妊婦には良いとされるドジョウが用意されるが、ドジョウを食べられたのは帰省した篤子だけであった。 竜三はおしんの分のドジョウが無いことを意見するが清は相手にしない。 見かねた恒子は、おしんを呼び出し、お産の迷信のことを教え、このままでは清に殺される、山形に帰った方がいいと勧める。 風習を信じる清はおしんが身二つになるまで、預かってくれる所が見つかり、一人移れと言うが、おしんは迷信に納得せず拒絶、清は激怒し決裂する。 清は竜三に自分は一度も姑に逆らったことはなかったと泣きつく。 おしん、最後の意地であった。 自立編(第137回〜第185回) [編集 ] 田植えの一番忙しい時期。 おしんは身重の体を押して田植えをする。 清は身重の篤子を連れ帰り、を食べさせ、一番風呂に入れる。 同じ妊婦のおしんをこき使い、自分の娘を甘やかす清に憤る竜三をおしんは止める。 おしんは文句を言われるのは結局私なのだからと宥めるが、竜三はおしんから頼られていないのかと拗ね、以後口出ししなくなる。 ふじから手紙とおしめと産着が届く。 やがておしんは野良仕事が終わると眠気で立てなくなる。 洗い物をしながら居眠りをするおしんを見た福太郎は、もう働くのは無理だと意見する。 大五郎のはからいで、おしんは仕事を休むが、家事も雄の子守りもさせてもらえず、居場所がない。 昼食のうどんを食べようとすると、清は働かず食べるのかと激しく口激。 翌日からおしんは何があっても仕事を休まなかった。 やがて、稲刈りの季節を前にして産み月になる。 清はお産は不浄なので、篤子は家の納戸、おしんは裏の納屋代わりの離れを使えと指示。 恒子は魔除けの麻の葉を刺した出産用の厚地のの下敷きをおしんに渡す。 稲刈りから帰宅した夕刻、篤子が産気づき、竜三が町のを呼びに行く。 夜、離れにいたおしんも産気づくが一人耐える。 篤子はひどい難産で、見るに堪えない清は部屋を飛び出し「みんなおしんのせいだ」と叫ぶが、大五郎は清を突き倒し「二度とそんなこと言ったら叩き出す」と怒鳴りつける。 産婆から手に負えないので町の医者を呼んでくれ、朝までに産まれなければ赤子をあきらめねばならないと言われ、竜三が真夜中の雨の中走り出す。 陣痛に苦しむおしんは、離れから竜三を呼ぶが入口で倒れてしまう。 朝方、医者が到着し、篤子は無事出産。 竜三がやっと離れの方へ行くとおしんが気を失っていた。 目を覚ましたおしんは、女の子を産んだ、お乳をやりたいと言うが、竜三はごまかす。 清は母屋で近所の女衆を招いて篤子の出産祝いをする。 清たちの笑い声に、竜三はいらだち、怒鳴り込む。 竜三に代わり、大五郎がおしんに産んだ子は死んでいたと告げる。 おしんは子どもに愛と名付けたのだと叫ぶ。 死産のショックでおしんは放心状態となり、ものも言わず、ただ乳が出るばかり。 一方篤子は乳の出が悪い。 清はおしんに乳を分けてもらえないかと言うが、篤子は嫌がり、竜三も激怒。 恒子はおしんのためになるかもと竜三を説得。 おしんは自分の子ではない赤子を抱き黙ってお乳をやる。 清はおしんは慈母観音のようだと感激する。 正気に返ったおしんは死産を受け入れ、死んだ愛の代わりに生まれた篤子の子に乳をやりたいと言う。 清はおしんに手をついて感謝し和解する。 清は篤子の子に愛と名付けた。 おしんは愛に乳をやり、今まで遠ざけられていた雄の守りをする平穏な日々を送る。 竜三たちはおしんが清から嫁として認められたと安堵する。 生後33日目の愛の。 篤子と愛は嫁ぎ先に帰る。 佐和からおしんに手紙が届く。 手紙には東京で無事に暮らしを立てていることが綴られていた。 おしんは竜三に家を出て東京に行くと打ち明ける。 死産してから家を出ると考えていたが愛に乳をやるため留まっていた、ここでは失うばかりで何も残らなかった、黙って行かせて下さいと言われ竜三はうろたえる。 おしんは大五郎と清に、明日、雄と二人で出ていくと伝える。 清は激昂し雄は田倉の子だと譲らない。 竜三も清に同調する。 翌早朝、雄を一緒に連れて行くことを半ば諦め、荷物をまとめて挨拶にきたおしんに恒子が清に隠れて雄を連れ出してきてくれると言う。 おしんはその意外な申し出に戸惑うが恒子の言葉を信じ、源右衛門の墓の前で待った。 恒子は清の留守を狙い雄を連れ出しておしんに手渡す。 おしんは恒子の思いがけない機転と心配りに感謝して佐賀を離れ東京へ向かった。 おしんは、再建した髪結長谷川に身を寄せ、たかに佐賀での日々を打ち明ける。 さっそくたかはおしんに試しに自分の髪結いをさせるが、おしんの右手はまだ力が入らず、熱したコテがたかの頭皮に当たってしまい、やけどをさせそうになる。 佐賀での怪我のこと、そのことで右手が不自由になったことを話すとたかはおしんに大いに同情しできることだけやってくれればいいと言うが、おしんは髪結ができない以上居候するわけにはいかないと思う。 佐和からの手紙を頼りにおしんは佐和の仕事先を訪ねる。 佐和は住み込み女中として働いておりおしんに借りた汽車賃を返すが、ここでは子供と一緒に働くことは出来ないと言う。 長谷川に来た健はおしんの事情を知り、露天商を勧める。 たかは反対するが、自活したいおしんの意思を認める。 おしんは健が用意したの屋台を始める。 健はおしんに頼まれ、母子で住むを見つけてくる。 おしんは髪結長谷川を出ることをたかに言っておらず、たかは寂しがる。 屋台の仕事に忙しく明け暮れる中、大正14年()1月、おしんは佐賀の竜三に手紙を出すが、手紙は清が受け取り破り捨てる。 恒子はその一部始終を見ていたが清に口止めされる。 健はおしんと雄のため細々と世話を焼く。 それを見たたかは世間の口はうるさいとおしんに忠告するがおしんは「健さんとはそんな関係ではない」と気にもとめない。 夜遅く健がいつものようにおしんを長屋まで送り布団を敷いたところで、健の女が長屋に怒鳴り込んでくる。 女は健がおしんの屋台出店のために大変な手間と金を使ったことでおしんを責めるが健は「男は本気で惚れた女には指1本触れなくても力になりたいものだ!」と言い放つ。 おしんは健の気持ちを初めて知り辛くなる。 翌日、健が謝りに来るがおしんは健の親切を丁重に断り、故郷山形に帰ると決め、雄と帰郷する。 その後、髪結長谷川に竜三からおしんの消息を訊ねる手紙が届き、たかと健は訝しむ。 4年ぶりに山形に帰ったおしんにふじは喜ぶ。 兄の庄治も5日に一度の風呂を勧めるが、おしんが田倉家を出てしばらく谷村家にいると聞かされると態度を変える。 谷村家では小作争議で小作米は4割になり、麦飯が食べられるようになっていた。 だがおしんが夕食を食べると、庄治は長男は家と親の面倒を見なければならない、おまけに兄妹が転がりこんできたら貧乏をついで長男くらい引き合わないものはないと文句を言う。 庄治の嫁・とらも仏頂面。 それを聞いたふじはおしんのために庄治夫妻と所帯を別にして、納屋から勝手に食料を持ち出す。 とらはおしんはわがままだと庄治に愚痴り、庄治は一度嫁に行ったら石にかじりついてでも辛抱するのがおなごの道だと吐き捨てる。 ふじはおしんが手紙に書かなかった佐賀での暮らしを聞いて、田倉の姑は鬼だと言う。 庄治が働かないおしんに嫌味を言うとふじはとらも同じではないかと言い返す。 とらが雄を折檻して泣かせる。 とらの子・貞吉の飴を雄坊が取り上げたのだという。 それを聞いたふじは憤慨し、納屋の米を銭に代え飴や干物を買ってくる。 庄治は納屋に南京錠をつけ、鍵をとらに渡す。 嫁と対立するふじにおしんは戸惑う。 おしんはりきの世話で手の足りない農家の手伝いを始める。 おしんは度々、佐賀の竜三にあてて手紙を送っていたが、手紙は全て姑・清が破り捨て、竜三の見合いを進めていた。 田植えの季節になり、庄治はおしんをあてにするが、おしんは他の農家に田植えに行く約束があった。 ふじは庄治に、乳飲み子を抱えたとらに田植えをさせろ、自分はやってきたと言う。 言い返せない庄治はとらに田植えの支度をしろと怒鳴る。 そこへりきが加賀屋のくにが倒れたと知らせに来る。 翌日おしんは酒田の加賀屋に駆けつける。 くにの最期の床で看病し続けるおしん。 くにはおしんに「加代には姉も妹もいないのでどうか頼む」との言葉を残して大往生する。 葬式に別居していた政男が線香を上げに来るが加代は激怒。 おしんは跡継ぎを産むため復縁するよう宥める。 おしんはまで手伝いをする。 加代はりきから佐賀でのおしんの苦労を聞いており、おしんも母と兄夫婦の確執を打ち明ける。 加代はおしんに、加賀屋に借金をして主が夜逃げした酒田の空き家での商売を勧め、元手も貸すと言う。 清太郎、みのもおしんの境遇に同情し大正14年初夏吉日、おしんは加賀屋の援助で飯屋・めし加賀屋を開店をする。 開店した日に政男が仲人の取りなしで加賀屋に戻ってくる。 加賀屋は加代が取り仕切っていたが、夫を立てるために政男に任せる。 飯屋は初日全く客が来なかった。 おしんは握り飯を作って港に売りに行くが、やはり売れず、無料で港湾作業者に配って帰る。 翌日おしんは店を休業して手書きで飯屋のビラを作って配る。 これを見つけた政男は加賀屋の名に傷がつくと立腹、おしんを庇う加代と対立する。 3日後、店を再開すると客で埋まり大繁盛となる。 加代は加賀屋ですることがないからと夜遅くまで店を手伝うが、清太郎、みのは夫婦仲を心配する。 政男は一度家を出た負い目もあり、加代のふるまいを静観する。 ある夜、客の1人が酒を出せと言ってくる。 おしんは飲み屋ではないと断るが、加代は酒を1杯15銭で出し、飯の客よりよっぽど儲かると言う。 おしんは店の空気が荒れると気が進まないが、客の求めに応じ酒を出すようになる。 店を見に来た政男は、加代に気が済むまで手伝えばよいと笑顔で帰る。 おしんと加代は政男の心遣いに感激する。 突然店にヤクザが乗り込んできて、酒を安く出しているせいで周囲の店の売り上げが落ちていると因縁をつけ、暴れ始める。 おしんは健より習った見事な仁義をきりヤクザを驚かせる。 ヤクザはおしんがハッタリで口にした健の一家と自分たちが遠縁であると感心し、酒売りを認めて貰うことが出来た。 雄がにかかり、おしんは店を休んで看病する。 酒田に来てからも、おしんは何度も佐賀の竜三に手紙を出すが、やはり清に破り捨てられていた。 大正14年の秋。 加代は浩太が酒田に来たと話す。 の庄内支部が酒田にできて、小作の代表として浩太が、地主の代表として政男が会ったという。 政男は加代に、運動をする浩太のことを、惜しい男だと話す。 おしんの手紙や竜三が問い合わせた先の返事は竜三に届かない。 清は竜三に再婚を強く勧めていたが竜三は断り続けていた。 めし加賀屋に浩太がやってくる。 加代は浩太におしんが飯屋を始めるまでの顛末を話し、自分が回り道させたおしんと浩太の縁を結ぼうとする。 浩太はおしんに自分は雄の父親になるつもりだと告げるが、おしんの心は竜三にあった。 が制定され農民運動やが弾圧され始めたため、浩太はまた隠れて運動をしなければならなくなる。 浩太は竜三の気持ちを確かめたいと佐賀へ手紙を出すが清が開封してしまう。 めし加賀屋でおしん、加代、浩太が大正15年()の新春を迎える。 そこへりきがやって来て、谷村家のふじへ竜三から手紙が来ておしんの消息を教えて欲しいと書いてあったという。 りきはおしんに手紙一本くらい出してやれと言うが、おしんは今まで何度も手紙を出していた。 浩太は何かの手違いで手紙が竜三の手にわたっていないのではないかと疑問を投げる。 佐賀では再婚を渋る竜三に清は堪りかね、おしんは他の男と一緒になるつもりだと、浩太からの手紙を竜三に見せてしまう。 竜三は自分宛の手紙をなぜ勝手に開けたかと憤慨し、手紙にはおしんが竜三に何度も手紙を出したと書いてあったが清はおしんの嘘だと開き直る。 それを見た恒子は竜三を呼び出し、清がこれまでに破り捨てていたおしんの手紙を裏張りして保管しておいたものをすべて渡した。 それを読んだ竜三は再婚をきっぱり断り、佐賀におしんと雄を呼び戻すと決心する。 竜三の手紙がとうとうおしんの下へ届く。 中には20円もの為替と何枚にも書かれた便箋が入っていた。 再び加賀屋に来た浩太は、おしんが喧嘩する客を追い出し、絡んでくる酔っ払いをあしらっているのを見て、酔客相手の商売を危ぶみ、商売代えを勧める。 みのが店を訪ね、おしんに、加代が店に入り浸っていることで夫婦の暮らしが壊れてしまう、家に落ち着かせて欲しいと頼む。 浩太は、で漁師をしている浩太の伯母が面倒を見てくれる魚のをする仕事を見つけてくる。 おしんは店を閉めることを決意。 旅立つ前夜、おしん、加代、浩太は酒を酌み交わし、また3人で会おうと約束する。 酒田を発ったおしんは、伊勢の・神山ひさの下に身を寄せる。 雄を乗せた箱車を押し、魚の行商人としての第一歩を踏み出す。 おしんの強かな商魂が功を奏し、おしんの行商は軌道に乗る。 おしんの願いは、店を出し竜三を呼び寄せること。 その年の暮れ崩御。 時代は大正からに変わり、ひさの世話になって一年が経つ。 浩太がおしんの様子を見に伊勢に立ち寄る。 浩太は変わらず農民運動をしているが、農民運動が公に認められるようになったものの小作争議の形態が変わってきていると言う。 これまでは小作が地主に小作料の引き下げを要求していたが、逆に地主が小作に小作料の引き上げを要求するようになり小作争議は泥沼状態に陥っていた。 ひさは、おしんは魚の行商としての信用もつき自分の店を持てると太鼓判を押す。 浩太が慌ただしく帰ったあと、おしんは竜三に家族三人で暮らしたいと手紙を出す。 しかし竜三から返事はなかなか届かなかった。 おしんを気に入ったひさは田倉家が竜三を、亭主を置いて逃げたおしんのところへよこす筈がない、諦めろ、店を出すことはない、自分の下に居ろ、浩太もおしんに一人でいて欲しいのだと諭す。 佐賀では竜三が考えあぐねていた。 竜三は自分には甲斐性がない、おしんが行商した金で店を開くのに亭主面して乗り込めるかと、あくまで干拓に拘る。 大五郎は伊勢に行く気のない竜三に、おしんを諦めるかおまえがおしんの下に行けと一喝。 結局竜三は伊勢には行かないと手紙に書く。 竜三からの手紙にひさは呆れるが、おしんは竜三の気持ちを踏みにじりたくないと答える。 その年の夏も過ぎようという頃、で今度の嵐は大きく、九州では被害が出て、長崎や佐賀では堤防が破れたと報じていた。 台風が過ぎた朝、佐賀の田倉家に、嵐の中干拓を見に行った竜三と大五郎が濡れ鼠になって戻って来る。 台風 による波風と満潮の時期が重なってしまったために干拓をしていた土地は全て流され全滅した。 竜三は「これまでの努力が全て無駄になった」と号泣。 翌朝、竜三は佐賀を出て新しく出直すと置き手紙をして田倉家を出奔する。 竜三はおしんと雄のいる伊勢に来た。 箱車を押すおしんと目が合った途端竜三は逃走するがおしんが追いかけ、捕まえる。 竜三は日本は不景気で新天地満州なら仕事がある、からで中国大陸に渡りその後汽車でのに行くつもりだ、二人をひと目見に来ただけだと言う。 夜、おしんは家族一緒に暮らすことを哀願するが竜三は単身でに加わり、土地持ちになったら迎えに来ると譲らない。 涙ぐむおしんを竜三は抱き締める。 明くる日、旅立つ竜三は行商に行くおしんに付いていった。 おしんがが行われる浜辺から行商先の町まで1里半(約6km 帰路もいれると約12km)重い箱車に荷と雄を載せて歩くと聞き、竜三はおしんの行商の過酷さに驚く。 おしんは竜三と別れて行商に出るが、竜三はこっそりおしんのあとをつけた。 降りしきる雨の中、行商先の山村へ通ずる長い坂道でも重い箱車を懸命に押し続けるおしんを見て竜三は男泣きしてしまう。 竜三は満州行きをやめ、おしんと魚屋になることを決意する。 おしんと竜三はひさの後押しで、鮮魚店・田倉魚店を開店する。 暫くは仕入れと店を竜三が、行商を今まで通りおしんが担当することに決める。 最初魚の名前もわからない竜三だったが、おしんに従い仕事を覚えていく。 ひさは竜三がに回っているため、おしん一人の時より売上が落ちているのではないかと心配するが、店の主人は竜三だと譲らない。 おしんは佐賀の田倉家へ、竜三と一緒に魚屋をはじめたことを手紙で報告する。 受け取った清は手紙を破き竜三を伊勢から連れ戻すと声を荒げるが、大五郎は竜三とおしんの仲を裂いたのは母親のお前であり、放っておけときつく言い放つ。 清は母親よりも女房かと深く嘆息する。 伊勢に竜三の荷物と清の手紙が届く。 手紙には「竜三は伊勢で魚屋を一生の仕事とし、佐賀に逃げ帰らないこと」そしておしんのこれまでの苦労をねぎらい、竜三を待っていてくれたことに対する感謝の気持ちが綴られていた。 昭和4年()雄の小学校入学の晴れ姿を見せようと、おしんは山形のふじに10円の為替と共に伊勢に来てほしいと手紙を出す。 手紙を受け取った庄治はとらに読んでもらい、ふじに伝える。 年老いて邪魔者扱いされていたふじは、口減らしをするのかと気乗りしないが庄治は行くようにと勧める。 ふじが伊勢にやって来るが雄の入学式を見たらすぐ帰ると言う。 庄治から手紙が来てふじを預かれと言ってきた。 やはりふじと庄治夫妻は上手くいってないと知り、おしんはふじを返さない口実を思案する。 そんな時、おしんに三度目の妊娠が判明。 竜三はおしんの気持ちを汲んで佐賀での死産に触れ、おしんが無事出産するまでついていてくれとふじに頼む。 ふじは老いて昔のように働けない自分は穀潰しだから帰ると頑なに固辞するが、おしんはここでは大きな顔をしていればいいと懇願、竜三がふじの前で床に手をつき頭を下げるのでふじは田倉家で暮らすことになる。 加代から手紙が届く。 加代も妊娠しており9ヶ月だと綴られていた。 おしんはこれで加賀屋も安泰だと安堵する。 昭和4年10月。 おしんは無事男の子を出産するが、突然ふじが倒れる。 ふじを往診した医者は、大病院で詳しく検査してもらった方がいいと診断。 男の子は仁(ひとし)と名付ける。 検査の結果ふじはと判明。 この頃の白血病は不治の病でおしんの期ということもあり竜三は家族に隠す。 ふじは床を離れられなくなるがおしんは無事に床を上げる。 死期を悟ったふじは故郷の家で死にたいとおしんに打ち明け、竜三はおしんに本当の病名を告げる。 加代から手紙があり無事出産、希望(のぞみ)と名付けたという。 おしんは母をおぶって山形に帰りたいと竜三に頼む。 仁はひさに預け、竜三はおしんとふじを送り出す。 おしんは庄治に迎えを頼んでいたが駅に現れなかった。 おしんはふじを背負って雪の降る山道を実家へ向かう。 家は庄司夫婦に物置にされていたがおしんが二人に怒鳴って片付けさせ、ふじを寝かせる。 ふじの帰郷を聞いて訪ねてきたおりきとおしんに寄り添われ、ふじは故郷に降る雪を愛でながらその生涯を静かに閉じる。 おしんは伊勢に戻る。 日本はの真っただ中。 おしんは山形でおりきから加賀屋が危ないという噂を聞いていた。 昭和5年()。 おしんがふじの訃報を加賀屋に送ったところ、加代からお供え代として10円の為替が送られてきたのでおしんは安心する。 雄が三学期を終えた頃、おしんが加代に送った手紙が返送されてくる。 一緒におりきから加代の夫、政男が自殺したという手紙が来た。 加賀屋に連絡を取ろうとするも電話番号は既に使われていなかった。 ひさから急に呼ばれて家に行くと浩太がいた。 浩太は加代がおしんを頼って伊勢に来てるのではないかと考えたという。 浩太が酒田を訪ねると加賀屋が潰れ、家屋は差し押さえられ、一家は夜逃げ同然でいなくなったとおしんに説明する。 加賀屋の若旦那・政男はに手を出していて、3月の大暴落で支えきれなくなっての自殺だった。 おしんは加代、浩太からの連絡を待つが何の知らせもないまま昭和6年()の春を迎える。 浩太がやって来ておしんに加代が見つかったと知らせる。 太平洋戦争編(第186回〜第225回) [編集 ] 浩太は加代の住所と100円 をおしんに差し出す。 住所を見た竜三は顔を曇らせるが、翌日おしんを送り出す。 おしんは東京のたかを訪ねる。 懐かしい再会も束の間、所書きをたかに見せると女が一人で行くところではないと言う。 たかは健を呼び、加代がいる場所への案内を依頼する。 健は加代のいる場末のカフェーを探り当て、加代を出せと店の用心棒に凄むが抵抗に合う。 赤子の泣き声が奥から聞こえ、食べ物が欲しいと言いながら加代が階段を降りてくる。 加代は女に売春をさせる店に息子の希望と身を寄せていたのだった。 おしんと目があった加代は逃げるが、健が高額の代金を男に払い、おしんは加代の部屋へ向かう。 加代は何も聞かないで黙って帰ってくれとおしんから目を逸らすがおしんは浩太の100円を加代に渡し、そして清太郎、みのと一緒に伊勢に来て欲しいと説得する。 心配はいらないと言いながら加代が押入れを開けるとそこには清太郎とみのの遺骨があった。 夜逃げして上京したものの両親はあいついで病死。 昔勤めてたには断られ、みのの入院費のために今の店に500円を前借りしたという。 加代のいる店は最初の借金の利子が雪だるま式に増えて足抜けできなくなる女郎部屋より酷いところだった。 出るには1000円という大金が必要だという。 おしんは加代が駄目ならせめて希望だけでも引き取れたら、と明くる日同じ店を尋ねるが、加代は大量に酒をあおったあと、吐いた血で窒息、息絶えていた。 おしんは両親の骨箱と希望を引き取り、加代を荼毘に付す。 骨箱の包みの間には浩太から預かってきた100円と加代の手紙があった。 手紙には全ては自分の身から出た因果であり、おしんに息子の希望を託したいこと、おしんへの謝意が綴られていた。 おしんは3つの骨壷と加代の忘れ形見の希望を連れ伊勢に帰る。 おしんは竜三に独断で3人の骨や希望を連れ帰ったことを詫びるが、竜三は加代の忘れ形見である希望を引き取って自分たちの子供とすることは二人にとって当然であり、八代家の墓を伊勢に建てること、将来加賀屋再興を託したい等、すべてを快く引き受ける。 この年。 竜三は浮足立ち、を報じる新聞を雄に聞かせる。 それを見ておしんは戦争はいけないことだと言うが相手にされず、竜三は雄にこれからは軍人の世の中、そして佐賀のの話をする。 子供を背負って店に出るおしんと竜三は子守を雇うことを考えるが、それを諦め、当時としては高価なと自転車を買う。 ひさが来て昨夜、浩太がひさの下に来たことをおしんに告げる。 特高に付け回され疲弊した様子であり、加代・八代家の墓の場所を聞きたがったという。 ひさはおしんに浩太に運動を止めるように言って欲しいと哀願する。 満州事変をきっかけに浩太のような運動家にはより厳しくなった、に捕まったら拷問されて死ぬ目に会うのだとひさはおびえる。 おしんは浩太を訪ねる。 加代の墓の場所を聞いた浩太は明日墓参りに行くと言う。 おしんは浩太に加代の子である希望を見せようと加代の墓で待つが浩太は現れない。 墓から離れると浩太の姿が見えた。 おしんが希望を抱きかかえて浩太に見せると同時にが浩太を捕縛した。 おしんが帰宅するとひさが来ていて、浩太が加代の墓参りに出た後に特高が踏み込んできたという。 ひさは特高に捕まったらおしまいだと悲嘆。 それ以後浩太の消息はなく、4年の歳月が流れる。 の折の昭和10年()の2月。 健が10歳の少女・初子を連れ田倉家に立ち寄る。 初子は健の山形の遠縁の小作の娘で、健は3年の年季、50円で引き取り、大阪のへ奉公に出すつもりだという。 健と田倉家に泊まった初子は幼いながら懸命に台所を手伝う。 おしんは初子の姿に自分の奉公時代を重ね、佐賀で死産した愛の生まれ変わりのような気持ちになる。 おしんは竜三の承諾を得て健に50円を払い、初子を引き取る。 小学校に仁と希望が上がり、初子も4年生として編入させる。 おしんと竜三は希望の入学用品に八代希望と書くか、田倉希望と書くか思い悩む。 竜三は希望を引き取った時に養子にして田倉の籍に入れておけばよかったと言う。 初子は雄の中学受験合格を願いをする。 雄が合格した夜、おしんは希望の持ち物に八代姓を書く。 翌朝、おしんは希望と仁にその由縁を打ち明け、八代家の墓に参る。 小学校に入学した希望が早退してもう学校には行かないと言う。 仁は希望が学校でもらいっ子、親なしだと言われたと喧嘩して戻ってくる。 希望がいなくなり、おしんは探し回る。 夜、疲れ切ったおしんが八代家の墓に行くと希望が現れる。 おしんはみんな心配していると希望を叱り抱き合う。 仁は我侭。 希望はおとなしい。 初子は働き者。 雄は下の子をよく可愛がる。 おしんは子どもたちに同じようにしてるつもりなのに、と思う。 おしんは第四子を身ごもる。 昭和11年()の日、おしんは36歳で女の子を出産、禎(てい)と名付ける。 おしんは5人の母親になる。 昭和12年()7月7日。 初子は3年の年季が明け小学校卒業が近づく。 竜三は初子を山形に返すつもりだったが、雄たちは反対。 おしんは初子の意思を聞き、家族として一緒に暮らすと決める。 人の噂でひさの家に男がいると聞いたおしんが様子を見に行くと浜辺に松葉杖をついた右足が不自由な浩太がいた。 おしんは浩太に話しかけるが、浩太は俯き目をそらし逃げていく。 おしんがひさに問いただすと、昔の浩太は死んだのだ、昔の自分を捨てて監獄から出てきたのだという。 浩太はを強要され、社会主義と縁を切って釈放されたが、6年間の監獄生活の間に拷問に遭い右足が曲がらなくなっていた。 転向を恥じる浩太は、ひさにもめったに口を聞かなくなり誰にも会いたがらない。 おしんは浩太のことを竜三に相談するが、すべてがご時勢だと言う。 誰も逆らえない強大な権力が日本の運命を握っている。 昭和12年の暮れ日本軍が南京を占領。 戦勝を祝う提灯行列におしんも勝利を喜ぶ日本人の一人になっていた。 突然、陸軍で竜三の次兄・亀次郎が田倉魚店を訪れる。 竜三は亀次郎に雄を上の学校に上げる金がなく、中学を出れば十分だと言うと、亀次郎は雄にを狙うとよい、士官学校は官費で金もいらないと話すが、おしんは眉をひそめる。 また亀次郎は竜三に5人の子供の教育費のためにも、もっと太い商いをしろと忠言。 竜三はの連隊の納入業者になる決断をし、おしんは意見するも最後には同意する。 竜三は軍の納入業者になるつもりで店はもう閉めてもいいと言うが、おしんは信用が大事だと仕入れを続ける。 昭和13年()、連隊への食料品を納める業者の入札が行われ、無事軍の納入業者になる。 竜三は長い間世話になった網元・ひさからの仕入れを止め、銀行の融資を受けトラックを購入。 店を閉めるつもりでいたが、おしんは店を続けたいと懇願。 店で売る魚もトラックで市場から仕入れてもらう。 昭和13年の春、雄の進学を考える時期となる。 の初子は縁起が良いので方々からを頼まれる。 雄は学校から進路希望をするように言われ、陸軍士官学校に行くと竜三に相談する。 竜三は入学できればこんな名誉なことはないと賛成するが、おしんは反対し口論となる。 憂国の空気に感化された雄の意志は固かったが、初子からおしんが雄を抱えてこれまで生き抜いてきたことを問われて考え直し、の文科を志望し、ゆくゆくはにも行くつもりだと両親に告げる。 昭和14年()戦争は終結するどころか拡大する一方だった。 雄は無事京都の三高に合格し、家を出て京都で下宿をする。 秋、ひさが漁を止めると聞き、ひさの下へ行く。 船の燃料の石油が統制・配給になったので漁を止め、ひさは東京の息子の家に行くという。 浩太は近くの町の大きな造酒屋の一人娘・並木香子と祝言をあげる。 竜三は連隊に鮮魚だけではなく魚肉練り製品も納入する話を決め、酔って帰ってくる。 おしんを抱きしめて「お前には本当に苦労をかけたが、もう大丈夫だ、もう辛い思いをさせない!」と上機嫌。 戦争に押しつぶされる人、戦争を足がかりにのし上がる人。 物資統制でどの家庭も物資不足に嘆く中、軍に関わる田倉家だけは物も食料も豊かだったがおしんの心は晴れなかった。 昭和15年()京都から雄も帰郷し全員で新春を迎える。 初子は3月に高等小学校を卒業後、実母から兵隊に男手が取られ人手が足りないので帰ってきてくれと連絡があったので山形の実家に帰ると言い出したが雄はただひとり、強硬に反対する。 頼むから初子を返さないでくれと両親に懇願する雄を見て、おしんも竜三も雄は初子が好きなのだと気がつく。 竜三は自慢の息子・雄の嫁には初子のような小作の娘、奉公人はなれないと二人の恋仲に反対するが、おしんはふたりの気持ちを大事にしたいと抗う。 統制の影響で田倉魚店に行列ができるが、軍に出入りしているから商売ができると嫌味を言われてしまう。 竜三が帰ってきて、軍への魚を横流しして儲けていると連隊に投書があったという。 竜三は怒り、魚店を閉めさせる。 初子の高等小学校卒業。 初子は雄に想いを残しながらも竜三が自分の存在に否定的なことに気づいており、卒業式の次の日に帰郷する切符を買う。 だが竜三はまた新たに工場をやると言いだし、軍の衣料の縫製で、袴下などの工場の監督をおしんに依頼、そして家のことは実家に戻す予定だった初子を留まらせて任せたいと突然言い出したため、初子はそのまま田倉にいることになる。 竜三の軍事関連事業も好調で、小さな店から大きな屋敷に引っ越す。 おしんは縫製工場の監督。 竜三はの組長になった。 昭和16年()春、仁と希望は中学校に進学。 田倉家に突然庄治が訪ねてくる。 おしんは歓迎し家に上げる。 雄と同い年の庄治の息子・貞吉は高等小学校を出て15歳でに志願して合格していた。 おしんがのかと聞くと、陸軍の航空学校だという。 おしんが、そういう学校行くと、少尉になれるんでしょと言うと、庄治は陸軍士官学校をでなければにはなれない、おまけにに向いてないとに回された、貧乏小作の息子はどんなに頭がよくても出世できないと吐き捨てる。 そして戦争に行く貞吉に庄治は福岡で最後の別れをしてきたところなのだと話す。 竜三は初対面の庄治を外食で立派に饗し、また竜三は息子を兵隊に取られた庄治に深く同情する。 翌日庄治にはたくさんの手土産をもたせて山形へ帰した。 12月8日、ラジオがを伝える。 野菜が手に入らなくなりおしんは庭を畑にする。 帰省した雄が戦争を賛美する。 おしんは俊作から貰った「明星」を雄に手渡し、戦争賛美の精神を諌める。 の竜三は方々で少年を兵隊に志願させるよう説得。 おしんが竜三に仁や希望も志願させるつもりかと聞くと、当たり前だと言う。 昭和17年()4月。 雄は京都帝国大学に入学。 太平洋での華々しい戦果が連日報道される。 昭和18年()秋。 突然雄が帰省する。 二十歳になった雄は見つかったらただじゃすまないと「明星」をおしんに返し、を告げる。 おしんは雄に俊作のことを話す。 俊作は、もしおしんが戦争に巻き込まれても、おしんだけは戦争に反対しろと言ったが、「お母さんは何のためにこの本を大事にしていたのか、何もできなかった」と雄の前で涙する。 雄の入隊の日、初子は雄に千人針を渡す。 雄は初子に「初っちゃんが好きだ。 終生の伴侶と決めている。 待っていて欲しい」と告白。 初子も同じ気持ちであることを告げる。 雄は初子の身体を強く抱きしめ、家族だけに見送られて自宅を後にする。 昭和19年()5月、雄から30日に面会できるとの葉書が届いたが、仁も希望も初子も軍需工場に動員されていた。 竜三はこの非常時に休むわけにはいかないと言う。 おしんは竜三には内緒で初子を面会に連れて行くが竜三は気づいていないふりをしておしんと初子を送り出す。 面会の会場で前日にこしらえた雄の好物のおはぎをふるまう。 雄は同期の川村清一にもおはぎを分け与え面会を終える。 7月、。 竜三はいよいよ本土爆撃、空襲が始まる、禎をさせた方がいいと言うと、おしんはアメリカが日本まで飛んできて爆弾落とすなんて、取り越し苦労だと返す。 9月、雄から葉書が届く。 雄の行方を知りたいおしんは陸軍中佐の義兄亀次郎に手紙を出す。 亀次郎は軍の機密が絶対秘匿である原則を破って(文書、電話は不可なため)田倉家を訪問し、直接おしんに雄が博多から輸送船に乗り南方に派遣されたことを伝える。 また、いつ本土空襲を受けても不思議ではないと言う。 決心したおしんは禎を疎開先に託す。 仁はのニュースに刺激され、自分も志願すると言い出し、家を出て行ってしまう。 11月末、。 昭和20年()春、疎開先で粗末に扱われていた禎が、疎開先を抜け出し、無賃乗車で帰ってくる。 つらい思いをしてるのは禎一人じゃないと、翌日竜三は疎開先に返す。 7月、空襲にあい、竜三の工場は焼夷弾で焼失、自宅はなんとか守り抜く。 雄の公報が届くが、おしんは戦死を信じなかった。 竜三は雄の写真に向かって座り、雄の後を追う決意を口にする。 8月、。 15日の正午、。 だが、田倉家には仁からいよいよ出撃しますとの手紙が届いていた。 その夜、明かりの無い縁側で竜三とおしんは久しぶりに静かに語り合い、竜三はおしんに「私の人生で一番素晴らしかったことはおしんと巡り会えたことだ」と告白する。 16日、竜三は背広を来て出かけるがその日帰宅しなかった。 翌日竜三から手紙が届く。 手紙には「雄や仁を殺した父親として、また近隣の子息を志願させ、戦争に協力した罪はせめて私の命をかけて許しを請うしかないと思っています。 私にとって死を選ぶことは戦争に協力した人間として当然受けなければならない報いです」と記されていた。 おしんの元に村役場の人間が訪ねてくる。 竜三は林の中でし、短刀で心臓を突いてしていた。 清と亀次郎が連絡を受けてやってくる。 清は遺骨の前で竜三を弱虫だと責めるが、おしんは「竜三は立派。 節を曲げず自分の生き方にけじめをつけた。 そんな竜三が好きです」と庇う。 清はおしんに礼を言い、竜三の骨を一片胸に抱いて佐賀へ帰っていった。 28日。 連合軍先遣隊厚木到着。 おしんは居間で寝ている仁に気が付き、帰ってきたことを喜ぶ。 仁は戦争が終わったあと、徹夜で書類の焼却などの後始末をやらされ、混乱の中、占領軍が来る前に追い出されたという。 目的を失い悔しがる仁だったが、竜三の死を知って気持ちを切り替え、物資が不足する中、希望を連れてをやりだす。 禎が帰ってくる。 全国で学校が再開され始め、おしんは仁と希望に学校に行けと言う。 仁は反発するが、折れ、ヤミ屋はおしんと初子の仕事になる。 家に元の持ち主だというが来る。 空き家になるので軍に貸したが、帰ってきたらすぐ明け渡す約束だった、出て行けと言われて揉めてしまう。 決め手もなく、結局一つ屋根の下で二組の家族の生活が始まる。 仁は連中を追い出さないならこっちが出ていこうと言うが、おしんは雄はこの家に帰ってくると返す。 おしん一家はヤミ屋、引揚一家は米兵に媚びを売る。 も紙切れになり金もなく、おしんは庄治を頼ろうと山形へ向かう。 主導によってが断行されることになり、実家の庄治夫妻は小作から土地持ち農家になると大はしゃぎの最中だった。 おしんは戦中、何もかも不足していた時に庄治家族宛に何度と無く物資を送っていたこともあって頼ってみたのだが、今度長男貞吉が嫁をもらい、新居を建てるつもりだからとおしんに対してけんもほろろだった。 おしんが8つの時に自分で植えた杉は切り出せるまでに成長していたが、おしんは山形を去るしか無かった。 川村がして田倉を訪ねてくる。 おしんは雄の消息を聞けると思い嬉々として家の中に招き入れようとするが川村はおもむろに直立不動をとり「田倉候補生の遺品をお届けにあがりました!田倉候補生は昭和20年4月18日、において名誉の戦死を!」と敬礼。 初子はその場で卒倒気絶し、おしんは呆然と立ち尽くす。 川村は雄の日記を差し出す。 にかかり、餓死したことがふたりに伝えられる。 すっかり気を落とした初子におしんは雄のことを思い出すからと(田舎の)山形に帰ってはどうかと勧める。 翌朝、初子は暇を貰うとの置手紙を残して姿を消していた。 ひさが田倉家を訪ねてくる。 東京から伊勢に帰ってきて、また漁をやるという。 おしん一家はひさの家に身を寄せることになる。 引っ越しの日、初子から為替の入った手紙が送られてきた。 消印は東京であった。 夫と息子を失ったおしんは再び伊勢に戻ってきた。 浩太が訪ねてくるがアメリカの命令で自らが命をかけてきた農地改革がいとも簡単に実現したこと、軍国主義の世の中の雰囲気が敗戦によって平和至上の空気に一瞬にして転じたことに対し「自分が青春を犠牲にして闘ってきたものは一体何だったのか」と虚しさを口にする。 おしんは浩太と伊勢の海を眺めながら半生の中で死に別れた人々に思いを馳せ、失ったものをきっと取り返してみせると決意する。 昭和21年の夏、おしん46歳の再出発だった。 再起編(第226回〜第261回) [編集 ] 終戦から4年後の昭和25年()の春、田倉家はひさの下から再び独立し、魚と野菜を扱う田倉商店を開店する。 おしんはの運転を覚え、行商も続ける。 仁も希望も、大学に進学せずおしんを手伝っていた。 浩太も穏やかな妻子ある酒屋の主人となっていた。 初子が家を出てから毎月おしんの下に送金があり、消印が東京だったことから、おしんは東京の健に初子の捜索を頼んでいた。 そして健から速達、おしんは東京へ向かう。 長谷川たかとの再会後、健と共に初子の元へ行くが、初子は・ガールになっていた。 おしんは初子を説得し、伊勢に連れ帰る。 初子が帰ってまもなく、希望が陶工になりたいと言い出す。 希望に加賀屋を再興させるつもりだったおしんは反対する。 だが希望は家を出て、窯元に弟子入りする。 仁も展望の持てない家業に見切りをつけ、予科練時代の知り合いを頼り東京の百貨店に就職する。 しかし、大学を出ていない仁は望んだ部署へは配属されず、配送へ回される。 おしんは工場で働く女性相手に夜の行商を始める。 浩太は店を建て替え、並木食料品店の主人となった。 年末、おしんが仁に出した手紙が受取人不明で返送されてくる。 百貨店に電話すると仁は十日前に退職しており、消息不明になっていた。 昭和26年()の正月。 雄の戦友・川村が線香を上げに現れる。 川村は家族を亡くし、のヤミやを売って儲けた金をさらに株に投資し成功し、今は東京で小さな貿易会社もやっているという。 川村は雄の思い人だった初子に求婚する。 初子は突然の求婚に立腹し拒絶。 三が日を過ぎ初荷の日、川村が再び訪ねて来る。 立地のいい駅前の地所を買うつもりだ、おしんの商売のために土地を貸してもいいと言う。 春、また川村が店に現れる。 初子は身体を売っていた過去を話すが、川村は自分にも傷はあると言い、初子をあきらめない。 名古屋から女が訪ねてきて、仁を引き取れと言われる。 仁はヒモになっていた。 おしんは放置するが、初子は女と名古屋へ行き仁を説得。 仁は改心し帰郷するが、このまま同じ土地で店をしてても伸び代がない。 初子は川村に会い、仁やおしんのために土地を貸すことを希望、そして川村に結婚してもいいと伝える。 だが川村は初子との結婚を条件にはせず、雄のためと無条件で土地を譲渡すると話す。 その後、おしんらは新聞で川村が殺害されたことを知る。 川村は高利貸しもやっており怨恨で殺害されていた。 入れ替わりに駅前の土地のおしん名義の譲渡契約書と登記の写しが届く。 おしんは身寄りのない川村の遺体を引き取り雄と同じ墓地に葬り、そして川村が遺してくれた駅前の土地に新たに田倉商店を開店する。 昭和30年()、仁は店に奉公に来た百合と男女の仲になる。 それに気づいたおしんと初子は百合を嫁に迎える気でいたが、仁は店をのに変えること、さらにスキー場で知り合った名古屋の衣料品会社の娘・道子と結婚すると宣言しおしんは激怒する。 百合は仁を庇い、家を出て希望の窯元にやってくる。 希望は事情を知り、窯元で働けるよう取り計らう。 おしんは、しぶしぶ道子とその父・川部仙造の訪問を受け、挨拶する。 おしんは川部の出資で勝手に店の改装計画を決めてしまう仙造に不満を抱く。 おしんは、意地を張り、浩太を保証人として銀行の融資を取り付け、自力でセルフサービスのスーパーを始めようとする。 道子は店の近くに別居するつもりでいたが、おしんは道子を呼び出し、商人の嫁が同居しないなら嫁に来なくてよいと言い放つ。 仁は道子を諦めると言い出すが、仙造はおしんの言い分に理解を示し同居することになる。 12月、名古屋で結婚式を挙げ、新婚旅行を終えて田倉家で同居生活が始まる。 おしんは道子に「家事は全てまかせる。 店は手伝わなくてよい」と言い渡すが、半日も経たずに道子は実家に逃げ帰る。 翌日、名古屋に迎えに行った仁とすれ違いに仙造に連れられ道子が帰ってくる。 道子は自分に田倉家の嫁は務まらないと詫びる。 おしんは道子がまだ仁が好きだと聞き、今後一切口出ししないと和解。 仙造に自分のような嫁の苦労はさせたくないと語る。 昭和31年()、希望が師匠に認められ、百合と簡素な披露宴を行う。 3月、スーパー開店にあたって、仁は少年航空時代の後輩でアメリカでスーパーの店員経験のある崎田辰則を呼び寄せ、禎も名古屋から開店セールの手伝いのために帰省させられる。 禎は店を手伝わない道子に不満をぶつけるが、道子はつわりで妊娠が発覚。 開店前日、川部家は開店の足手まといになるからと道子を連れ帰る。 翌日の3月15日、田倉商店はセルフサービスのスーパーとして新装開店。 三日間の開店安売りサービスを禎も手伝う。 利益を顧みない金額設定に商店街の他店の人間から文句が出るがそれがおしんの商売根性に火をつけることとなった。 閉店時間を会社帰りの人に合わせ延長し自分たちの作った惣菜を販売することで価格以外に活路を見い出す。 商売の利益が自分の学費の1ヶ月分にも満たないことを三日間の手伝いで実感した禎は母おしんの働きをみて涙して名古屋へ帰るのを延長する。 商売の面白さを知った禎の働きぶりはおしんと初子を感心させる。 辰則と禎の働きを見て、仁は店のために禎と辰則を結婚させようと言い出し、禎に話をもちかける。 おしんは仁の横暴さにあきれる。 完結編(第262回〜第297回) [編集 ] 禎は辰則が田倉に必要な人間と認めつつそんな関係にはなりたくないと仁に黙って名古屋に逃げ帰る。 薄利多売の店は銀行のローンの返済に精一杯で、おしんは少しでも学費の足しになるようお惣菜の幅を広げようと提案する。 以前万引きをした子供の親は子供が泥棒呼ばわりされたと怒鳴り込んでくる。 PTAでは田倉商店での不買運動をすると脅す。 おしんは黙って頭を下げ、客の需要を考え、店に台所を作って惣菜の種類を増やす。 禎は名古屋で徹という男と交際していた。 禎に金をせびり、夜遊びに興じる徹に愛想をつかした禎は徹と別れる。 禎は母親の苦労と仕事をする姿を思い出し、大学を中退して田倉に帰ると店の手伝いを始める。 おしん達は大学へ戻るよう説得するが、禎は働くのが好きだと言い、辰則と結婚してもいいと言う。 翌朝、禎は辰則に逆プロポーズ。 辰則は禎の将来を思って断り仕事を辞めると言い出す。 禎の気持ちを知ったおしんは、辰則に禎との結婚を考えてほしいと頼む。 3か月ぶりに身重の道子が田倉に戻るがおしんと衝突。 道子は再び実家に帰り、昭和31年()の秋、男の子を出産。 おしんは初孫に亡き竜三の「竜」の字を取るよう仁に伝えるが、仙造は剛と命名。 怒ったおしんはお七夜を欠席する。 道子と剛を連れて戻った仁は、道子は子育てに専念するため家事は初子にまかせると宣言。 おしんは家族は思い通りにはならないと諦める。 昭和32年()2月、禎と辰則が結婚。 開店一周年セール。 4月、夫・竜三と長男・雄の13回忌法要と川村の法要が営まれる。 おしん57歳、日本は長い苦難の時代を乗り越えが始まろうとしていた。 昭和42年()スーパーたのくらは開店時の借金も完済し、売場面積も開店時の2倍、従業員20人を抱える大店舗になっていた。 店に住み込んでいるのはおしんと初子だけで仁夫婦と禎夫婦はそれぞれ自宅を構えていた。 ある日、仁夫妻、辰則・禎夫妻と希望がおしんの元に集まる。 仁は社長のおしんに反対されてきたチェーン店を出したいと頼む。 そこへ希望が展覧会で特選を取ったと知らせが入る。 おしんは希望に窯を持たせ独立させることを条件に仁の提案を許可。 仁は2号店建設の為におしんが昔の知り合いに温情で借金の担保に取っている土地と店をおしんに無断で巻き上げトラブルになる。 おしんは仁が立ち退かせた家族の為に希望独立の為に用意しておいた土地を与えてしまい、希望の独立のために浩太を頼る。 2号店・3号店の建設と希望の窯、住居の工事が進められる。 希望一家の引っ越しの前夜、百合が交通事故で急死する。 おしんは百合の葬儀に出席しようとする仁夫妻に、百合は仁を許してないと怒り、出席を拒否。 道子は夫と百合の過去を知り、子どもを連れて実家に帰ってしまう。 おしんは川部家へ行き、平身低頭謝り、子供たちのために家に戻ってほしいと頼む。 道子は家に戻るが、仁は再び女性問題で道子を悩ませる。 おしんは仁は一度痛い目にあわないとわからないのかと歎息する。

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