蝶野正洋。 蝶野正洋が内股でガルパンの理由!素顔と性格が乙女で画像は?

蝶野正洋の黒の履歴書 ★新日本プロレスの「有観客試合」再開

蝶野正洋

夫妻の会話は大半が英語だが、蝶野さんの英語力は、自称「中学2年生レベル」。 それでも、マルティーナさんにはちゃんと伝わる。 そんな二人に、異言語間でのコミュニケーションの秘けつを聞いた(以下、敬称略)。 蝶野 1987年、武者修行として参加した初の海外ツアーでドイツのブレーメンを訪れたんです。 その時、友人に連れられて行ったホームパーティーで、マルティーナと出会いました。 当時ヨーロッパは、まだ東洋人が少なくて、距離を置かれることもありました。 言葉も通じません。 俺は、孤立感からすっかりホームシックになってしまって、ホテルとトーナメント会場を行き来するだけの生活。 でも、オープンに接してくれるマルティーナに、好感を持ちました。 蝶野 仕事を求めてアメリカのいろんな州を巡るといった、旅芸人のような生活を送っていました。 しばらくすると、マルティーナが、訪ねて来てくれたんです。 自分を信頼して、知らない国まではるばる会いに来てくれた。 それが決め手になって、真剣に交際することになりました。 それから、やっとギャラで暮らしていけるようになって、彼女を呼び寄せたんだけど、今度はビザのトラブルで日本に帰国することに。 その時、マルティーナから「結婚するか、しないならドイツに帰る」と迫られたんです。 それで、腹をくくって1991年に結婚しました。 兄も忙しくて不在がちでした。 突然、東京という大都会に来て、頼れる人もいないし、電車の乗り方さえ分からない。 思っていた以上に言葉の壁もありました。 ある日、肌が乾燥したので、買い物に出かけて「バスオイルありますか」と英語で聞いたら、店員さんたちが集まって「オイル? ああ、天ぷら?」と話している(笑)。 私を見て、心を閉ざしてしまう人もいます。 でも、少しずつ外に出て、街の様子を見ていきました。 夫のコスチューム作りなど、仕事にも没頭しました。 2000年には会社を立ち上げて、日本人スタッフとも話をするようになったし、子どもができてからは、とにかく大変で、それどころじゃなくなりました(笑)。 「No give up」の精神で頑張ってきました。 それに日本に来て30年、仕事も家庭も夫と一緒に一つひとつ、積み上げてきました。 簡単に投げ出すことはできません。 私は動いているのが好きで、30分買い物をしたら次は運動、次は掃除と、毎日分刻みのスケジュールで行動しています。 夫婦で始めたアパレルブランドでは、衣装デザインを担当しています。 だから、友人とゆっくり過ごす時間もあまりなくて、一番の友だちは夫です(笑)。 蝶野 ケンカすると必ず「ドイツに帰る!」と言われて、最初の20年くらいはそのたびに「帰っちゃったらどうしよう」とおびえていました(笑)。 今も1日1回くらいケンカしますけど、さすがにもう思わなくなりましたね。 マルティーナ 今はケンカもどんどん短くなって、3分だけ。 その後は、すぐ忘れちゃう。 清潔で、マナーを守り、礼儀正しい。 ただ、ドイツ人は非常に率直で、好き嫌いやものごとの評価をあからさまにする。 日本人は人当たりがソフトなところが素晴らしいと思います。 でもねえ……、ラーメンをすする音!「ずずーっ」!(震えあがるジェスチャーをしながら)あれだけは嫌いですね。 今も慣れません。 便利になったと思いますか? マルティーナ 本当にそう思います。 昔は何でも夫に聞いていましたが、今は夫ではなく、まずインターネット検索(笑)。 漢字の看板も名刺も、アプリで翻訳できる。 30年前にこうしたツールがあったら、私は今ごろ、大企業の社長になっていたでしょう(笑)。 蝶野 俺も、マルティーナとのメールのやり取りなどは翻訳ソフトを使っています。 スペルが怪しい単語が多いので(笑)。 海外遠征でも、最初は食事の時も隣の人の皿を指して、同じものを注文することしかできませんでした。 でもそのうち、イタリアンレストランで卵を割るしぐさをして「コッコッコ」と鶏のまねしたら、ちゃんとカルボナーラが出てくるようになった(笑)。 マルティーナともこうやって30年間連れ添ってるし、身振りと片言の英語でも、意思を伝えることができるんですよ。 マルティーナ 正直なところ、日本で言葉の壁を感じることはまだまだあります。 ただ、いまは、日本語、英語、ドイツ語、身振り手振りのミックスで、コミュニケーションが取れるようになりました。 自分が心を開いてさえいれば、コミュニケーションは取れるものだと、この30年間で学びました。 大事なのは、その人の職業や地位ではなく「人となり」を知ろうとする気持ちだと思います。 * 言葉がうまく通じない状況で出会いながらも、互いの努力で愛を育んできた蝶野さんとマルティーナさん。 マルティーナさんのように、仕事や家庭の都合で居住したり、旅行で訪れたりする外国人は、日本でも今後増加していくと予想されている。 日常的に外国語に触れる機会が増えていくなか、「言葉の壁をいかに乗り越えるか」が、社会課題となりつつある。 その解決策の一つを提示しているのが、NTTドコモの「」だ。 「はなして翻訳」は、リアルタイムで相手の言語を訳してくれる「対面翻訳機能」などが搭載されたスマートフォンアプリ。 行きたい場所へのルートが分からない。 食べたいメニューをうまく表現できない。 目の前で困っている人の手助けをしたいけど、言葉が通じない。 そんな場面で、スムーズなコミュニケーションを助けてくれる。

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小川直也戦の橋本真也は責任感が強すぎた 蝶野正洋が振り返る平成プロレス/蝶野コラム/リング/デイリースポーツ online

蝶野正洋

こんな俺もレスラー生活を続けるうちに少しずつ古傷が悪化して、いつのまにか怪我と共に生きるような辛い人生が始まっていた。 俺の場合、致命傷は首の怪我だった。 それである時期、試合を長期欠場して首の治療に専念したことがある。 リングを長らく留守にすることには不安があったけど、あそこでメンテナンスをやっておいて良かったと心底思っている。 徹底して怪我の治療にあたることは、目の前の不安を消すこと。 心配事がひとつ減ると、気分が明るくなる。 すると思いがけなく将来の展望も見えてくるものだ。 スポーツマンにとっての古傷とは、サラリーマンにとっての積年の疲労のようなもの。 怪我や疲労の管理とケアはしっかりした方がいい。 スポーツは怪我した時は休んだ方がいい。 でも休んだら自分のポジションがなくなる。 だから怪我をちゃんと管理しないまま、どんどん自分のパフォーマンスが下がっていってしまうことがある。 特にサッカーや野球のようなチームスポーツだと、万全の状態じゃないとチーム全体に迷惑がかかってしまうため、調子が悪い時は出場にストップがかかる。 その点、プロレスは個人競技。 多少怪我をしても体が動くなら、テーピングしてでも出ていくもの。 言い方を換えると、怪我を騙し騙しリングに上がっても、自分以外に誰もストップをかけてくれる人がいないんだ。 だいたいリング上での評価が上がっていく時というのは自分でも無理してるんだよ。 だからどこかで怪我をする。 その無理を、現役中のどこかで点検して修理する必要があった。 俺にとって、そんな時期は1998年に訪れた。 35歳の時だった。 1998年9月、念願のIWGPヘビー級のベルトを初めて手に入れて、何も怖いものがないぐらいの自信に満ちていた。 ところがその後のシリーズの開幕戦で最初の受け身を取ったら、今までに経験したことのない痺れが全身を襲った。 そして、その恐怖心を隠したまま連戦を続けた。 その結果、シリーズ前半の名古屋での試合後にタイツを脱ごうとしたら、小便を漏らしてしまった。 四肢麻痺を起こしていた。 自分の体を自分でコントロールできない。 こりゃマズイと思って、その後の試合を欠場することにした。 原因は、慢性的な頸椎椎間板(けいついついかんばん)ヘルニアの悪化だった。 激しい試合を繰り返して、いつのまにか首にダメージが溜まっていた。 脊椎の中には輪っかのような骨があって、普段はクッションの役目を果たしているが、その骨が潰れてしまって椎間板が炎症を起こしている状態。 つまりヘルニア。 検査をしてみたら、頸椎の変形と椎間板の3ヶ所にひどい炎症が見られ、医者の見立てによると、普通ならもう下半身不随の状態だったようだ。 欠場や休場レベルの状況ではなく、即手術の廃業勧告だ。 それでも、リングに戻ることが頭から離れず、レスラーを続けるため、本当に世界中のあらゆる治療法を探した。 マサ(斎藤)さんに紹介されて、NFLミネソタ・バイキングスのドクターにも診てもらった。 「プロレスどうこうじゃない。 今すぐ手術しないと日常生活すらできなくなる」.

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イジメられているガルパンおじさんのために...蝶野さんの応援大使就任の理由が熱い

蝶野正洋

明けましておめでとうございます。 蝶野正洋が振り返る平成プロレス新年1回目は小川直也選手と橋本真也選手について話そう。 2人が抗争を繰り広げたのはnWoが活動していたのと同じ頃。 柔道の世界チャンピオンから格闘家に転向した小川選手は、アントニオ猪木さんが始めた団体の所属選手として新日本プロレスに参戦していた。 97年4月の橋本選手とのデビュー戦では勝ったけど、1カ月後の再戦ではKO負け。 同年8月のグレート・ムタ戦では完全にnWoのアメリカンスタイルに食われて負けた。 うまく才能を発揮できない状況に、猪木さんも新日本の本隊に任せていたらダメだ、あれだけのいい素材が生きないと思ったんだろう。 そこで小川選手を自分のところに引き戻して、ストロングスタイルの新日本本隊にぶつける形にした。 それが、不穏試合と言われる99年1月4日の橋本選手との3度目の対戦につながったんだと思う。 あの試合は、小川選手が入場時から興奮状態。 ゴングが鳴るといきなり顔面パンチを繰り出すなど、いつもと様子が違った。 タックルで何度もしがみついてこらえる橋本選手を厳しく攻め続け、一方的に殴る蹴るの形でノーコンテストとなった。 自分らは控室で見ていて不思議だった。 これはプロレスなのか、小川選手が仕掛けているのかって感じだったけど、やっぱり仕掛けてるだろって。 だったら、橋本選手はなんでやり返さないんだ。 顔面を一発ぶん殴ればいいだろって思っていた。 橋本選手は単なるケンカではなく、何かを見せないといけないという思いがあったのかもしれない。 若い頃の橋本選手ならやり返していただろう。 でも、注目されている試合で、リングに上がったからには何かを成立させないといけない。 その責任感が強すぎて、ああいう形になったんだと思う。 (プロレスラー).

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