親鸞 聖人。 ラジオ放送「東本願寺の時間」

親鸞聖人と宗教あれこれ

親鸞 聖人

親鸞聖人の年表 浄土真宗 宗祖 【親鸞聖人 銅像】 1.親鸞聖人のご生涯 しょうがい 略 宗祖 しゅうそ 親鸞聖人は、1173 承安3 年、日野有範 ありのり 公を父として、京都の地にお生まれになりました。 9歳の時に出家得度 とくど し、比叡山 ひえいざん で20年間きびしい修行に励まれました。 しかし、そこでの修行に真実の救いを見出せなかった聖人は、29歳の時、比叡山を下り、聖徳太子 しょうとくたいし の建立と伝えられる六角堂 ろっかくどう に参籠 さんろう をされました。 参籠してから95日目の暁 あかつき 、聖人は救世 くせ 観音 かんのん の夢告 むこく を受け、そのまま吉水 よしみず の地におられた法然上人 ほうねんしょうにん のもとをたずねられたのでした。 そしてさらに百日、法然上人の教えに耳を傾け、ついに、本願 ほんがん 念仏 ねんぶつ こそすべての人を救う法であるとうなずき、帰依 きえ されました。 法然上人とその教団は、当時の仏教教団の反感と朝廷による弾圧を受け、親鸞聖人は越後国 えちごのくに 新潟県 に流罪 るざい となりました。 聖人35歳の時でした。 聖人は、都から遠く隔 へだ たったこの地で、必死に生きている人々のすがたに出会うとともに、聖人自身、妻の恵信尼 えしんに 公との間に幾人かの子どもをもうけられ、一生活者となって人々と共に生きていかれました。 40歳を過ぎて家族と共に移られた関東で、聖人は約20年間、本願念仏の教えを縁ある人々に伝えることを使命として生きられました。 京都に帰られた聖人は、真宗の根本聖典というべき『顕浄土 けんじょうど 真実 しんじつ 教行証 きょうぎょうしょう 文類 もんるい 』 『教 きょう 行信証 ぎょうしんしょう 』 をはじめ、多くの著書を残され、関東や各地の門弟に教えを伝え続けました。 そして、1262 弘長2 年11月28日、90年のご生涯を閉じられました。 東本願寺2009年発行『お彼岸』より 2. 親鸞聖人の略年表 西暦 和暦 歳 主なできごと 法然上人のできごと 歴史・その他のできごと 1167 仁安2 平清盛が武士として初めて太政 だいじょう 大臣の位についく 1173 承安3 1歳 1175 安元1 3歳 専修念仏義を唱える 1180 治承4 8歳 源平の争乱 〜85 、平氏 東大寺 興福寺を焼く 1181 養和1 9歳 平清盛没 64 比叡山・延暦寺で修行を始める 1182 寿永1 10歳 恵信尼 誕生 1185 文治1 13歳 平氏が滅びる。 守護・地頭がおかれる 1192 建久3 20歳 源頼朝が征夷大将軍に任命され、鎌倉に幕府を開く 1201 建仁1 29歳。 1204 元久1 32歳 僧 綽空と名乗る 1205 元久2 33歳 「 選釈本願念仏集」を書写し、源空の 眞影を図画。 夢告により 善信と改める 1207 承元1 35歳 源空とその門弟処罰される 興福寺宗徒 念仏停止を訴える。 親鸞 越後へ流罪。 源空 土佐へ流罪。 専修念仏停止の院宣下る。 愚禿と名乗り非僧・非俗の生活。 このころ恵信尼と結ばれる。 西意・性願・住蓮・安楽 死罪 1211 建歴1 39歳 流罪を許される 源空 流罪を許され入京、東山大谷に住す。 1212 建歴2 40歳 源空 没(80歳) 1214 建保2 42歳 越後から 常陸へ 家族と共に。 関東で布教 1221 承久3 49歳 後鳥羽上皇方が幕府を倒そうと承久の乱がおこる 1224 元仁1 52歳 : 顕浄土真実教行証文類 教行信証 草稿本 完成説あり 延暦寺宗徒により専修念仏禁止される 1232 安貞6 60歳 執権・北条泰時により、御成敗式目 貞永式目 が制定される 1235 嘉禎1 63歳 如信誕生 この頃京都に帰る 1248 宝治2 76歳 浄土和讃・高僧和讃を作る 1256 建長8 84歳 善鸞 異議を生み 義絶する 1255〜60年 建長7〜12 88歳 親鸞 精力的に執筆活動 朝円 親鸞の絵像(安城御影)を描く 1262 弘長2 90歳 押小路南・万里小路東の住居で ご入滅 1272 文永9 大谷の親鸞の墓地を吉水の北に移す。 堂を建て親鸞の影像を安置する。 当時は、戦乱や地震、大火といった天災、飢饉 ききん や疫病 えきびょう が流行 はや り、都には死者があふれていました。 誰もが悲しみや苦しみに耐えながら、一日を生き抜くことに精一杯であった時代でした。 両親の愛情に育 はぐく まれ、成長した幼名松若丸 まつわかまる (親鸞聖人)でしたが、四歳で父・藤原 ふじわらの (日野)有範 ありのり と死別したと言われています。 さらに四年後、松若丸は再び悲しみの淵 ふち に立ちました。 母・吉光 きっこう 御前 ごぜん も、帰らぬ人となったからでした。 一一八一 養和元 年、九歳の春、松若丸は伯父の藤原範綱 のりつな に付き添 そ われ、青蓮院 しょうれんいん (京都市東山区粟田口三条坊町)を訪れました。 後に天台 てんだい 座主 ざす (天台宗の最高位)となった、慈円 じえん (慈 じ 鎮 ちん )和尚 かしょう の寺でした。 出家の願いは許され、得度 とくど の式(帰敬式 ききょうしき (髪を剃 そ り僧侶 そうりょ (仏弟子)になる儀式))が、翌日行われることになりました。 だが松若丸は、じっと何かを考えていました。 やがて、かたわらの硯 すずり と筆をとり、歌を書いて慈円和尚に見せました。 「明日ありと 思う心の あだ桜 夜半 よわ に嵐の 吹かぬものかは」 (訳…今を盛りと咲くきれいな桜の花も、たった一夜の一陣 いちじん の嵐 あらし で散ってしまいます。 人の命は、桜の花よりも、はかなきものと聞いております。 明日といわず、どうか今日、得度の式をしていただけないでしょうか。 )その歌に感嘆 かんたん した慈円和尚は、その夜のうちに出家の儀を行いました。 こうして得度を受け、範宴 はんねん と名のられ、僧侶となるべき人生を歩み始められました。 伝教 でんぎょう 大師 だいし 最澄によって開かれた比叡山は、大乗 だいじょう 菩薩道 ぼさつどう の根本道場として、その使命を自負 じふ し、権威 けんい を誇っていました。 しかし、聖人が学ばれたころには、その山も、すでに奈良の諸宗などと同じように、現世 げんせ の祈祷 きとう や現実の生活とは無関係な学問の場になりはてていました。 しかも、事あるごとに、寺院に加持 かじ ・祈祷を求めることができたのは、つねに社会の上層を占 し める人々でした。 そのため、寺院はしだいに貴族社会と結びつき、その寄進をうけて、広大な荘園 しょうえん を支配する領主となっていきました。 そのうえ、僧兵 そうへい とよばれる武力をすら持つようになり、時代の乱れをいよいよはなはだしいものにしたのです。 権力とむすびつくことで、しだいに世俗にまみれていった寺院は、さらにその内部にも身分的な対立をうみだし、争いのやむこともないありさまでした。 もちろん、寺院の堕落 だらく ・騒乱 そうらん をよそに、ひたすら修学にはげむ僧たちもいなかったわけではありません。 しかし、その人たちも、多くはただみずからの学問の世界にのみ閉 と じこもる人たちでした。 そのころの聖人については、受戒 じゅかい して僧となり、のちに堂僧 どうそう をつとめていたことが知られているだけです。 ただ、聖人の教えをしたう人々の間には、1191 建久 けんきゅう 2 年、19歳の秋、聖人は、磯長 しなが の聖徳 しょうとく 太子 たいし 廟 びょう にこもられ、そこで夢告 むこく をうけられたと言い伝えられています。 その夢告のなかの、「日域 じちいき は大乗 だいじょう 相応 そうおう の地」「汝 なんじ の命根 みょうこん まさに十余歳なるべし」「善信 ぜんしん 善信 ぜんしん 真菩薩 しんぼさつ 」 「建長2年文書」高田専修寺蔵 という言葉は、そのころ聖人がどのような問いをもって生きておられたかを示しています。 すなわち、賜 たまわ った命の限界を見すえながら、聖人は、どこに生死 しょうじ の迷いをはなれる道がひらかれるのかという苦悶 くもん を、夢告 むこく をうけるほどまでにつきつめておられたのでしょう。 山での20年間は、いよいよふかまってくるその問いをかかえての、修学の日々であったのです。 比叡山でお聖人様がどのような修行をされたのか、確かなことは分かりません。 しかし、後の『歎異抄 たんにしょう 』のお言葉にある「いずれの行 ぎょう もおよびがたき身」という述懐 じゅっかい から、苦渋 くじゅう にみちた遍歴 へんれき であったお姿が垣間 かいま 見えます。 ひたすら勉学に励まれました。 しかし、お聖人様は、二十年にわたる学びにもかかわらず、苦しみや悩みをのりこえる道を見つけることができませんでした。 お聖人様二十九歳の時、聖徳太子が建立したと伝えられる六角堂 京都・頂法寺 に百日の参籠 さんろう を続けられます。 救世 ぐぜ 観音 かんのん を本尊とし、人生に行きづまりを感じた当時の人びとが、その打開の道を祈る場所でした。 お聖人様もまた、聖徳太子に導きを求めたのでした。 出家修行に終止符を打ち、ただちに吉水の草庵 そうあん に法然上人をたずね、百日の聴聞 ちょうもん をかさね、そこで「 ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という教えに出遇われ、凡夫 ぼんぷ 直入 じきにゅう の他力の信心を決定 けつじょう されたのであります。 法然上人という善知識 ぜんぢしき にしたがって、お聖人様の聞法 もんぽう の生活が始まりました。 法然上人から選択 せんじゃく 本願念仏集の書写を許されて、これこそ決定往生のしるしだと喜ばれた親鸞聖人様でありました。 しかし、念仏がすべての人を平等に救うという証明は、もう一つはっきりしなかったようであります。 しかし、建仁三 一二〇三 年四月五日の暁、お聖人様は聖徳太子の本地六角堂救世 くせ 観音 かんのん の夢告 むこく を感得されました。 それは有名な次の偈文 げもん と、その旨趣 しいしゅ を人々に伝えなさいというものでありました。 行者 ぎょうじゃ 宿報 しゅくほう 設 せつ 女犯 にょぼん 我成 がじょう 玉女 ぎょくにょ 身被犯 しんぴぼん 一生 いっしょう 之間 しけん 能荘厳 のうしょうごん 臨終 りんじゅう 引導 いんどう 生極楽 しょうごくらく 行者宿報あって設 たと え女犯するとも、我玉女の身となって犯さるるなり。 一生の間よく荘厳して、臨終に引導して極楽に生ぜしめん。 訳…「そなたがこれまでの因縁 いんねん によって、たとえ女犯 にょぼん があっても、私 救世観音 が玉女 ぎょくにょ という女の姿となって、肉体の交わりを受けよう。 そしておまえの一生を立派に飾り、臨終には引き導いて、極楽に生まれさせよう。 これは私の誓願 せいがん である。 すべての人に説き聞かせなさい。 」と これは男も女も、すべての人間がありのままの姿で救われる、阿弥陀仏の絶対の救済のあることを教えた夢と理解することができます。 この夢がきっかけとなり、お聖人様は後に肉食 にくじき 妻帯 さいたい を決意されます。 ここに仏法があり、仏法に生きている人びとがいる、その歓 よろこ びを、後に「建仁 けんにん 辛酉 かのとのとり の暦 れき 、 雑行 ぞうぎょう を棄 す てて本願に帰す」と書きとどめられ、「? 劫 こうごう 多生 たしょう のあいだにも、出離 しゅつり の強縁 ごうえん しらざりき、本師 ほんじ 源空いまさずは、このたびむなしくすぎなまし」とうたわれています。 しかし、一方で古くからあった仏教教団との間に摩擦が生じ、専修 せんじゅ 念仏の禁止と法然上人をはじめ中心人物の処罰を朝廷に訴えるという、その圧力はすさまじいものでした。 一二〇七 承元 じょうげん 元 年、法然上人は土佐の国 高知県 に流罪となり、門弟も四名の死罪や流罪に処せられます。 お聖人様も藤井善信 よしざね の罪名で越後国に流罪となったのです。 三十五歳の時でした。 お聖人様が流罪の地で出会ったのは、北国のきびしい自然と、富や権力とは無縁に、人間としての命を赤裸々に生きている人びとでした。 この世を生きることのきびしさ、一人ひとり背負いきれない重荷を背負い、深い苦悩の中に生きることを余儀なくされた人がいたのです。 そういう人びとの中にあって、お聖人様は恵信尼 えしんに 公と結婚し、二人の間に子をもうけ、肉食妻帯の一生活者となって生きていかれました。 その生活をとおして、お聖人様にとって「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という法然上人の一言が確かなものとなっていかれたのです。 念仏の教えが、人びとの生活にどのようにひらいていけばよいかという問いが、お聖人様の心に重く担 にな われていきました。 その歩みの中から、お聖人様は「愚禿釈 ぐとくしゃくの 親鸞 しんらん 」と名のられました。 その後は京都へは戻らず、ご家族と関東に向かわれ、約二十年間にわたって、念仏の教えを縁ある人びとに語り伝えていかれました。 特にこの関東で、浄土真宗の根本聖典である『顕浄土 けんじょうど 真実 しんじつ 教行証 きょうぎょうしょう 文類 もんるい 』 教行 きょうぎょう 信証 しんしょう を書きすすめられたといわれています。 お聖人様は、六十歳を過ぎて京都に帰られます。 このころ約十年ほど前から書き進められていた『教行 きょうぎょう 信証 しんしょう 』を完成されます。 京の地での住居も定まらないまま、『尊号 そんごう 真像 しんぞう 銘文 めいもん 』『三帖 さんじょう 和讃 わさん 』などの著作活動を続けられます。 それは、法然上人をとおして出会われた、すべての人とともに救われていく道を明らかにするためでした。 お聖人様のご生涯は苦難の多い道のりでしたが、法然上人との出遇 であ いによって弥陀の本願に帰し、念仏に生かされ、浄土の真宗を顕 あき らかにし続けられたご生涯でした。 親鸞聖人御入滅の地と伝えられる光円寺 二つには決定 けつじょう して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受 しょうじゅ して、疑いなく慮 おもんばか りなくかの願力 がんりき に乗じて、定んで往生を得 う 」と信ず。 法の深信 じんしん 遺 のこ された門弟たちはお聖人様の御命日になると、聞法の集まりの場を開いていきました。 お聖人様の三十三回忌には、お聖人様の曾孫にあたる覚如上人が『報恩講式 私記 』を著し、ご命日に拝読されるようになって、ご命日の法要がお聖人様の恩徳 おんどく に報いるという意味を持つようになりました。 この法要が後に「報恩講」と呼ばれるようになり、今もなお、最も大切な御仏事として、各寺院・ご門徒宅で勤められています。 御伝鈔 下巻 Copyright C 2010 真宗大谷派圓勝寺(東本願寺末寺) No reproduction or republication without written permission. 記事・写真の無断転載を禁じます。

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親鸞聖人の生涯と教えを分かりやすく解説

親鸞 聖人

親鸞聖人の年表 浄土真宗 宗祖 【親鸞聖人 銅像】 1.親鸞聖人のご生涯 しょうがい 略 宗祖 しゅうそ 親鸞聖人は、1173 承安3 年、日野有範 ありのり 公を父として、京都の地にお生まれになりました。 9歳の時に出家得度 とくど し、比叡山 ひえいざん で20年間きびしい修行に励まれました。 しかし、そこでの修行に真実の救いを見出せなかった聖人は、29歳の時、比叡山を下り、聖徳太子 しょうとくたいし の建立と伝えられる六角堂 ろっかくどう に参籠 さんろう をされました。 参籠してから95日目の暁 あかつき 、聖人は救世 くせ 観音 かんのん の夢告 むこく を受け、そのまま吉水 よしみず の地におられた法然上人 ほうねんしょうにん のもとをたずねられたのでした。 そしてさらに百日、法然上人の教えに耳を傾け、ついに、本願 ほんがん 念仏 ねんぶつ こそすべての人を救う法であるとうなずき、帰依 きえ されました。 法然上人とその教団は、当時の仏教教団の反感と朝廷による弾圧を受け、親鸞聖人は越後国 えちごのくに 新潟県 に流罪 るざい となりました。 聖人35歳の時でした。 聖人は、都から遠く隔 へだ たったこの地で、必死に生きている人々のすがたに出会うとともに、聖人自身、妻の恵信尼 えしんに 公との間に幾人かの子どもをもうけられ、一生活者となって人々と共に生きていかれました。 40歳を過ぎて家族と共に移られた関東で、聖人は約20年間、本願念仏の教えを縁ある人々に伝えることを使命として生きられました。 京都に帰られた聖人は、真宗の根本聖典というべき『顕浄土 けんじょうど 真実 しんじつ 教行証 きょうぎょうしょう 文類 もんるい 』 『教 きょう 行信証 ぎょうしんしょう 』 をはじめ、多くの著書を残され、関東や各地の門弟に教えを伝え続けました。 そして、1262 弘長2 年11月28日、90年のご生涯を閉じられました。 東本願寺2009年発行『お彼岸』より 2. 親鸞聖人の略年表 西暦 和暦 歳 主なできごと 法然上人のできごと 歴史・その他のできごと 1167 仁安2 平清盛が武士として初めて太政 だいじょう 大臣の位についく 1173 承安3 1歳 1175 安元1 3歳 専修念仏義を唱える 1180 治承4 8歳 源平の争乱 〜85 、平氏 東大寺 興福寺を焼く 1181 養和1 9歳 平清盛没 64 比叡山・延暦寺で修行を始める 1182 寿永1 10歳 恵信尼 誕生 1185 文治1 13歳 平氏が滅びる。 守護・地頭がおかれる 1192 建久3 20歳 源頼朝が征夷大将軍に任命され、鎌倉に幕府を開く 1201 建仁1 29歳。 1204 元久1 32歳 僧 綽空と名乗る 1205 元久2 33歳 「 選釈本願念仏集」を書写し、源空の 眞影を図画。 夢告により 善信と改める 1207 承元1 35歳 源空とその門弟処罰される 興福寺宗徒 念仏停止を訴える。 親鸞 越後へ流罪。 源空 土佐へ流罪。 専修念仏停止の院宣下る。 愚禿と名乗り非僧・非俗の生活。 このころ恵信尼と結ばれる。 西意・性願・住蓮・安楽 死罪 1211 建歴1 39歳 流罪を許される 源空 流罪を許され入京、東山大谷に住す。 1212 建歴2 40歳 源空 没(80歳) 1214 建保2 42歳 越後から 常陸へ 家族と共に。 関東で布教 1221 承久3 49歳 後鳥羽上皇方が幕府を倒そうと承久の乱がおこる 1224 元仁1 52歳 : 顕浄土真実教行証文類 教行信証 草稿本 完成説あり 延暦寺宗徒により専修念仏禁止される 1232 安貞6 60歳 執権・北条泰時により、御成敗式目 貞永式目 が制定される 1235 嘉禎1 63歳 如信誕生 この頃京都に帰る 1248 宝治2 76歳 浄土和讃・高僧和讃を作る 1256 建長8 84歳 善鸞 異議を生み 義絶する 1255〜60年 建長7〜12 88歳 親鸞 精力的に執筆活動 朝円 親鸞の絵像(安城御影)を描く 1262 弘長2 90歳 押小路南・万里小路東の住居で ご入滅 1272 文永9 大谷の親鸞の墓地を吉水の北に移す。 堂を建て親鸞の影像を安置する。 当時は、戦乱や地震、大火といった天災、飢饉 ききん や疫病 えきびょう が流行 はや り、都には死者があふれていました。 誰もが悲しみや苦しみに耐えながら、一日を生き抜くことに精一杯であった時代でした。 両親の愛情に育 はぐく まれ、成長した幼名松若丸 まつわかまる (親鸞聖人)でしたが、四歳で父・藤原 ふじわらの (日野)有範 ありのり と死別したと言われています。 さらに四年後、松若丸は再び悲しみの淵 ふち に立ちました。 母・吉光 きっこう 御前 ごぜん も、帰らぬ人となったからでした。 一一八一 養和元 年、九歳の春、松若丸は伯父の藤原範綱 のりつな に付き添 そ われ、青蓮院 しょうれんいん (京都市東山区粟田口三条坊町)を訪れました。 後に天台 てんだい 座主 ざす (天台宗の最高位)となった、慈円 じえん (慈 じ 鎮 ちん )和尚 かしょう の寺でした。 出家の願いは許され、得度 とくど の式(帰敬式 ききょうしき (髪を剃 そ り僧侶 そうりょ (仏弟子)になる儀式))が、翌日行われることになりました。 だが松若丸は、じっと何かを考えていました。 やがて、かたわらの硯 すずり と筆をとり、歌を書いて慈円和尚に見せました。 「明日ありと 思う心の あだ桜 夜半 よわ に嵐の 吹かぬものかは」 (訳…今を盛りと咲くきれいな桜の花も、たった一夜の一陣 いちじん の嵐 あらし で散ってしまいます。 人の命は、桜の花よりも、はかなきものと聞いております。 明日といわず、どうか今日、得度の式をしていただけないでしょうか。 )その歌に感嘆 かんたん した慈円和尚は、その夜のうちに出家の儀を行いました。 こうして得度を受け、範宴 はんねん と名のられ、僧侶となるべき人生を歩み始められました。 伝教 でんぎょう 大師 だいし 最澄によって開かれた比叡山は、大乗 だいじょう 菩薩道 ぼさつどう の根本道場として、その使命を自負 じふ し、権威 けんい を誇っていました。 しかし、聖人が学ばれたころには、その山も、すでに奈良の諸宗などと同じように、現世 げんせ の祈祷 きとう や現実の生活とは無関係な学問の場になりはてていました。 しかも、事あるごとに、寺院に加持 かじ ・祈祷を求めることができたのは、つねに社会の上層を占 し める人々でした。 そのため、寺院はしだいに貴族社会と結びつき、その寄進をうけて、広大な荘園 しょうえん を支配する領主となっていきました。 そのうえ、僧兵 そうへい とよばれる武力をすら持つようになり、時代の乱れをいよいよはなはだしいものにしたのです。 権力とむすびつくことで、しだいに世俗にまみれていった寺院は、さらにその内部にも身分的な対立をうみだし、争いのやむこともないありさまでした。 もちろん、寺院の堕落 だらく ・騒乱 そうらん をよそに、ひたすら修学にはげむ僧たちもいなかったわけではありません。 しかし、その人たちも、多くはただみずからの学問の世界にのみ閉 と じこもる人たちでした。 そのころの聖人については、受戒 じゅかい して僧となり、のちに堂僧 どうそう をつとめていたことが知られているだけです。 ただ、聖人の教えをしたう人々の間には、1191 建久 けんきゅう 2 年、19歳の秋、聖人は、磯長 しなが の聖徳 しょうとく 太子 たいし 廟 びょう にこもられ、そこで夢告 むこく をうけられたと言い伝えられています。 その夢告のなかの、「日域 じちいき は大乗 だいじょう 相応 そうおう の地」「汝 なんじ の命根 みょうこん まさに十余歳なるべし」「善信 ぜんしん 善信 ぜんしん 真菩薩 しんぼさつ 」 「建長2年文書」高田専修寺蔵 という言葉は、そのころ聖人がどのような問いをもって生きておられたかを示しています。 すなわち、賜 たまわ った命の限界を見すえながら、聖人は、どこに生死 しょうじ の迷いをはなれる道がひらかれるのかという苦悶 くもん を、夢告 むこく をうけるほどまでにつきつめておられたのでしょう。 山での20年間は、いよいよふかまってくるその問いをかかえての、修学の日々であったのです。 比叡山でお聖人様がどのような修行をされたのか、確かなことは分かりません。 しかし、後の『歎異抄 たんにしょう 』のお言葉にある「いずれの行 ぎょう もおよびがたき身」という述懐 じゅっかい から、苦渋 くじゅう にみちた遍歴 へんれき であったお姿が垣間 かいま 見えます。 ひたすら勉学に励まれました。 しかし、お聖人様は、二十年にわたる学びにもかかわらず、苦しみや悩みをのりこえる道を見つけることができませんでした。 お聖人様二十九歳の時、聖徳太子が建立したと伝えられる六角堂 京都・頂法寺 に百日の参籠 さんろう を続けられます。 救世 ぐぜ 観音 かんのん を本尊とし、人生に行きづまりを感じた当時の人びとが、その打開の道を祈る場所でした。 お聖人様もまた、聖徳太子に導きを求めたのでした。 出家修行に終止符を打ち、ただちに吉水の草庵 そうあん に法然上人をたずね、百日の聴聞 ちょうもん をかさね、そこで「 ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という教えに出遇われ、凡夫 ぼんぷ 直入 じきにゅう の他力の信心を決定 けつじょう されたのであります。 法然上人という善知識 ぜんぢしき にしたがって、お聖人様の聞法 もんぽう の生活が始まりました。 法然上人から選択 せんじゃく 本願念仏集の書写を許されて、これこそ決定往生のしるしだと喜ばれた親鸞聖人様でありました。 しかし、念仏がすべての人を平等に救うという証明は、もう一つはっきりしなかったようであります。 しかし、建仁三 一二〇三 年四月五日の暁、お聖人様は聖徳太子の本地六角堂救世 くせ 観音 かんのん の夢告 むこく を感得されました。 それは有名な次の偈文 げもん と、その旨趣 しいしゅ を人々に伝えなさいというものでありました。 行者 ぎょうじゃ 宿報 しゅくほう 設 せつ 女犯 にょぼん 我成 がじょう 玉女 ぎょくにょ 身被犯 しんぴぼん 一生 いっしょう 之間 しけん 能荘厳 のうしょうごん 臨終 りんじゅう 引導 いんどう 生極楽 しょうごくらく 行者宿報あって設 たと え女犯するとも、我玉女の身となって犯さるるなり。 一生の間よく荘厳して、臨終に引導して極楽に生ぜしめん。 訳…「そなたがこれまでの因縁 いんねん によって、たとえ女犯 にょぼん があっても、私 救世観音 が玉女 ぎょくにょ という女の姿となって、肉体の交わりを受けよう。 そしておまえの一生を立派に飾り、臨終には引き導いて、極楽に生まれさせよう。 これは私の誓願 せいがん である。 すべての人に説き聞かせなさい。 」と これは男も女も、すべての人間がありのままの姿で救われる、阿弥陀仏の絶対の救済のあることを教えた夢と理解することができます。 この夢がきっかけとなり、お聖人様は後に肉食 にくじき 妻帯 さいたい を決意されます。 ここに仏法があり、仏法に生きている人びとがいる、その歓 よろこ びを、後に「建仁 けんにん 辛酉 かのとのとり の暦 れき 、 雑行 ぞうぎょう を棄 す てて本願に帰す」と書きとどめられ、「? 劫 こうごう 多生 たしょう のあいだにも、出離 しゅつり の強縁 ごうえん しらざりき、本師 ほんじ 源空いまさずは、このたびむなしくすぎなまし」とうたわれています。 しかし、一方で古くからあった仏教教団との間に摩擦が生じ、専修 せんじゅ 念仏の禁止と法然上人をはじめ中心人物の処罰を朝廷に訴えるという、その圧力はすさまじいものでした。 一二〇七 承元 じょうげん 元 年、法然上人は土佐の国 高知県 に流罪となり、門弟も四名の死罪や流罪に処せられます。 お聖人様も藤井善信 よしざね の罪名で越後国に流罪となったのです。 三十五歳の時でした。 お聖人様が流罪の地で出会ったのは、北国のきびしい自然と、富や権力とは無縁に、人間としての命を赤裸々に生きている人びとでした。 この世を生きることのきびしさ、一人ひとり背負いきれない重荷を背負い、深い苦悩の中に生きることを余儀なくされた人がいたのです。 そういう人びとの中にあって、お聖人様は恵信尼 えしんに 公と結婚し、二人の間に子をもうけ、肉食妻帯の一生活者となって生きていかれました。 その生活をとおして、お聖人様にとって「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という法然上人の一言が確かなものとなっていかれたのです。 念仏の教えが、人びとの生活にどのようにひらいていけばよいかという問いが、お聖人様の心に重く担 にな われていきました。 その歩みの中から、お聖人様は「愚禿釈 ぐとくしゃくの 親鸞 しんらん 」と名のられました。 その後は京都へは戻らず、ご家族と関東に向かわれ、約二十年間にわたって、念仏の教えを縁ある人びとに語り伝えていかれました。 特にこの関東で、浄土真宗の根本聖典である『顕浄土 けんじょうど 真実 しんじつ 教行証 きょうぎょうしょう 文類 もんるい 』 教行 きょうぎょう 信証 しんしょう を書きすすめられたといわれています。 お聖人様は、六十歳を過ぎて京都に帰られます。 このころ約十年ほど前から書き進められていた『教行 きょうぎょう 信証 しんしょう 』を完成されます。 京の地での住居も定まらないまま、『尊号 そんごう 真像 しんぞう 銘文 めいもん 』『三帖 さんじょう 和讃 わさん 』などの著作活動を続けられます。 それは、法然上人をとおして出会われた、すべての人とともに救われていく道を明らかにするためでした。 お聖人様のご生涯は苦難の多い道のりでしたが、法然上人との出遇 であ いによって弥陀の本願に帰し、念仏に生かされ、浄土の真宗を顕 あき らかにし続けられたご生涯でした。 親鸞聖人御入滅の地と伝えられる光円寺 二つには決定 けつじょう して深く、「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受 しょうじゅ して、疑いなく慮 おもんばか りなくかの願力 がんりき に乗じて、定んで往生を得 う 」と信ず。 法の深信 じんしん 遺 のこ された門弟たちはお聖人様の御命日になると、聞法の集まりの場を開いていきました。 お聖人様の三十三回忌には、お聖人様の曾孫にあたる覚如上人が『報恩講式 私記 』を著し、ご命日に拝読されるようになって、ご命日の法要がお聖人様の恩徳 おんどく に報いるという意味を持つようになりました。 この法要が後に「報恩講」と呼ばれるようになり、今もなお、最も大切な御仏事として、各寺院・ご門徒宅で勤められています。 御伝鈔 下巻 Copyright C 2010 真宗大谷派圓勝寺(東本願寺末寺) No reproduction or republication without written permission. 記事・写真の無断転載を禁じます。

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親鸞聖人の人間観とは? 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点 第24回|親鸞会

親鸞 聖人

慈信房善鸞大徳の生涯については記録が少ないので生誕や没年すら不詳とされています。 以前のブログで善鸞さんの生誕年を 1205 ~ 07 年頃としましたが、もう一度、考えてみたいと思います。 善鸞大徳の誕生が 1217 年とした場合 一般に、善鸞さんは 1217 年に生まれ、 1286 年 4 月に逝去されたという説と、誕生は 1210 年で、没年は 1292 年とする説が有力となっています。 まず前者ですが、 1217 年というと、父の親鸞さん 45 歳の時の子供で、ちょうど、常陸国稲田に居を構えられた頃です。 ですから母親は恵信尼さんということになります。 1235 年に善鸞さんの息子・如信さんが生まれています。 善鸞さん 18 歳の時です。 さらに 1252 年頃に善鸞さんと如信さんが関東に下向されたと言われていますので、善鸞さん 35 歳の頃となります。 また覚如上人が 20 歳の頃に関東に行って、善鸞さんとお会いになったということですから、この時は善鸞さん 75 歳前ごろになります。 この説では、母が恵信尼さんとなり、恵信尼さんの書簡にも記述されていないことや、もし稲田時代に生まれ、 20 歳頃までそこで暮らしていたのなら、親鸞面授の性信房ら面授の弟子たちとも懇意であり、小さい時から彼らを尊敬してもいいと思われるのに、性信らの親鸞宛書簡ではそういった親しげな感じは全くないことや、親鸞さんらが京都に帰った頃に、善鸞さん 18 歳の時に息子の如信さんを生むということが現実的とは思われません。 もしそうなら関東時代に奥さんをめとっていたことになりますし。 1286 年 4 月逝去という説も、覚如上人が関東に行かれたのが 1290 年頃で、関東で善鸞さんにお会いしたとあることから、この 1217 年生~ 1286 年没の説は無理があるようです。 1210 年の誕生とした場合 また 1210 年生~ 1292 年没説はどうでしょうか。 1210 年という年は親鸞さん 38 歳、まだ越後に流罪で居られる時期です。 これも母親は恵信尼さんになります。 ただまだ流罪の身で、結婚して子供をもうけることができたのかどうかは疑問です。 それから翌 1211 年に赦免され、しばらくして長野から下野~稲田という長い旅(京都に一旦帰られたという説もあります)に出られますが、わずか 3 , 4 歳の善鸞さんと一緒に旅に出られたのかどうか疑問もでます。 如信さん誕生の時は、善鸞さん 25 歳ですが、この時もまた京都に帰洛された直後で、帰られてすぐ結婚されたか、関東で結婚してから帰られたのかのどちらかですが、親鸞さん一家が京都で生活できるかどうかも分からない時期でもあり、どちらも無理があるような気がしますし、親鸞さんの義絶書簡と言われる中で「(恵信尼さんを)ままははと呼ぶのはいけない」と書いてありますが、どうしても恵信尼さんの子供ということに何か違和感を覚えます。 1205 ~ 7 年生まれが妥当か そうすると、前のブログでも書きましたが、善鸞さんの誕生は親鸞さんが京都で恵信尼さんとは別の奥さんが生んだとすることが現実のようです。 誕生されてからずっと京都で僧侶としての修行され、京都に帰られた親鸞さんと約 30 年振りに再会されたとするのが無理が少ないと思われます。 仮に生誕年を親鸞さんが京都に居られた時の 1205 ~ 7 年とすると、善鸞さんが 1252 年頃に関東に下向された時は 45 ~ 47 歳になっており、同行した息子・如信さんは 18 ~ 20 歳頃ということになります。 それから 4 年後の 1256 年に義絶事件が起きます。 善鸞さん 50 歳頃ですね。 それからの善鸞さん親子の消息はしばらく記録にないのですが、親鸞さんの曾孫・覚如上人が 20 歳の頃、父・覚恵上人と共に関東に下向された時の様子を記録した 「慕帰絵詞(ぼきえことば)」「 最須敬重絵詞(さいしゅきょうじゅうえことば)」 に善鸞さんの事が記されています。 善鸞さんの晩年は神奈川で暮らす? 男女数百人の棟梁として馬上にあったとか、相模国山中で如信さんとともに会ったとかが書いてあります。 そうすると、この記述の頃は覚如さんが 21 , 2 歳の 1291 年頃と思われますので、善鸞さんは 85 歳前後の頃になります。 その後数年は生きておられたのではないでしょうか。 善鸞さんのご臨終については神奈川県厚木市の弘徳寺に墓所があり、 1278 年 3 月 22 日、御年 65 歳で逝去されたと記されています。 没年の真偽はともかく、善鸞さんの晩年は神奈川県内で主に活動されたような感じです。 は親鸞聖人の二十四輩の一人であるを開基とし、親鸞さんが同地に 駐錫(ちゅうしゃく: 行脚中の僧が寺などに滞在すること)されたことがあるとされています。 ここに善鸞さんが草庵を結び、「親縁山心光院」と号し、弟子の浄念さんとともに住み、ご臨終を迎えられたということです。 また室町時代に生きた蓮如上人の十男である実悟(じつご)さんが書いたとされる「実悟記」によると、蓮如上人が東国からの帰路の途中のことを書いています。 「鎌倉近き所に善鸞の御坊跡あり、柳茂りてたしかならず。 かかる処を 蓮如上人が)御通ありしに、善鸞は聖人御不幸ありしなればとて、御坊跡の柳の梢をも御覧あるまじとて、二、三里の間、御笠をかたぶけられ、ついに御覧ぜられざりし」とあるそうです。 この頃でも、善鸞さんは親鸞さんに背いた人と思われていたのでしょうか。 この伝聞でも善鸞さんは神奈川に在留されていたと伝えられていたようです。 いずれにしても、善鸞さんは当時としては長生きされたのではないでしょうか。 関東下向以来、京都に帰られたという記録もないし、生涯を関東・東北で一生懸命、息子の如信さんと教化・流浪をされ、流儀はどうであれ東北地方に真宗を広められたことに対して、私たちは人間・善鸞大徳をもっと再評価すべきと思うのですが、いかがでしょうか。 コメント数:• カテゴリ:• by 柿木房寂凉 慈信房善鸞大徳さんはあまり資料がなくて、ミステリーな方ですが、どのようなお方だったのでしょうか。 諸説がある中で、推論してみました。 善鸞さんはいつ誕生されたか ウィキペディアによると、善鸞さんは 5 年( )に生まれ、 9 年 ( )、 70歳で逝去されたとあります。 1217年というと、親鸞さんが妻の恵信尼さんと流刑先の越後から常陸国(茨城県)に住まわれて数年後ということになります。 親鸞さんには 4男 3女の 7人の子供がいることが分かっています。 範意〈印信〉・壬生女房 (あるいは ) ・ ・明信〈〉・有房〈益方大夫入道〉・高野禅尼・ です。 恵信尼さんの手紙で生まれた年が正確に分かっているのが明信1211年生、末娘といわれている覚信尼が1224年生(~1283年没)です。 もし善鸞さんが 1217年生まれとすると、信蓮房より6歳も下となり、いろいろな系図の序列とつじつまが合いません。 また善鸞さんの長男・如信さんが生まれたのが 1235年ですから、ちょうど、親鸞さん一家が京に帰洛した直後の善鸞さん 18歳頃の子供ということになってしまい、まったく現実的ではありません。 さらに 1552年頃に関東に下向した時は善鸞さん 35歳、一緒に同行した如信さん 17歳頃ということですので、あの造悪無礙などが激しかった関東に、弱冠 35歳の善鸞さんが親鸞さんの名代として行かれるというのは、肩の荷が重すぎると思います。 1205 ~ 07年頃に京都で誕生? 一方で、善鸞さんの生誕に関しては親鸞さんの出自と言われる名門・日野家の系図があります。 そこでは前妻の との間に三人の子供がいる。 1201年(親鸞 29歳)から越後に流罪となる 1207年までの間に、範意( 1202年生)、小黒女房(あるいは壬生 女房)、次に善鸞さんが 1207年に生まれたとなっています。 後の 4人の子供は、越後で結婚した恵信尼との間で生まれたとなっています。 小生は、この説の方が理にかなっているように思われますので、善鸞さんは玉日姫の次男で 1205~ 07年頃の生まれ、親鸞さんが越後に行かれた後も京都に残られたとの説をとりたいと思います。 善鸞さん 天台宗を学ばれる? 京に残った善鸞さんは母の玉日姫とともに九条兼実家に引き取られたという説があります。 ただしばらくして母の他界などもあって天台宗の僧侶の修行に入ったと言われています。 そこでの加持祈祷を身に付けた可能性があります。 それが後に東国の関東・東北で祈祷行者的な隠れ念仏を広める結果となったのでしょうか。 親鸞聖人が帰洛された時に善鸞さんと再会された時は親鸞さん 62歳頃で善鸞さん 30歳頃になるでしょうか。 善鸞さんは立派な天台宗僧侶だったかも知れません。 その後は親鸞聖人の教えをみっちりと仕込まれたのでしょうね。 それで関東に名代として行かれたのでしょう。 ここで指摘しておきたいのは、善鸞さんは玉日姫の息子だったので、京に残り、正式な既存仏教を学習された。 だから東国に下って異端の教義に攻撃されても反論できると親鸞さんは考えたと思います。 もし善鸞さんが恵信尼さんの息子だったら、ずっと一緒に暮らしていたはずなので、正式な仏教教育は受けていないわけです。 もし造悪無碍等の異義を正すために親鸞さんの名代で東国に下向するのであれば、同じ息子である信蓮房明信や益方大夫入道と一緒でもよかったわけですよね。 実際には善鸞さんと彼の息子の如信さんが下向しています。 如信さんはまだ二十歳前後ですので、戦力にはなれなかったと思いますよ。 明信さんや益方さんは小さい時から常陸に父・親鸞さんといたので正式な仏教教育は受けていなかった。 だから彼らも東国に出向いても戦力になれそうになかった。 こういう推論に立つと、やはり善鸞さんは恵信尼さんの子供ではないと改めて思うのであります。 わずかな資料を手掛かりとして、研究者の方が熟考を重ね、議論しつつ、親鸞さん研究が少しづつ深まっています。 それを関心のある者が読んで推察する。 まるで古代大和朝廷の場所を探す研究に匹敵する楽しみでもあります。 「善鸞」という名前は親鸞さんではなく、善鸞さん自らが作った名前 ? それにしても、善鸞さんの名前、「慈信房善鸞」とは本当に良いとこ取りの名前です。 晩年の親鸞さんは手紙の署名に「善信」とも書いているように好きな名前だったのでしょうね。 しかし、その「善鸞」という名前。 平松令三氏の推論によると、これは親鸞さんが付けた名前ではなく、善鸞さんが自ら名乗った名前なのではないかというのです。 というのは、「善鸞」という名前は、親鸞没後 90年過ぎてから作成された「慕帰絵」( 1351年作)、「最須敬重絵詞」( 1352年作)で初めて現われた名前で、それまでは親鸞さんの消息にも「慈信(房)」という名前だけなのです。 義絶はなかった等々、ここまでくると、素人のわたしには混乱は深まるばかりです。 ですから善鸞さんの話は一応、ここまでにしておきます。 次は、慈信房善鸞さんの息子である如信上人について勉強します。 コメント数:• カテゴリ:• by 柿木房寂凉 親鸞さんが息子のを、勘当(義絶)したかどうかは別にして、慈信房は関東に行って、本当に親鸞さんを困らせることをしたのでしょうか。 善鸞さんのことを真宗教団の資料 - の中で触れているのは、先の書簡(消息)と、曾孫の覚如さんの伝記である「」(ぼきえことば)と「」(さいしゅきょうじゅうえことば)だけと言われており、実際、慈信房が関東に下向してから何をしておられたかは記録がほとんどありません。 慈信房善鸞さん、様々な教義・邪義がはびこる関東で奮闘 でも、鎌倉時代半ば頃に関東でも、造悪無碍(ぞうあくむげ)など邪義がはびこっていたことは事実であり、そのため聖人の面授弟子の性信らにも幕府からマークされていたことも事実のようです。 関東門徒ではなく、覚如の次男・従覚がまとめたとされる親鸞聖人の書簡集「末燈鈔」でも、親鸞さんが「笠間の念仏者の疑い問われたこと」というテーマで書いた書簡や、「鹿島・行方(なめかた)の人々の間違ったことを言い止め、これら人々のねじけた考えを正してこそ、私と信仰を共にした証しとなります」と聖人が記した書簡によって、関東でのゴタゴタが伝わってきます。 こうした中で、善鸞さんが関東に下向されたわけで、およそ 1252 年頃下向~ 1256 年頃の義絶までの約 4 年間の間に、善鸞さんと関東教団の間にどのような確執があったのか。 善鸞さんが関東に入った当初は、関東教団の人々は、それはもう親鸞聖人の息子さんがわざわざ来られたということで、大歓迎をされたと思うのです。 そして一緒に邪義のあやまりについて教化活動を行っていたと推測されますが、一方、関東は元来から密教や造悪無礙、一念義を主張する余り破壊造悪の風潮が強い所で、親鸞さんでさえ説得するのが困難な場所だったのです。 そうすると、今まで親鸞さんから徹底的に教えられてきたこととは異なる教義になるわけで、関東教団は大いに混乱したことは間違いないでしょう。 この辺の教義に関する聖人と交わした書簡が沢山残っていることが、こうした混乱を物語っていますね。 しかし善鸞さんが語った秘事法門のことは聖人がはっきりと否定したので、善鸞さんの信用は低下してしまい、それで名誉挽回を図るべく善鸞が教団を幕府に告訴するという暴挙にでたとされています。 それで親鸞聖人は善鸞さんを義絶したことになっているようです。 善鸞さん 東北地方の布教に貢献 その後の善鸞さんはどうされていたのでしょうか。 ある学者の方は、「 最須敬重 絵詞 にも書いてあるが、熱烈な専修念仏者である。 ただやり方が違うだけで、父親鸞さんを忘れなかった。 外面を山伏や神子のように姿を変えたり、巫女(かんなぎ)の首領となったりしたのは、彼たちに教化しようとしたのだと。 善鸞さんのおかげで東北地方の真宗が広まったんだ」と、言っておられます。 そうすると、 「聖人よりたまわられけるの名号のいつも身をはなたれぬを頸にかけ、馬上にても他事なく念仏せられけり」(最須敬重 絵詞)の善鸞大徳の姿が、異端者としてでなく、あくまで父親鸞の思いを貫いて生きる仏法者としての姿に大きく見えてくるのです。 コメント数:• カテゴリ:• by 柿木房寂凉 親鸞聖人 84 歳の時、義絶状を書く さんが息子であるさんを本当に勘当(義絶)したのだという根拠となっているのが、親鸞さんから直弟子の性信房宛てと善鸞に出した書簡(消息)にそう書いてあるからです。 日付は両方とも 1256 年 5 月 29 日付となっています。 聖人 84 歳の時です。 高弟・性信と善鸞宛てに出す 性信房宛てには「・・・いまよりのちは、慈信をこの親鸞の子であるということを、思い諦めました(・・・慈信におきては子の儀おもひきりてさふらふなり)」とあり、また善鸞本人宛てでは「私もあなたを子と思うことは断念しました。 仏・法・僧の三宝にかけ、天地神明にかけてはっきりと断言します(・・・いまはおやといふことあるべからず、ことおもふこと、おもいきりたり、三宝神明にまふしきりおわりぬ)、とはっきり書いてます。 義絶状は聖人直筆のものはない 問題は、この書簡が本当に親鸞さんが書いたものなのか?ということになります。 これらが親鸞さんの直筆と認められる書簡であればはっきりするのですが、いずれもそうではなくて聖人逝去後に書き写されたもので、直筆はないということです。 性信房宛ては「(けつみゃくもんしゅう)」と命名された聖人の書簡集にあり、善鸞さん宛ては「拾遺御消息集(しゅういごしょうそくしゅう)」(真蹟書簡)という書簡集にあります。 性信房宛てが入っている血脈文集というのは、性信房が亡くなってから性信房が主導していた横曽根系門徒集団によって編集されたものというのが通説になっています。 善鸞宛て書簡は 49 年後に門弟・顕智が写筆 慈信房本人宛てのこの書簡は「慈信房義絶状」といわれており、聖人の門弟・(けんちぼう)(高田派第三祖)が、聖人が書簡を出された時から 49 年後に書写したものと記録されています。 書写のなかで、顕智房は義絶書簡が慈信房に届いたのは翌月の 6 月 27 日だったとも記しています。 書簡の真贋をめぐる議論 さて、この2つの消息集に入っている善鸞義絶に関わる書簡の真偽ですが、現在のところ全般的に「本当だった」というのが通説になっているようです。 書簡では義絶の理由として「実母であるを継母といって、あることないことを言いふらしている」「聖人から秘法を聖人から授かったと嘘をいって、同朋を混乱させた」「聖人の関東における 20 年間の教えは虚言だったと触れ回った」、ことが主な理由とされています。 しかし、この2つの書簡は親鸞さんが書いたものではなく、ねつ造されたもので、親鸞さんは善鸞慈信房を義絶したという証拠はないという見解も根強くあります。 書簡の内容を見ても義絶する理由としては無理があるとする論文もでています。 ですから、関東のらが、聖人が息子の善鸞を義絶したことにして、性信房が親鸞の教え「正信」の正当な継承者であることを主張した。 高田門徒の顕智房が書写した善鸞宛て書簡にしても、横曽根門徒と足並みをそろえて偽造したということになります。 私の推察としては、確かに親鸞さんは善鸞さんを義絶したのだが、親鸞さん亡き後、やっぱり師が義絶したという事実の証拠を残していたのでは、これからの親鸞さんの真宗を相承していく上で、まずいのではないかということで、各自が送ってこられた義絶状を破棄し、善鸞さんの義絶は公にしないと門弟間で合意した。 しかし顕智房は、そうはいっても何らかの形で残しておく必要があるのではないかと考え、書写したものと考えています。 いずれにしても親鸞さんの直筆の書簡がありませんので、これからもこの件についての論争は続いて行くのではないでしょうか。 では、実際、慈信房善鸞さんは関東で何をしていたのでしょうか。 大変気になります。 コメント数:• カテゴリ:• by 柿木房寂凉.

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