大正 時代 食事。 たった15年なのに激動の歴史、「大正時代」で置きたこと

現代ニッポン食の原点!大正時代の庶民の食事とは?レシピ紹介|終活ねっと

大正 時代 食事

大正時代の飲食店 明治時代にはオープンしていた 果物食堂フルーツパーラー。 当時フルーツは高級で、上流社会の人気のデザートでした。 のカフェをイメージし、明治時代、相次いで カフェーがオープンしました。 当時のカフェーは、女給さんがコーヒーや紅茶を運ぶ以外にも、お酒を席に着いて接客する様な形でした。 日本初のカフェーは「カフェー・プランタン」。 美術家や文学者の交際の場として作られました。 明治43年創業の不二家洋菓子店は、隣に喫茶店を新設して、洋風喫茶店を設立しました。 1922年(大正11年)に伊勢崎町、1923年(大正13年)にはにオープンします。 温めたミルクを出す ミルクホールも、学生達の間で人気を博しました。 都市部で広がった洋食文化 都市部では、中流階級を中心に 洋食文化が広まります。 明治時代からカレーライス、コロッケ、トンカツ、オムライスは既に存在していましたが、民衆化されたのは大正時代からです。 1918年(大正7年)、当時は「簡易食堂」と呼ばれた公設の食堂が、を初め、、本所、など、都内の数ヶ所に設置されました。 それから5年。 1923年(大正5年)には、人口200万人余りの東京で、合計3万件に近い飲食店が営業するに至りました。 その多くが手軽に食べられるカレーライス、トンカツ、コロッケなどの日本的洋食を提供していました。 このことが、日本的洋食の急速な大衆的普及を進めたのです。 (日本食品新素材研究会誌より) 当時はカレーライスのことを ライスカレー、トンカツのことを ポークカツレツ、オムライスのことを オムレツライス、ビーフステーキのことを ビフテキ、小麦粉の事を メリケン粉と呼んでいました。 大正時代の文化• 1912年(明治45年) 吉本興業創業• 1912年(大正元年) 映画製作、配給会社の日活設立• 1913年(大正2年) 宝塚少女歌劇団(現在の宝塚歌劇団)結成 竹久夢二は 大正ロマン を象徴する画家です。 夢二式美人画 によって世に広く知れ渡りました。 1914年(大正3年)、に夢二のデザインした書籍、雑誌、文具、小物を販売する港屋がオープンしました。 若い女性の間で大変な人気を博しました。 1915年(大正4年) 現在のシャープの創業者早川徳次が、 早川式操出鉛筆(いわゆるシャーペン)を発明し、特許を取得• 1920年(大正9年) 松竹キネマ設立• 1923年(大正12年) 9月1日11時58分32秒 マグニチュード7. 9の関東大震災発生.

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大正時代 1914年。 第一次世界大戦が勃発しました。 世界史上初の世界大戦で、戦車や毒ガスといった新兵器も登場し、900万人という大量の死傷者を出した戦争でした。 この戦争のきっかけは、バルカン半島でセルビアとオーストリアが対立したこと。 ドイツがオーストリア側につきロシア・フランス・イギリスがセルビア側についたことで世界を巻き込んだ戦争になりました。 日本はイギリスとの同盟を理由に参戦。 ドイツ領の青島を攻撃し勝利すると、中国政府に対して二十一か条の要求を突きつけ、中国における権益拡大を狙いました。 しかし、これにより中国人の反日感情が高まりました。 第一次世界大戦で現れた大金持ちと貧乏人 第一次世界大戦は権益の拡大とともに、経済にも大きな影響を与えました。 戦争中は連合国側から軍事物資の注文を大量に受け、ものが飛ぶように売れました。 こうして、成金と呼ばれる人達が増えますが、好景気によりモノの値段は上がり、貧富の差が広がったうえに、大戦が終わると不景気に陥りました。 第一次世界大戦のあと、国際的に発言権を増した日本ですが、1918年からのシベリア出兵では惨めな結果に終わりました。 ロシアでは革命が起きており、革命軍を抑えるために捕虜のチェコ人を使っていました。 このチェコ人を救出するという名目を得た日本は、権益拡大を狙ってロシアに出兵。 しかし、非正規軍の抵抗で大きな被害を出した上に、国際的に領土的野心を疑われてしまったのです。 また、国内ではシベリア出兵にともない米の価格が暴騰。 さらに米の価格が上がると考えた商社が米を買占めたため、どんどん値段が上がりました。 民衆は米を手に入れられなくなり、米問屋が襲撃されたり大手商社が焼打ちにあいました。 国際的に認められはじめた日本 1919年。 フランスのパリで連合国とドイツの平和会議に日本も参加。 国際連盟の委任により、赤道より北の旧ドイツ領南洋諸島の統治を認められました。 また、このとき日本は人種差別撤廃案を提出しますが、アメリカなどの大国の反対により棄却されてしまいました。 1920年。 世界で初めて国際平和機構として国際連盟ができ、日本、イギリス、フランス、イタリアなどが常任理事国に選ばれました。 こうして、日本でも世界でも国際協調の気運が高まりました。 普通選挙法の成立。 民主主義が広まる! 一方国内では、第一次世界大戦が始まるころから、民主主義や自由主義を訴える運動が広がっていました。 普通選挙制や海外派兵の停止、男女同権、労働者の権利保護が訴えられ、1925年に納税額に関係なく選挙に参加できる普通選挙法が成立しました。 また、当時、天皇も国家の中の一機関だという考え方が広まりはじめていました。 しかし、第一次世界大戦で軍部の力が強くなっていくと、「天皇が機関の一つなんて考えはケシカラン」という風潮を作られてしまいました。 こうして、のちの太平洋戦争が終わるまで天皇崇拝の考えが国民に定着しました。

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江戸時代の庶民の食事は贅沢だった「白飯、寿司、外食」

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大正時代の生活の特徴 (大正天皇 出典:Wikipedia) 大正天皇の在位期間である 1912年 7月 30日から 1926年 12月 25日までの約 15年間 を 【大正時代】と呼びます。 洋服を着て洋食を食べるなど、今では普通の生活様式がこの頃から行われるようになったのです。 また、『一般大衆』が中心となる 大衆文化が発展した時代でもありました。 この時代に起こった世界的な出来事、社会・思想の変化を通じて確認していきましょう。 これまでにない大規模な戦争であり、 新兵器の使用により被害は拡大、各国が女性や労働者、植民地の人々も含め 総力戦で臨む戦争となりました。 日本はこの戦争に 日英同盟を理由に参戦しますが、中国にあるドイツ領を占拠したにすぎませんでした。 農村でも 小作争議がおき、同時期には差別に苦しんできた 被差別部落の人々や アイヌ民族の解放運動も起こります。 当時は女性が上の学校に進めるのは稀であり、政治の話も女がするものではない!という風潮でした。 このように民衆の中で弱い立場にあった人々が多く立ち上がった時代でもあります。 これにより有権者は約4倍に増加し、政治に広く国民の意見が反映される道の第一歩が開かれました。 しかし、引き続き女性には選挙権がなく、また同年社会運動を取り締まる 治安維持法が制定されているので、飴とムチの法令だったのかもしれません。 これは世界的に見ても非常に高い水準ですが、さらに大正期になると 中等・高等教育の充実が図られます。 進学率も高まり、大学や専門学校も増えて多くの 知識人が増えました。 この教育の充実は大衆文化をささえる土台となりました。 新聞は発行部数 100万部を超え、週刊誌や月刊誌も発行されました。 1冊1円の 円本と呼ばれる文学全集や低価格の 岩波文庫などが出版され、文化の大衆化を促進していきました。 子供向けの雑誌も発行され、この頃ヨーロッパの童話等が一般に広まったのです。 のちに日本人初の ノーベル賞を受賞する物理学者の 湯川秀樹、黄熱病との戦いに人生を捧げた医学者の 野口英世、彼は現千円札の肖像にもなっていますね。 そして、カッパ伝説などの 「遠野物語」が有名な民俗学の 柳田国男も聞いたことがある人は多いでしょう。 また、文学のジャンルでは芥川賞の 芥川龍之介、 「羅生門」が知られています。 さらに 小林多喜二の 「蟹工船」などの作品は社会問題を取り上げたものとして、 プロレタリア文学と呼ばれました。 9の地震が起きました。 時刻が昼食準備時に重なり、また近くにきていた台風の影響で強風が吹いていたこともあり、都市部では 3日まで火災が続くなど壊滅的な被害を受けます。 また、震災時の混乱の中で多くの朝鮮人・中国人・社会主義者などが殺され、死者行方不明者10万人をこえた未曽有の災害となりました。 この震災からの復興により、景気は悪化し後の昭和不況へと繋がるのですが、この震災が都市改造の大きなきっかけとなり、東京や横浜は近代的な都市として生まれ変わっていくのです。 また、震災後の不安から人々の居住先が都市周辺になる ドーナツ化が進み、新宿などが副都心へと変わりました。 都市部では電気・ガス・水道の普及によって、欧米風の外観や電灯、浴室などが備わった 『文化住宅』が庶民の憧れとなりました。 また、明治期まで呉服屋だったところが次々に百貨店に姿をかえ、銀座はデパート街へと姿を変えていきます。 高い教育を受けた人々が民間企業に勤め、この頃から 「サラシーマン」が庶民の中心的存在になっていきます。 また、女性の社会進出によりバスガールや電話交換手等の 職業女性たちの制服であったり、高等女学校の制服に洋服が採用されたりすると、徐々に女性達にも洋服が広まります。 ワンピース姿の女性は モガ(モダンガール)と呼ばれたりしました。 洋食も広がり、『カフェ』や『レストラン』なども出来ました。 ライスカレー・トンカツ・コロッケなどが広く食されるようになり、現在も人気の森永やグリコのキャラメル、明治のミルクチョコレート、カルピスなどがこの頃発売されています。 また、 自動車がその存在感を見せ始め、タクシーなどが都市交通の重要な役割を担うようになっていったのです。 富裕層の中には自家用車を持つ人も出てきました。 1925(大正 14)年に東京・名古屋・大阪で始まった ラジオ放送は全国に普及していき、これまでの新聞にならぶ重要な情報源となっていきました。 このようなメディアの発達も、大衆文化の広がりに一役をかっていたのです。 また、 蓄音機やレコードが広まると、 歌謡曲が全国に流行するようになります。 今でいう CDと J-POPですね。 スポーツの世界でも 1915年に第一回全国中等学校野球大会が開催され、これが今の『高校野球』の始まりです。 ちなみに高校球児の夢舞台である甲子園球場は 1924年に完成しています。 一方で地方の農村や漁村などでは、これらの近代的な文化の恩恵を受けることはできず、都市部と地方とに大きな格差が生まれるのも、この時代の特徴となりました。

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