さいとう たつ おき。 斎藤龍興

風雲児織田信長はプレーボーイで側室も美女揃いだった!ホント?

さいとう たつ おき

戦国期の名のある大名は、後継者を残すこと(子作り)が大きな仕事でしたので、 信長は少ない方だ(笑)と言います。 吉乃(きつの)ー 嫡男信忠(のぶただ)・次男信勝(のぶかつ)・長女徳姫(とくひめ)の母 (生駒吉乃生家ー2018年4月4日投稿者撮影写真画像) 本名は、 生駒類(いこま るい)。 そこへ、父信秀の命でもあったのか、社会勉強と情報収集の為に吉法師(信長)が出入りをしていた訳です。 生駒の当主も当然親戚筋の織田弾正忠家の嫡子であることは重々承知の上で、類と信長の関係を容認したと思われます。 時期的には、信忠の生まれたのが、弘治3年(1557年)で、吉乃が出戻ったのが、弘治2年(1556年)とされています。 正室帰蝶の信長への輿入れは『 美濃國諸舊記(みのこくしょきゅうき)』によれば、天文18年(1549年)2月24日であり、父斎藤道三(さいとう どうさん)の敗死が弘治2年(1556年)4月20日で、帰蝶が父道三の肖像画(遺影)を岐阜常在寺に奉納したのが、永禄元年(1558年)頃とされ、以後 帰蝶の記録上の消息は忽然と消え去ります。 つまり、信長と吉乃の関係は、タイミング的には正室帰蝶が病床にあった前後である可能性も否定できないようです。 信長がやっと尾張統一に目処を付け始めた時で、 病死した?正室帰蝶に代り生駒吉乃を得て、信長が大きく戦国に羽ばたく時期となります。 吉乃は、永禄2年に徳姫を出産して以来、3年続きの出産がたたって病床に臥せっていて、永禄6年に竣工した小牧山城にて 永禄9年(1566年)5月13日に死去しています。 信長は翌永禄10年(1567年)に美濃稲葉山城を攻略して、美濃を征服し城を岐阜城を改称し、 吉乃の死を忘れ去るかのように、築城わずか4年あまりの小牧山城を破却して、『天下布武』実現に向かって岐阜城への移転を行ないます。 お鍋(なべ)の方 - 信高(のぶたか)・信吉(のぶよし)・お振(ふり)の母 お鍋の方は、織田信長の後半生を支えた女性と言われています。 現近江八幡市小田町の辺りの豪族高畠源兵衛を父に小田城に生まれ、本家小倉家の山上城主小倉賢治(こくら かたはる)の妻となっていました。 この時、東方に与する信長暗殺部隊も京都へ派遣されており、その魔手を逃れるために、 近江の八風街道の峠越えを当地の領主 小倉賢治の援護を得て無事に伊勢桑名へ抜け清洲へ帰着しました。 その美形の若後家『お鍋の方』はそのまま岐阜城へ留め置かれ、永禄11年(1568年)9月の上洛戦において、 六角氏を観音寺城から追い払い、無事『お鍋の方』の子息を救出し感謝した『お鍋の方』はそのまま信長の側室に収まります。 天正10年(1582年)6月2日の『 本能寺の変(明智光秀の乱)』の後、いち早く『お鍋の方』は岐阜城へ戻り、 信長の遺品をまとめて、岐阜崇福寺へ納め保護します。 その為、当然ながら織田信長の妻として秀吉から俸禄(所領)を付けられ厚遇されることとなります。 坂氏の女(ばんしのむすめ) - 三男信孝(のぶたか)の母 坂氏の女は、永禄元年(1557年)に叔父である熱田神宮神官の岡本太郎右衛門良勝(おかもと たろうえもんよしかつ)の屋敷で、 織田信長の三男となる信孝を出産します。 勿論岡本は信長から命を受けていたと思われます。 そもそも熱田神宮は、織田家の手厚い保護を受けており、多数の神兵を有し、大宮司家千秋家の千秋季忠(せんしゅう すえただ)なども、神官大宮司でありながら信長の家臣でもあり、後日の歴史的事件である『桶狭間の戦い』にも参戦し討死しているほどです。 岡本太郎右衛門良勝も、後年信孝が北伊勢の名族神戸具教(かんべ とものり)のところへ養子に入る時に、信孝に補佐として付けられ、信孝取次衆のひとりとなっています。 稲葉貞通の女(いなばさだみちのむすめ) これは、織田信長が稲葉山城攻略をした時、内応した 斎藤家重臣3名の内のひとり稲葉一鉄の孫娘です。 内応する時の人質にでも出したのでしょうか。 それに信長が手を付けた訳ですね。 困ったものですが、子供の有無に関しては伝わっていません。 しかし、信長には母不詳の子供が男4名、女6名もいますのでひょっとすると誰かの母なのかもしれませんね。 羽柴秀勝の母(養観院) 秀勝は、永禄11年(1568年)の信長上洛の年に生まれ、 四男『於継丸(おつぎまる)』と称されました。 信長がやっとの事で、稲葉山城をおとして美濃を手に入れたばかりの頃です。 どう考えてもこの女性は美濃国の関係者で、前述の稲葉一鉄の孫娘か、馬場殿のどちらかでしかないような気がします。 しかし、名流土岐一族につながる貴種の馬場殿を大事にして美濃勢に気を使う信長が、その間に出来た大事な息子を下賤の出の羽柴秀吉の処へ養子に出すでしょうか。 もし仮にどちらかだったとすると、ここはやはり、 秀勝は稲葉一鉄の孫娘の生んだ子どもとするのが妥当のような気がします。 時期的に云ってもそれは嵌りそうな話です。 馬場殿(ばばどの) 実は、彼女が側室であったと言う確証はないようですが、可能性が濃厚な女性です。 彼女は、信長が手こずっていた道三の息子斎藤義龍(さいとう よしたつ)の娘(斎藤道三の孫娘)です。 まむしの斎藤道三(さいとう どうさん)の孫ですから、おそらく 信長の最初の正室帰蝶(きちょうーまむしの娘)によく似た評判の美人だったと考えられます。 これには経緯が史料(永禄4年5月11日の義龍病死以降の記事)にあります、、、 其頃義龍の息女馬場殿とて、小牧源太が預り、山下の馬場殿におはしける。 容儀世に勝れける故、信長、妾にせばやとて、龍興に談ぜられける。 龍興申さるゝは、信長は、故道三の聟なれば、信長妻の爲には姪なれば、其妻死後に遺し難し。 況や妾などとは緩怠過ぎたる申分、當家は斎藤の家督とは雖も、種姓土岐の嫡流にて、天下の當家たり。 彼は今勢いに乘じて、其昔を忘れ、斯様の雑言申す條、返すゞも奇怪なり。 (引用:) 信長は、難敵斎藤義龍が病死したことを受けて早速、まだ稲葉山城が敵城にもかかわらず、 龍興に対して前領主斎藤義龍の遺児である娘をよこせと難くせをつけており、ここにはすでに重臣に渡りがついていることと、 信長が評判の美形である馬場殿に執心なようすが感じられます。 これで話は途切れたと言われていますが、その後織田信長は、永禄10年(1567年)8月15日に稲葉山城を斉藤龍興を降伏させる形で落城させており、 どう見てもその時馬場殿は信長の側室になったと考えられます。 生駒殿(いこまどの)ー 信長五女 永姫(えいひめ)の母 普通『生駒殿』とは、信長最愛の妻と言われる『吉乃(きつのー本名:類ーるい)』の事を指しますが、 この『生駒殿』はどうやら別人のようなのです。 前述しましたが、『吉乃』は3人目の子になる徳姫を永禄2年(1559年)に出産してから、産後の肥立ちが悪く、床に臥せった生活が続きます。 その後信長は永禄2年2月に上洛し、永禄3年(1560年)5月に一世一代の大勝負『桶狭間の戦い』を勝利に導くなど、多忙な毎日が続いており、生駒屋敷の『吉乃』のところへも足が遠のいていた様子です。 永禄6年(1563年)に小牧山城を落成させると、信長は正室扱いの『吉乃』に生駒屋敷(小折城)からの移転を求めます。 この時『吉乃』の兄の生駒八右衛門は、『吉乃』が簡単に動かせない病状であることを、小牧山城へ出向いて信長に謁見して説明したとあります。 つまり 信長は、徳姫出産以来、床に就く『吉乃』をほとんど見舞いにも行っていない状況だったことがわかります。 この間4年近く、他の側室(坂氏など)もいる訳ですが、とりわけ『吉乃』を気に入っている信長にしてはおかしなことです。 これは私見ですが、その間、子は成したとは言え、信長の相手が出来ない妹を見て、 生駒八右衛門が手を打って、縁者で吉乃(類)に似た少女を吉乃の代役に立てて、信長に世話したのではないでしょうか。 だからこそ、吉乃の小牧城への移動が難しいとの相談を八右衛門は信長に直談判の及んだのでしょう。 以後、この代役『生駒殿』本人は直接歴史の表面には出て来ませんが、 信長との間に出来た五女『永姫(えいひめ)』が、後年大身大名となった前田利家の家へ嫁ぐことによって、彼女は『永姫の母(生駒殿)』として歴史に記録を残すこととなりました。 信忠の乳母 - 三の丸殿(さんのまるどの)の母 信長家臣滝川一益の一族で、信長の嫡男信忠の乳母だったと言われています。 三の丸殿は信長が安土城へ移った天正4年(1576年)以降に生まれたもので、『本能寺の変』当時、4~5歳だったと考えられます。 安土城から安土の留守を預かる蒲生賢秀の差配で日野城へ避難し、秀吉の勝利後一旦日野城を退出しますが、後日また蒲生氏に身を寄せ、そのまま三の丸殿は蒲生氏郷の下で養育されました。 後年、伏見城へ隠居した太閤秀吉は、蒲生家からこの織田信長の遺児である姫を召し出して、側室として伏見城三の丸に囲い、以後彼女は『 三の丸殿』と呼ばれることになります。 信忠の乳母であった母は、信長の後継争いで反秀吉側に付いた実家の滝川一族が破れて行く騒乱の最中、失意の中で死去したものと考えられます。 土方勝久(ひじかた かつひさ)の女(むすめ) - 九男信貞(のぶさだ)の母 土方勝久は信長の家来でしたが、永禄12年(1569年)10月、信長が次男信雄(のぶかつ)を北伊勢北畠氏へ養子に入れた折、補佐する付侍となり信雄の近臣となりました。 天正4年(1576年)11月25日の北畠一族粛清の折、活躍しその功で信長より領地を拝領したとされています。 織田信長は、その娘を側室にして、9男信貞を得ています。 この時期には、 朝廷( 正親町帝)と信長の厳しい政治的駆け引き・綱引きが、翌天正10年(1582年)6月2日の『 本能寺の変(明智光秀の乱)』まで続きますので、時期的には十分可能性のある話だと考えられます。 この姫君との間に子を成したかどうかわかりませんが、その翌年に信長が本能寺で横死していますので、一切不明となっています。 お駒 - 実は信長の最初の子である『乙殿(おつどの)』の母 信長にはすでに正室『帰蝶』がいた頃(天文18年以降)に、信長付きの侍女だった『中條(ちゅうじょうーお駒)』に手が付き、妊娠したお駒は信長の傅役の平手政秀(ひらて まさひで)により、 信長配下にいた埴原常安(はいばら つねやす)の妻として『 乙殿』を出産したと言います。 永禄10年(1567年)11月に信長より埴原常安に20貫文(この当時は200~300万円程度)の知行地が与えられていますが、これは時期から見ると『乙殿』の元服料かもしれません。 その後、常安は尾張在住の吏僚として活躍し、『本能寺の変』後は、次男信雄に仕え500貫文(この当時は5000~8000万円程度)を知行します。 しかし 『乙殿』には成人後の記録もなく、早世した可能性があると思われます。 塙直政(ばん なおまさ)の妹(直子ーなおこ) 塙直正は、織田信長の直属の親衛隊(赤母衣衆ーあかほろしゅう)に属していました。 平手政秀によって『中條』が取り上げられたため、すぐに直子に手を出したと考えられ、直子は天文23年(1554年)5月5日に那古野城で男子(於勝丸ー信正)を生んでいます。 兄の 塙直正は妹が側室になったこともあり、信長に引き立てられ、その後大活躍をして侍大将で方面軍司令官へと大出世を遂げましたが、 天正4年(1576年)大坂の本願寺戦の最中、今の大阪難波三津寺筋辺りで討死しました。 スポンサーリンク 織田信長と側室吉乃(きつの)は、どこで知り合ったの? 前述していますが、吉乃の実家である 生駒家屋敷(小折城)での事です。 おそらく、信長が生駒屋敷に勝手に出入りを始めたのは、馬に乗れるようになって遠出することが出来るようになってから、、、10歳くらいではないかと推察します。 昔から出入りする織田の若君信長のことは生駒の娘類(るいー吉乃)も見知っていたようです。 しかし、信長が類のことを意識するのは、 夫の 土田弥平治(どた やへいじ)が討死したことによって後家となり、実家である生駒屋敷に出戻っていた時だと言います。 この生駒の後家殿、土田弥平治討死候いてより、雲球屋敷に罷り候ところ、上総介様、雲球屋敷へ御遊行、目を懸けなされ殊のほか御執心の揚句、上総介様の御たねを宿し罷り候なり。 (引用:吉田蒼生雄全訳『前野家文書 武功夜話吉法師様という信長公と成る事の条』1995年 新人物往来社) とあります。 雲球屋敷と言うのは、生駒八右衛門の屋敷ー小折城のことです。 生駒吉乃は織田信長の正室なの? 定説では、、、 織田信長の正室は生涯、美濃斎藤道三の息女『 帰蝶(きちょう)』ひとりだったと言われています。 森蘭丸(乱丸)も武辺の家柄でいかつい体格をしていた可能性が高く、どうも前田犬千代(としいえ)と同じ作り話ではないでしょうか。 そして、弘治2年(1556年)4月20日に、父道三が息子の義龍に殺されて以降は、父の肖像画を寺に寄贈したと言う記事から 帰蝶の消息が途絶えます。 夫婦仲が冷めているだけでは、あれだけ派手に活躍する織田信長の正室の消息が途絶えることはあり得ないことから、 帰蝶の離縁説・死亡説が出ている訳です。 実際はどうでしょうか。。。 無理強いするならあなたの妻兄弟が自害しますぞと脅したことが載っています。 これだけ、 美濃衆・斎藤一族に睨みの利くのは、信長の正室帰蝶が生存している可能性があるのではないか?とされている記録です。 ところが、、、前述した『馬場殿』の記事に、、、 其頃義龍の息女馬場殿とて、小牧源太が預り、山下の馬場殿におはしける。 容儀世に勝れける故、信長、妾にせばやとて、龍興に談ぜられける。 龍興申さるゝは、信長は、故道三の聟なれば、信長妻の爲には姪なれば、其妻死後に遺し難し。 況や妾などとは緩怠過ぎたる申分、當家は斎藤の家督とは雖も、種姓土岐の嫡流にて、天下の當家たり。 彼は今勢いに乘じて、其昔を忘れ、斯様の雑言申す條、返すゞも奇怪なり。 況や妾などとは、緩怠過ぎたる申分。 吉乃の死後、織田信長の愛妾はだれ? 『吉乃』の死後となると岐阜時代からとなるのかもしれませんが、前述の項目から考えると、、、 吉乃が病床に就いてから小牧城時代• 『 馬場殿(ばばどの)』 ー不明• 『 稲葉貞通(いなば さだみち) の女』 ー不明 大体こうなりそうです。 薄汚い格好で出入りしていた以外考えられません。 これが、前述した『 お駒(おこま)』です。 とすると、 14~15歳くらいですね。 当時としては普通だったのかもしれませんね。 まとめ 戦国の天下取り(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)の内、秀吉、家康に比べて 信長の女性関係は、正室の『 濃姫(帰蝶)』以外にあまり話題に上っていませんでした。 ところが、歴史作家の 津本陽氏の『下天は夢か』が1986年12月から日本経済新聞に連載されて、織田信長の女性関係が一気に有名になりました。 織田信長を取り巻く女性たちを、世の中の一般人に見える形で出したのが、津本氏の小説なのでした。 私も当時日経新聞に連載される織田信長の姿が、通説で認識していたものと相当違い、知らない女性たちが次々登場するのを驚きの目で読んだ覚えがあります。 ともあれ、ベールに閉ざされていた謹厳実直・冷血漢であると通説で考えられていた、 天下人織田信長を支えた女性たちが現れました。 なんと織田信長の子供は、判明しているだけで13人の息子と10人の姫もいると言うではありませんか。 そして、そ の中で母の名前が判明していない織田信長の子供たちは10名ほどもいるのです。 本当に子供がいないとわかっているのは、正室の『濃姫(奇蝶)』だけです。 記事に記述した側室たちだけでも2人は子供に関する事がわかっていません。 武家は合戦に負けて当主が討死すると、その一家の子女は離散するのが運命(さだめ)のようです。 10代の頃信長は、、、 『かぶき者』などと言われ、飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信秀の二枚目の跡取り息子とあっては、街場での若い女子の評判はそのカッコよさでかなり高かったのではないかと思います。 しかし、街場の娘出身の側室は一人もいません。 武家が街場の女性など相手にしないと思うかもしれませんが、この信長の祖父は町衆を押える為に、町の有力者のところへ自分の娘を嫁に出しています。 今思うほど、当時の武家と町衆の垣根は高くなかったと考えられます。 この身分制度の垣根を分厚くしたのは徳川家康が作った江戸時代です。 つまり、 これだけモテ男の信長であれば、生駒屋敷のようなことが、織田弾正忠家支配下の津島でも熱田でもあっておかしくないのですが、記録にないのです。 信長は、世間から『大うつけ者』などと呼ばれる若年者だったにも拘わらず、実際はかなり倫理観のしっかりしたまともな若武者であったことが分かります。 おそらく、最初の妻、正室帰蝶に対する思いはかなりのものであったのではないでしょうか。 そして、 織田信長の人生において、正室・御台所とまわりから呼ばれた女性は、、、• 帰蝶(きちょう) -那古野城・清須城• 吉乃(きつの) -小牧山城• 馬場殿(ばばどの) -岐阜城• お鍋の方(おなべのかた)ー安土城 だったのではないかと考えられます。 間違いないことは、 正室・側室ともに当時評判の絶世の美女ばかりであったことです。

次の

斎藤龍興 (斎藤竜興)~美濃・斎藤家を継ぐもその運命は?

さいとう たつ おき

1521年 美濃(みの 岐阜県)の守護(しゅご)の土岐氏(ときし)の老臣の長井長弘 (ながいながひろ)の家臣となる。 1530年 自分を取り立ててくれた長井利安(ながいとしやす)を殺し、長井家を乗っ取る。 長井新九郎規秀(ながいしんくろうのりひで)と名のる。 1538年 主君の土岐頼芸(ときよりなり)に取り入って、守護代(しゅごだい)の斎藤家 (さいとうけ)を乗っ取り、後をつぐ。 斎藤山城守秀竜(さいとうやましろのかみひでたつ)を名のる。 この時、斎藤道三を名のる。 1544年 尾張(おわり 愛知県)の織田信秀(おだのぶひで)と越前(えちぜん 福井県)の 朝倉氏(あさくらし)の連合軍に攻められる。 1548年 斎藤道三の娘の濃姫(のうひめ)を織田信秀の息子の織田信長(おだなぶなが)と 結婚させる。 1553年 斎藤道三がとはじめて会う。 斎藤道三は、うつけ者(大バカ者)と呼ばれていた織田信長 (おだのぶなが)に会い、「残念ながら、このうつけ者に、将来、 私の子どもたちは、ほろぼされるであろう。 」と早くも織田信長の 才能を見ぬき、将来を見通したという。 斎藤道三の息子の斎藤義竜(さいとうよしたつ)と仲が悪い。 西村家、長井家、斎藤家、そして主君の土岐家(ときけ)。 下剋上(げこくじょう)の戦国時代では、それが当たり前であり、斎藤道三はそれを実行したまでであるとも言える。 ただ、そのやり方の汚さ(きたなさ)から、斎藤道三は、 「美濃(みの)のまむし」と呼ばれることになる。 だが、皮肉にも、斎藤道三は自分の身にも下剋上(げこくじょう)がおこることになる。 よりによって、息子の斎藤義竜(さいとうよしたつ)によって討たれるのである。 自分が今までしてきたことが、身にふり返ってきたとも言えるかもしれない。 運命とは本当に皮肉である。

次の

斎藤義龍(さいとうよしたつ)とは?どんな人?

さいとう たつ おき

斎藤竜興 さいとう-たつおき は、 の1548年生まれで、幼名は喜太郎。 父は美濃の 主・ の子 で、母は浅井亮政の娘・近江局 近江の方 と言うのが有力 の姉とも叔母とも? で、だが、従来は庶子の子とする説が主流だった。 斎藤道三を殺害した父・斎藤義龍が、1561年5月11日に急死 享年35 すると、14歳の斎藤龍興があとを継いだ。 1560年に を で破った は、2日後の5月13日には美濃へ出陣し、5月14日には森部の戦いとなった。 重臣・長井利房 長井衛安、長井甲斐守 、日比野清実 日比野下野守 、神戸将監らが討死し、 が織田勢に奪われたが、5月23日には反撃し、 の十面埋伏の陣で を破るなどして、 主・織田信清の弟を討ち取るなどし、稲葉山城に織田勢を寄せ付けなかった。 織田勢の犬山城主・織田信清が、斎藤龍興に寝返るなど好転もあったが、一癖も二癖もある美濃の国人衆を、若年の斎藤龍興が束ねられる訳もなく、知略ある竹中半兵衛 竹中重治 を重用せず、評判の悪い斎藤飛騨守の重用するなど家臣の信頼を得られず、 ・ ・堀秀重・ ・ らが離反。 1562年には、有力家臣であった 主・ も病没した。 それでも、斎藤龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず、一部の側近だけを重用した為、美濃三人衆や竹中重治らに愛想を尽かされ、1564年2月、竹中半兵衛と弟・ や、舅・ らが斎藤龍興の居城・稲葉山城 後の をわずか16人 17人説も で乗っ取っり、斎藤飛騨守を殺害する事件が起こる。 驚いた斎藤龍興は鵜飼山城、さらに祐向山城に逃走。 織田信長は竹中半兵衛 竹中重治 の稲葉山城奪取を知ると、美濃半分を与えると言い、稲葉山城を引き渡すよう要求した。 しかし、竹中半兵衛はあくまでも主君に目を覚ましてもらうための行動だとして、8月には稲葉山城を斎藤龍興に返還した。 その間、織田信長は、近江国の浅井長政に を娶らせ同盟を結び、 の混乱に乗じて、寝返っていた犬山城主・織田信清を攻めて陥落させ、ついに織田信長は尾張を統一。 その後、斎藤家は衰退の一途を辿り、市橋氏・丸毛氏・高木氏などが織田氏に通じた他、1565年には、 の調略で加治田城主・ 佐藤紀伊守 が織田家に寝返り、加治田城を攻撃してきた堂洞城主・ を討ち、同じく織田家に寝返った斎藤利治により関城主・ も敗れて敗走し、宇留摩城主・大沢基康も織田家に降ると、いよいよ斎藤龍興は織田信長に追い込まれる。 の仲介で一旦和睦するも斎藤龍興は破棄して、美濃河野島で織田信長勢を1566年閏8月8日急襲したがこれが最後の勝利となった。 1566年9月、当時、足軽頭になっていた が川並衆の や前野長康らの協力を得て墨俣に築城することに成功。 1567年8月1日、ついに西美濃三人衆の や 、安藤守就らが織田信長に内応を約束すると、すぐに織田信長は稲葉山城攻めを開始して9月に包囲。 この時、織田信長勢は、斎藤家臣の旗印を立てるなどして背後に廻り込むなどし、討って出ていた斎藤龍興が「これは敵か味方か?」と戸惑っているうちに挟み撃ちされ、斎藤龍興 20歳 は を船で下り、北伊勢の長島へと逃走すると、遂に稲葉山城は織田信長 33歳 によって陥落した。 斎藤龍興は、 に長井道利と共に協力し、織田信長に対して抵抗活動を続けたが、1569年、伊勢から畿内へ移ると三好三人衆 三好長逸、 、岩成友通 と結託し、織田信長が擁立した室町幕府第15代将軍・足利義昭を襲撃するも敗退している 本圀寺の変、六条合戦。 1570年8月には、三好康長・安宅信康・ や 法主・ らとともに三好三人衆の籠城を支援 ・福島城の戦い した。 斎藤龍興は伊勢長島や三好三人衆の元へと身を寄せるうち、キリスト教に興味を持ち、 からキリスト教の宗儀・世界の創造などについて非常に興味を示している。 ルイス・フロイスは著書「日本史」において、斎藤龍興の事を「非常に有能で思慮深い」と記載している。 カテゴリー• 126• 762• 111• 108• 128• 115• 113• 208• 162• 156 いつもご高覧賜りまして、深く御礼申し上げます。 各ページのリンク・紹介は自由で報告も不要です。 当サイトに掲載されている写真・画像、その他商品名・番組名などは、各社の商標・登録商標・著作物です。 記載内容は可能な限り事実に基づき、公平になるよう配慮致しておりますが、史料自体の問題などもあり、中には誤認もあるかと存じます。 ご指摘賜れば、再調査の上、必要に応じて修正・加筆など行いますので、誤字・脱字のご指摘と合わせて、コメント欄よりご一報賜りますと幸いです。 残念ながら当方の承諾を得ていない、記事の流用や成りすましサイト・動画などが見受けられ弁護士と対処を検討中です。 他サイトご利用の際にはご留意願います。

次の