冬戦争。 冬戦争

フィンランドは冬戦争でどうやって戦車を捕獲

冬戦争

冬戦争 要求を拒否されたソ連は、1939年11月30日に宣戦布告なしでフィンランドに侵攻を開始した。 「冬戦争」の始まりである。 フィンランド軍はマンネルヘイム将軍指揮の下、気温マイナス40度の中塹壕に籠もって抵抗した。 地形を最大限に利用し、白い服を着たスキー部隊による火炎瓶攻撃でソ連軍を破り、ソ連軍の犠牲者は二万人に上った。 フィンランド軍は十倍の兵力のソ連軍に対し、「マンネルヘイム線」で2か月間持ちこたえた。 さらにイギリスとフランスが援軍を送り込もうとしたため、ソ連は講和に応じることになった。 こうして1940年3月13日にモスクワ講和条約が結ばれたが、カレリア地峡、フィンランド湾東側諸島の割譲、ハンコ岬のソ連への30年間の貸与が定められた。 カレリアのフィンランド人42万人は引っ越しを余儀なくされた。 さらにソ連は北欧軍事同盟の禁止、ハンコ岬への鉄道移動の許可を要求した。 この頃、バルト三国はソ連に組み込まれていた。 窮地に陥ったフィンランドに助け船を出したのは、ドイツだった。 継続戦争 1941年6月22日、ドイツ軍がソ連に侵攻を開始した。 フィンランド軍は五十万の兵力でドイツ軍とともにソ連に攻め込んだ。 フィンランド軍はラドガ湖北部に攻め込み、ドイツ軍はレニングラードへ向かった。 ドイツはフィンランドが戦線に加わったと発表し、レニングラード包囲に加わるよう要求した。 しかしフィンランドは中立の維持と自衛戦争であることを強調し、レニングラードには進軍しなかった。 それでもフィンランドの行動は国際社会で好意的に見られることはなかった。 かつてフィンランドを支援したイギリスは、今度はフィンランドに宣戦布告した。 しかしイギリスは実際には何も行動を起こさなかった。 フィンランドは当初ソ連からの和平提案を拒否していたが、スターリングラードでドイツ軍が大敗したため単独講和の道を探るようになった。 しかしフィンランドは食料をドイツに依存していたため、ドイツの反対で交渉は進まなかった。 単独講和へ 1944年6月に連合軍がノルマンディーに上陸すると、ソ連軍の反攻が始まった。 フィンランド軍は戦線を突破され、カレリア地方を失った。 今度はソ連が強気になった。 フィンランド全土を占領するか、フィンランドが無条件降伏するまで戦争をやめる気はなかった。 ドイツはフィンランド支援と引き替えに、同盟の締結を迫ってきた。 フィンランドはドイツの了解なしに単独講和を結ばないことを条件に、ドイツから急降下爆撃機と対戦車兵器を得た。 フィンランド軍はこれらの兵器を使ってソ連軍の攻撃を食い止めることに成功した。 1944年9月、リュティ大統領に代わってマンネルヘイムが大統領となった。 マンネルヘイムはドイツとの約束を破り、ソ連の厳しい条件を受け入れて休戦条約に調印した。 ドイツ軍は報復にフィンランドの街を破壊して帰っていった。 戦後、リュティ元大統領には禁固十年の判決が下った。 彼は実際には四年で釈放された。 マンネルヘイムはフィンランドを守った最大の英雄として称えられている。

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冬戦争

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是非、前記事からのお読みください。 敵の敵は味方 1つ目の試練、そして戦争だった「冬戦争」後も、フィンランドに対し恫喝を続けるソ連は、北欧の小国にとって、脅威であり続けましたが、ここにきて「敵の敵は味方」であるドイツ軍の接近はフィンランドにとっては渡りに船でした。 一方ドイツの思惑は、ソ連攻撃に備え、ソ連北方に隣接するフィンランドからソ連領に攻めたいという思惑もあったとされています。 特にドイツが注目したのは、ムルマンスク港というソ連にとって数少ない不凍港があることでした。 ドイツ軍は、ソ連侵攻作戦「バルバロッサ」と同時に、フィンランド領から、このムルマンスク港、そして港に繋がる、鉄道「ムルマンスク鉄道」を遮断する作戦を立案します。 これがドイツ名「銀狐作戦」です。 銀狐作戦は前記のように、ムルマンスク港を直接狙う「白金狐」作戦、そしてムルマンスク鉄道を遮断する「北極狐」作戦という二段構えの作戦でした。 また、ドイツのもう一つの関心は、フィンランド北方地域にある「ペツァモ」と呼ばれる地域に、ニッケル鉱山があったとされ、ヒトラーはここを抑えたいという思惑もありました。 ニッケルは、現在でもステンレスの原料となりますが、当時ドイツの軍需メーカー「クルップ」(現在のティッセン・クルップ社)が開発した強靭な装甲板「KC鋼板」(クルップ・セメンテッド)の原料となり、またドイツ戦車隊の代名詞となったティーガーシリーズ、パンターシリーズなどの「アニマルシリーズ」が生まれ、戦線で猛威を振るったこの猛獣の防御力の高い装甲版には、このニッケルは必要なものでした。 ドイツ戦車は強力な攻撃力、強靭な防御力、そして乗員の生存性の高い戦車として、今なお世界中の多くのファンを魅了しており、最近ではアニメ「ガールズ&パンツァー」に登場したことにより新たなファン層も生んでいます。 バルバロッサ作戦とフィンランドの失地回復の為の軍事行動 一方、フィンランドは、ドイツ軍のフィンランド国内の駐留を認め、冬戦争で失った失地回復を目指し、動員を始めます。 ドイツのソ連侵攻作戦「バルバロッサ」が発動した時、当初フィンランドは中立を宣言していましたが、フィンランド国内に駐留するドイツ軍の存在は、ソ連にも知られており、この事実により、首都ヘルシンキなど都市へ、ソ連軍は爆撃を行います。 この爆撃によって、北の小国は赤い大国への宣戦布告を決定します。 しかし、この宣戦布告は、あくまで冬戦争において失った領土を取り戻すための戦いであり、ソ連への侵略が目的ではないと各国にアピールし、フィンランドはこの戦いを、冬戦争の延長線上にある「継続戦争」と名付けています。 最初に行動を開始したのは、ドイツ軍ディートル将軍率いる、ドイツ2個山岳師団で、ペツァモからムルマンスクを目指し、行動を開始しましたが、冬戦争のソ連軍と同様、フィンランドの深い森林地帯は、経験を積んだ山岳兵でも危険な地域で、それを乗り越えソ連軍を攻撃するも、幾度も撃退されてしまいます。 結果的には、ドイツ、ディートル山岳軍の、ムルマンスク攻略は失敗に終わります。 しかし、ドイツのもう一つの目的である、ペツァモのニッケル鉱山の確保という目的を果たすため、フィンランド最後の戦いである「ラップランド戦争」が起きる1944年9月まで、ドイツ山岳軍はこの地域に張り付けにされます。 一方その南部では、ドイツ第36軍団と、フィンランド第6師団が、フィンランドに派遣されたドイツ戦車隊と主に、ムルマンスク鉄道遮断に向け行動を起こしますが、この方面のドイツ軍も進撃スピードが非常に鈍い状態でした。 これは、ディートル将軍の部隊と同じように、フィンランドの地形に不慣れなドイツ兵が原因でした。 例えば、戦区に布陣していた武装SS戦闘団「ノルト」は、フィンランドに派遣されるまでほとんど戦闘経験が無い部隊でした。 結果、敵の攻撃を受けるとすぐに撤退してしまうという事象も起こしています。 一方ドイツ軍と共同で行動したフィンランド軍は、ソ連軍と兵力差があるものの奮闘し、ソ連軍にプレッシャーをかけ続けますが、結果的には、ムルマンスク攻略、鉄道遮断というフィンランドでのドイツ軍の軍事作戦の全般は、ほぼ失敗に終わります。 また、この作戦では2つのドイツ戦車隊が、フィンランドに派遣され、盟友フィンランド軍と共に戦っています。 一つが特別編成第40戦車大隊で、装備の内容は、1号、2号、3号戦車でしたが、非常に珍しいケースでの戦車隊ともいえるのがもう一つの戦車隊である、第211戦車大隊でした。 この戦車隊は何とその装備の全てがフランス製の戦車という非常にレアケースな戦車隊でした。 この部隊の使用した戦車は、ドイツが西方電撃戦でフランスを破った際に、大量に手に入れたフランス軍の装備でありました。 その内容は、オチキス戦車、ソミュアS35戦車だったとされています。 ちなみにこのソミュア戦車ですが、ガルパンの最終章1話において「BC自由学園」で使用され、その雄姿を見ることができます。 wikipedia. カレリア地峡は、西にフィンランド湾、東にラドガ湖、その先にはレニングラード(現サンクトペテルブルク)があるという戦略上非常に需要な地域でした。 フィンランドにとって、カレリア地峡は冬戦争終結に伴い、講和で奪われた失地であり、この失地回復はフィンランドにとって、この戦争の目的でもありました。 かくして、フィンランド2個軍は、カレリア地峡を取り戻すべく、7月10日、進撃を開始。 対して、この地域に展開していたソ連軍が、フィンランド軍と比べ小さく、またドイツの「バルバロッサ作戦」の混乱の中、フィンランド軍の攻勢に対しなすすべもない状態でした。 フィンランド軍は一週間で100㎞を進撃するという快挙を成し遂げます。 結果、冬戦争で奪われた地域を奪い返したフィンランド軍は、目的を達成した後、進撃を停止します。 しかし、バルバロッサ作戦中のドイツ軍は、レニングラード方面で行動中のドイツ北方軍集団と、カレリア地峡に展開するフィンランド軍を連絡させようと、マンネルハイム将軍に更なる進撃を要請。 ドイツ軍の要請に屈したフィンランドは、その先のソ連領地に進撃。 その結果、ドイツ軍が失敗したムルマンスク鉄道の遮断に成功。 この行動により、イギリスがフィンランドに対し宣戦布告します。 ですがその後、再三のドイツ軍の要請をかわしながら、フィンランドは戦線拡大と更なる進撃を行わず、外交によって戦争離脱を模索することになります。 2度目の奇跡 継続戦争最終局面 戦線不拡大を続け、防衛体制に移ったフィンランドは、ソ連軍の散発する攻勢を防衛しながら戦争離脱のために、アメリカを通してソ連と講和を続けます。 当初ソ連が、バルバロッサ作戦でドイツに負け続けている時期には、なんとソ連側が領土の割譲まで提案していた交渉も、1942年になって、ドイツ軍の勢いに陰りが見え、1943年にドイツ軍が押されつつある状況になると、ソ連側がフィンランドに対し横暴な要求を突きつけるまでになります。 このまま戦争を続けてもフィンランドに勝ち目がなく、しかし、フィンランド国内にはドイツ軍が駐留しており、ドイツ軍に蹂躙されるか、ソ連軍に侵攻されるかという状態でした。 どちらにせよ、ソ連の横暴な要求にフィンランド側も拒否するしかない状態でした。 そして、1944年6月、ソ連軍は再び大軍をフィンランドに差し向けました。 ソ連軍の兵力は50万、戦車、自走砲800両、航空機1500機、火砲約1万。 フィンランド全面で攻勢を開始したソ連軍は、ドイツ軍との死闘で鍛え上げられ、戦車等の兵器も恐竜並みに進化し、継続戦争最終局面では、T-34-85、ISU-152など、強大な攻撃力を持つ兵器が投入されておりました。 これに対し、マンネルハイム将軍率いるフィンランド軍は、相次いで戦線から撤退。 1941年に得た領地の大部分はわずか6週間で失う事になります。 フィンランド軍は、ソ連軍攻勢に対し、フィンランドの主要地域に直結するカレリア地峡防衛に全力を挙げます。 これと同時に、フィンランドのリュティ大統領は、ドイツに支援を要請。 ドイツ側はフィンランド単独で講和をしない条件で、3号突撃砲、対戦車兵器パンツァーファウスト9000基、パンツァーシュレック5000基を支援として供与します。 また、303突撃砲旅団や第122歩兵師団などドイツ軍部隊の援軍も到着します。 しかし、これによって、かろうじて友好関係を保っていたアメリカが激怒し、アメリカ外交団が帰国してしまいます。 ここで戦争離脱の機会は失う事になります。 そして、決戦となった、タリ=イハンタラの戦いで、鹵獲したT-34戦車や、ドイツから供与された3号突撃砲、パンツァーファウストを装備した歩兵で待ち伏せ、ソ連軍と死闘を繰り広げ、そしてついにソ連軍の攻勢を阻止します。 (同じくツアーで撮った、パンツァーシュレック!これらのドイツから供与された対戦車兵器がフィンランドを救ったとされています) このタイミングでフィンランドは、マンネルハイム将軍を大統領に添え、ソ連へ和平を申し出ます。 ソ連側は、冬戦争で得た領地の再割譲、ペツァモ地域と北極海への回廊の全ての割譲、多額の賠償金、また自力でのフィンランド国内に駐留するドイツ軍の排除が要求され、フィンランドはこれを呑むことになります。 これにより、フィンランドはドイツとの関係を断絶、ソ連との休戦が締結されます。 なお、単独での講和をしないという条件にドイツからの支援を供与されたフィンランドですが、その結末は、このドイツとの約束事は「当時のリュティ大統領の「一個人」の書簡に基づくもの」として諸外国にアピールし、リュティ元大統領を「ナチスと手を組んだ売国奴」として指定することによって、一連の講和、ドイツからの支援という事実を、諸外国へアピールしています。 フィンランド最後の戦い「ラップラント戦争」 こうして自力で国内に展開するドイツ軍を排除することになったフィンランドでしたが、ラップラント(フィンランド北部地域の総称)には、ドイツ第20山岳軍の約22万が駐留していました。 この部隊は、この地域にあるペツァモのニッケル鉱山の確保という目的ために駐留していたとされていますが、フィンランドとソ連の休戦に伴い、同山岳軍は、9月にフィンランド撤退作戦「ビルケ」を開始。 すでにノルウェーへの撤退を開始していました。 しかし、このような大軍がすぐに撤退できるはずもなく、フィンランド、ドイツと共に関係は友好であったものの、昨日の友に銃を向けることになってしまったフィンランド軍は、ドイツと互いに「やらせ」の戦闘を行い、無傷でドイツにノルウェーへの撤退を促しました。 しかし、ソ連がいち早く察知して、フィンランドへ本気で攻撃するように要請。 フィンランドも本気にならなければならなくなり、ドイツ軍の退路を断つべく、バルチック海岸の港町、トルニオに上陸作戦を開始し、ドイツ軍に打撃を与えました。 これに対し、ドイツ軍は、撤退途中の町を次々に破壊し「焦土作戦」を実施し、またロヴァニエミという町では、街中でドイツ軍の弾薬を積んだ列車が、街中で爆発し、街を廃墟と化させました。 フィンランドはこれら一連の戦闘を「ラップラント戦争」と呼びました。 そして、1945年4月にようやく、ドイツ軍はノルウェーへ撤退が完了しています。 「レアメタルの」の太平洋戦争 藤井非三四 (学研パブシッシング)• MCあくしずVol27 枢軸の絆;フィンランド:奇跡は2度起こる後編 文:内田弘樹 イラスト:EXCEL• 月間パンツァー 2015年1月号「継続戦争1941年~1945年」(アルゴノート社)• フィンランドのドイツ戦車隊 カリ・クーセラ著 斉木伸生訳(大日本絵画) 文章;金剛たけし•

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第二次世界大戦とフィンランド

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この記事にはやの一覧が含まれていますが、 による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 適切な位置に脚注を追加して、記事のにご協力ください。 ( 2018年9月) 冬戦争 タイペレでマキシム機関銃を構えるフィンランド軍兵士 フィンランド軍司令部写真センター 戦争:第二次世界大戦 年月日: - 1940年 場所:東部 結果:ソビエト連邦側の勝利、 フィンランドの領土喪失により翌年開始 ソビエト連邦の国際連盟除名 交戦勢力 指導者・指揮官 戦力 歩兵 250,000 戦車 30 航空機 130 歩兵 1,000,000 戦車 6,541 航空機 3,800 損害 戦死 24,923 戦傷 43,557 捕虜 1,000 航空機 62 戦死・行方不明 126,875 戦傷 264,908 捕虜 5,600 航空機 1,000以上 戦車 2,268• 概要 [ ] 1939年8月23日のの秘密議定書によって、独ソによる東欧の勢力圏分割が約束された後、ソ連はバルト三国とフィンランドへの圧力を強め、バルト三国とは軍事基地の設置とソ連軍駐留を含む相互援助条約を結ばせた。 フィンランドにも同様に、国境線の変更や軍事基地設置とソ連軍駐留を含む要求を行ったが、フィンランド側は応ぜず、両国間の交渉は、11月に決裂した。 ソ連は自らの国境警備隊がフィンランド軍から発砲を受けたとして、にフィンランドに侵攻した。 明らかな侵略行為に対して国際社会から非難を浴びたソ連は、1939年にから追放されたが、ソ連の行動に何の影響も持たなかった。 ソ連の指導者は、実力行使すれば、フィンランドは和平を求めてくるだろうと考え、フィンランド軍のおよそ 3倍 [ ]の兵力を投入したが、結局元帥率いるフィンランド軍の粘り強い抵抗の前に非常な苦戦を強いられた。 既に、ドイツと戦争中であった、は、フィンランド支援を口実として、ドイツの軍需生産に不可欠なスウェーデンの鉄鉱石を抑えるために、地上軍の派遣をなど北部を経由して計画したが、ノルウェーとスウェーデンは軍隊の通過を拒否したために計画は実現しなかった。 この戦争により、スターリンの大粛清で弱体化したソ連軍の実態が諸外国に知れ渡ることになり、特にのの決断に影響を与えたと言われている。 戦争の背景 [ ] 歴代のソビエト政権にとって、革命発祥の地であり、ソ連第2の大都市であるレニングラードと近すぎるフィンランド国境は、重要な安全保障上の課題であった。 1930年代後半になり、ナチス・ドイツの膨張政策があきらかになるにつれ、もはや、この問題は、スターリンにとって、座視できるものではなくなった。 外交交渉 1938-1939春 [ ] そこで、ソ連側は、1938年4月より、在ヘルシンキ大使館員ボリス・ヤルツェフ NKVD職員 を通じて、フィンランド政府と非公式な交渉を始めた。 今日、伝えられているこの時の最終的なソ連側の要求は、• レニングラード湾上の4つの島嶼の割譲• 上記の代償として、ラドガ湖の北の東カレリアで、フィンランドとの係争地の一部をフィンランドへ割譲 というものであった。 しかし、フィンランド側は応ぜず、この交渉は、1939年春には、行き詰まってしまった。 1939年5月には、ソ連では、比較的、西側と協調路線であったは外務人民委員(外相相当)を更迭され、スターリンは、後任にを起用した。 外交交渉 1939年秋 [ ] 1939年、ソ連との間にが調印されたが、この協定には、を独ソの勢力圏に分割するが含まれており、この中でドイツはフィンランドがソ連の勢力圏に属することを認めた。 ソ連のポーランド侵攻から、まもなくバルト三国の外相は、モスクワに呼ばれ、にエストニア、に、にはが、領土内にソ連軍基地の設置を認める自動延長の相互援助条約を強制的に結ばされた。 バルト三国との交渉より、やや遅れて、ソ連からフィンランドに二国間の懸案の問題について協議したい申し入れがあり、直接交渉が10月11日からモスクワで始まった。 この時に提示されたソ連側の要求は、さらに厳しくなっており、おおよそ以下の条件であった。 レニングラード湾 フィンランド湾 の4つの島嶼の割譲• カレリア地峡のフィンランド国境を、の東30キロメートルまで西へ移動• カレリア地峡の防衛線 の防衛設備の撤去• ハンコ半島の30年間の租借および海軍基地の設置と約5000人のソ連軍の駐留• 上記、駐留ソ連軍の交代の為のフィンランド領内の鉄道による通行権• 以上の代償として、ソ連は、ラドガ湖の北の東カレリアでフィンランドと係争となっている領域を大きく上回る地域をフィンランドへ割譲 このソ連側の要求については、フィンランド側では、2つの考えがあった。 外相らは、この要求が最後という保証はなく、マンネルハイム線を撤去してしまえば、次の要求に対して軍事的に抵抗するすべもなくなる。 よって、ソ連側の要求には、応じられない。 一方、パーシキヴィ モスクワ派遣交渉団代表 、ベイノ・タンネル 蔵相、社会民主党党首 、マンネルハイムらは、フィンランド軍の現状や欧州の情勢からして、ソ連の要求を峻拒することは出来ないので、ソ連の要求を受け入れよ、という意見であった。 結局、フィンランド政府は、レニングラード湾口の島嶼の割譲とカレリア地峡の国境線を若干西へ移動させる、譲歩案を示したが、ソ連側はそれには応ぜず、交渉は決裂し、11月13日にフィンランド交渉団は帰国した。 マンネルハイムは、交渉の決裂後も政府に再交渉を求めていたが、11月26日には、とても現政権の国防外交政策について責任は持てないとして、国防評議会座長職の辞表を政府に提出した。 両軍の戦闘序列 1939年11月30日 [ ] フィンランド軍 [ ]• 国軍最高司令部 カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム元帥• 第6師団 司令部予備• カレリア地峡軍 中将• II軍団 中将 地峡の南、フィンランド湾側• 第1師団• 第4師団• 第5師団• 第11師団• III軍団 中将 地峡の北、ラドガ湖側• 第9師団• 第10師団• IV軍団 少将 ラドガ湖北岸からIlomantsiまで• 第12師団• 第13師団• 北方グループ 中将 バレンツ海沿岸からIlomantsiまで• 種々の独立大隊、国境警備大隊 ソ連軍 [ ]• レニングラード軍管区 キリル・メレツコフ大将• 第139師団• 第163師団• 第168師団• 第88師団• 第122師団• 第104師団 戦争の推移 [ ] 1939年 [ ] 1939年午後、カレリア地峡付近のソ連領マイニラ村でソ連軍将兵13名が死傷する砲撃事件が発生したとソ連側から発表された。 この事件は()と呼ばれており、ソ連はこの砲撃をフィンランド側からの挑発であると強く抗議した。 この事件は実際には、ソ連が自軍に向けて故意に砲撃したのをフィンランド軍の仕業にして非難し、この攻撃を国境紛争の発端に偽装したものであり、このことは近年明らかになったソ連時代の機密文書によっても裏付けられている。 しかしソ連は、にソ芬不可侵条約の破棄を通告。 に国交断絶が発表された。 、ソ連は宣戦布告なしに 23個師団45万名の将兵、火砲1,880門、戦車2,385輌、航空機670機 [ ]を以って、フィンランド国境全域で侵攻した。 ソ連空軍は、国境地帯の他、ヘルシンキ、ヴィープリなど数都市を空爆した。 ソ連は、白衛軍の流れを汲むフィンランド現政権に対する人民蜂起を期待していたので、空爆には、爆弾のほかに武装蜂起を促すフィンランド語のパンフレットが大量にばらまかれた。 その日の夜、アイモ・カヤンデル政権で連立を組んでいた社会民主党のヴァイノ・タンネル蔵相は、カヤンデル首相に退陣を求め、12月1日にカヤンデル政権は総辞職した。 タンネルは、フィンランド銀行総裁のリスト・リュティに首相就任を求め、リュティはこれを受け入れた。 また、タンネルは、自ら新内閣の外相についた。 新内閣の方針は、国際連盟、西側諸国、北欧諸国に働きかけるとともに、軍事面では可能な限りの出血をソ連軍に強いて、早期にソ連を交渉のテーブルに引きずり出すことで、一致した。 キュオスティ・カッリオ大統領は、マンネルハイムに辞表の撤回と国軍最高司令官への就任をもとめ、マンネルハイムはこれを受けた。 フィンランド兵 ソ連はレニングラード軍管区の4個軍を作戦に投入。 第7軍はカレリア地峡の国境要塞線を突破して首都ヘルシンキを目指し第8軍は、ラドガ湖北岸から西進しカレリア地峡の背後への進出を計った。 第9軍はフィンランドを南北に分断するための攻略を目指し第14軍はへと進撃した。 は第9師団にソ連軍第9軍への反撃を命じ第16連隊を主力とする独立作戦集団を編成、タルヴェラ大佐に指揮を任せラドガ湖北岸を進撃中のソ連軍第8軍に反撃を命じた。 ソ連軍第7軍の第49師団はカレリア地峡マンネルヘイム線のタイパレ要塞線の突破を試みたが、フィンランド第10師団の反撃により攻撃は失敗し甚大な被害を受けた。 ラドガ・カレリア方面ではに進出したソ連軍第8軍の第139師団がタルヴェラ作戦集団に包囲され1000名以上の犠牲者を出し敗走した。 そこで第8軍はコッラー河を渡河して守りの手薄なロイモラへ4個師団+1個旅団の大戦力を投入し突破作戦を開始した。 しかし防衛陣地を守るフィンランド軍第12師団の猛反撃により攻勢は足止めされ第8軍は進撃停止を余儀なくされた。 ラーテ街道()を進撃中だったソ連軍第9軍の第163師団はフィンランド軍第9師団に包囲され孤立した。 こうしてソ連軍の攻勢は全戦線でくいとめられ一部の部隊は分断され包囲殲滅の危機にさらされていた。 戦果をあせったレニングラード軍管区司令官メレツコフは12月16日マンネルヘイム線への総攻撃を再開。 ソ連軍第7軍が要塞線への攻撃を開始したがフィンランド軍の守りは固く甚大な損害をうけ総攻撃は失敗に終わった。 その後も第7軍はマンネルヘイム線への総攻撃を繰り返したがことごとく撃退され損害のみが増え続けた。 一方ソ連軍第9軍は包囲された第163師団を救援するため第44機械化師団を派遣した。 第44機械化師団はラーテ街道で雪に進軍を阻まれ立ち往生している最中に第9師団の奇襲を受けて壊滅、完全に孤立した第163師団も殲滅され12月9日から開始されたはフィンランド軍の完全勝利に終わった。 ソ連軍第9軍の損害は戦死・行方不明者2万4000人に達し壊滅的敗北を喫した。 スターリンは、すべての攻勢作戦の中止を命令した。 1940年 [ ] スターリンは、ジダーノフ、ヴォロシーロフを軍事作戦から外し、司令官には、を選んだ。 ティモシェンコは、新任務を受ける際に、マンネルハイム線の突破を約束したが、それは高価なものになるだろう、とスターリンに告げた。 新司令官のもと、28センチ榴弾砲やKV重戦車を含む大量の重火器と兵力の集積が進められた。 また、マンネルハイム線と似た地形陣地を自領内に作り、攻撃演習までした。 攻勢作戦の準備が完了した2月1日に、カレリア地峡で攻勢が再開された。 2月10日までは空爆と砲撃を行い、2月11日より軍の前進が開始された。 ソ連側は多大な死傷者を出しながらも、フィンランド軍を圧倒しマンネルヘイム線の突破に成功した。 が飛び交うフィンランドとソ連の国境線 国際世論は圧倒的にフィンランドを支持していた。 フィンランドからの提訴を受けて、12月14日に、国際連盟はソ連を追放した。 当時、第二次世界大戦は「」と呼ばれる小康状態にあったため、実際に戦闘が行われている冬戦争に注目が集まった。 ではが、1940年に配布したパンフレット『フィンランド-スターリンとヒトラーの犯罪的陰謀』の中で「赤い(スターリン)は帝政ロシア以来の伝統的帝国主義を推進し、民主主義の小さな拠点に対して侵略戦争をおこなっている」とソ連の行為を非難した。 はフィンランドに対し1000万ドルの借款を提供する一方、ソ連に対しては同国向けの軍需物資の供給を遅らせる行為(精神的禁輸)を開始した。 また、やに移住したフィンランド人の中には、祖国に戻りとなった者もいた。 後に俳優となったもその一人である。 世界各国から、総計11000人あまり(うち、スウェーデン人が約9000)が義勇兵として、フィンランド側で参戦した。 隣国スウェーデンからは、軍事物資、資金、人道支援も供与された。 フランスでは反ソ感情が高まり、首相はドイツに石油を供給しているソ連のをの協力を得て爆撃する計画をイギリスに提案した。 しかし英仏両国は対独戦の最中であり、ソ連にも宣戦布告をして戦線を拡大することは避けたく、イギリスはこの提案を拒否した。 ドイツは、歴史的には、フィンランドの建国に深く関与しており、深い結びつきがあったが、の内容を遵守する方針で、ソ連側に肩入れもしないかわりに、傍観する姿勢だった。 英仏は、12月からフィンランド支援を検討していたが、1940年2月に、の部隊も加えた連合軍でノルウェーのに10万人の兵士を上陸させ、スウェーデン経由でフィンランドを支援することを名目にドイツへのの輸出を停止させる作戦計画で一致した。 この計画は、ノルウェー、スウェーデン両国の好意的な対応を前提としていた。 しかし、3月3日にノルウェー、スウェーデン、両国政府は、英仏の計画をはっきりと拒否した。 両国政府の拒否にもかかわらず、計画の準備は続行された。 1940年1月に、フィンランドのヴァイノ・タンネル外相がスウェーデンの支援を求めストックホルムを訪問した際には、スウェーデン政府の冷淡な対応が国民に知れ渡り、スウェーデン国内に政府非難の声が広がり、沈静化の為に、国王が国民向けに声明を出す事態となった。 また、世界各国から兵器が供与されたが、いずれも旧式な兵器ばかりであり数も少なく、フィンランドを決定的に有利にする支援はついぞ行われなかった。 3月12日にモスクワ講和条約が結ばれると、フランスのダラディエ政権はフィンランド支援失敗の責任を議会で追及され辞職に追い込まれた。 停戦 [ ] ソ連指導部は、戦争開始から1ヶ月も経たないうちにこの戦争の落としどころを考え始めていた。 死傷者の増加や戦争の長期化、泥沼化は、ソ連国内の政治課題ともなっていた。 また春の訪れと共にソ連軍は森林地帯のぬかるみにはまる危険があった。 ソ連は攻撃と並行して、1月12日に和平交渉の再開をフィンランドに提案した。 1月末にはスウェーデン政府を経由した和平の予備交渉にまで至っていたが、フィンランド政府は、ソ連の提示した厳しい講和条件に躊躇せざるを得なかった。 しかし、スウェーデン王がフィンランド支援のために正規軍を派遣しないことを公式に表明したことに加えて、2月末までにフィンランド軍の武器・弾薬の消耗が激しく、マンネルヘイム元帥はこのまま戦争を継続した場合、敗北は必至で、フィンランドの独立さえ危うくなるという政治的な判断により、講和による決着を考えていた。 これを受けた政府は2月29日より講和の交渉再開を決定した。 同日、フィンランド第二の都市であり、首都ヘルシンキへの最後の防衛拠点であるに対してソ連軍が殺到しており、フィンランド政府にもはや猶予はなかった。 和平交渉の結果、両国は3月6日にに達した。 4ヶ月間の戦闘で、ソ連軍は少なくとも12万7千人の死者を出していた。 ソ連軍の戦死者は20万人以上ともいわれ、ニキータ・フルシチョフは100万人としている。 フィンランド側は、約2万7千名を失い、さらに講和の代償も決して安いものではなかった。 詳細は「」を参照 1940年3月12日、 が結ばれた。 カレリアは産業の中心地であり、第二の都市ヴィープリを含んでいた。 その他にも、サッラ地区、のカラスタヤンサーレント半島、およびフィンランド湾に浮かぶ4島を割譲し、さらにハンコ半島とその周辺の島々はソ連の軍事基地として30年間租借されることとなり、8,000人の住民が立ち退いた。 フィンランド市民にとって、この過酷な講和条件は衝撃であり、その精神的ショックは、戦い続けた場合よりも多いのではないかとさえ言われた。 影響 [ ] モスクワ講和条約を結ぶために、ソ連の傀儡政権だったフィンランド民主共和国はモスクワ講和条約が結ばれた1940年に、「フィンランド民主共和国政府は無用な流血を避けることを選んだ」としてソ連の構成国であるに統合され廃止された。 その後、なんとか独立を維持していたバルト三国は、1940年6月から8月の間に、武力でソ連により併合され、それぞれソビエト連邦内共和国となった。 1940年6月には、フランスはドイツに降伏し、西側でドイツと戦っているのは、イギリス連邦諸国だけとなった。 フィンランドは、冬戦争後、中立維持のためのスウェーデンとの軍事同盟を模索したが、ソ連とドイツの反対で、これは実現しなかった。 その結果、フィンランドは、軍事経済援助の見返りに軍事基地の提供などを行い、ドイツ軍はフィンランド領内に駐留を始めた。 これは、明らかな独ソ不可侵条約の秘密議定書に対する違反で、のちに独ソ間の外交問題になった。 1941年6月22日のドイツのソ連侵攻にはフィンランド軍は参戦しなかったが、ソ連軍がフィンランド領を空爆した為、6月25日に、フィンランドはソ連に宣戦し、が始まった。 脚注 [ ] []• Chapter 24 Aftershocks• 梅本弘『雪中の奇跡』エピローグ 268頁• Trotter, William R. 2002 [1991]. The Winter War: The Russo—Finnish War of 1939—40 5th ed. 237-238. New York Great Britain: London : Workman Publishing Company Great Britain: Aurum Press. 関連文献 [ ]• 中山雅洋『北欧空戦史』(学研M文庫、2007年)• 『雪中の奇跡』(大日本絵画、1994年新装版) 日本語で読める冬戦争の記録としては最もまとまっている。 植村英一『グスタフ・マンネルヘイム フィンランドの白い将軍』(荒地出版社、1992年)• William R. Trotter『THE WINTER WAR : The Russo-Finnish War of 1939-40』(Aurum Press Ltd、2003年)• ニコライ・トルストイ 著\新井康三郎 訳『スターリン その謀略の内幕』(、1984年)• 齋木伸生 著『冬戦争 Historia Talvisota 』 イカロス出版、2014年• Trotter, William R. 2000. A FROZEN HELL: The Russo—Finnish War of 1939—40. Algonquin Books of Chapel Hill. 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 () - ソ芬戦争を題材としたソ連の軍歌。 - 戦場となり戦渦に巻き込まれたの。 - フィンランド側に義勇兵として参加。 -フィンランド側に義勇兵として参加。 - 兵役を終えサーカス団員をしていたが軍に復帰した。

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