明智 光秀 妻。 妻木煕子| 明智光秀の妻の生涯~逸話から愛妻家説を検証する~

明智光秀の妻「煕子」の生涯※あばたがあっても美人妻?内助の功といえばこの人

明智 光秀 妻

大河ドラマ『麒麟がくる』(NHK)の放送が、新型コロナウイルスの影響で中断を余儀なくされている。 『麒麟がくる』公式ホームページより 日本社会は、婚外恋愛、いわゆる不倫の類に非常に厳しくなってきていますね。 今と昔は時代が違うといいつつも、大河ドラマの主人公にしやすい人物と、そうではない人物をわけるのも、その人の色恋沙汰だったりするかもしれません。 何年か前に大河になった黒田官兵衛は「妻一筋」だったといわれる一人。 また、今年の大河『麒麟がくる』の主人公・明智光秀も、側室を持たなかったといわれているのです。 黒田と明智、二人の共通点には「頭がいい」ゆえに「金にもシビア」というのがありますね。 一度抱えると、簡単には手放せないのが側室です。 正室もいる屋敷で同居し続け、その上衣食住も負担する維持費を考えてしまったのかもしれません。 ……などと想像するのはやめましょうか。 今日のテーマは「明智光秀は愛妻家だったか?」ですし。 しかし、明智光秀の奥方については謎が多いのです。 その名前すらハッキリとはわからないといわざるを得ません。 明智が復興に尽力し、明智一族の墓がある寺として知られる西教寺(滋賀県)の主張では、「明智家の過去帳に熙子の名前は存在する」とのことですが、同時代の史料の中に明智の妻についての記述は数回出てくるだけ。 しかも、そのいずれも「明智光秀の妻」として書かれているだけなのです。 今回の記事では便宜上、彼女のことを熙子と呼びますが、謎の多い明智以上に、彼女の実像は謎なのでした。 だからこそ、今年の大河ドラマでは木村文乃さん演じる熙子のキャラクターは、チラホラ残る逸話をあまり反映せずに自由に作られている気がします。 歴史的に見ると、熙子と明智には、いくつか面白い逸話があるのです。 まずは2人が結ばれるまでの有名エピソード。 美しかった熙子ですが、明智との結婚前に天然痘にかかり、回復したものの顔に傷跡が残ってしまった。 熙子の実家は、彼女と瓜二つの妹を明智のもとに熙子と偽って届けたが、彼は熙子の顔にあったハズのホクロが妹にはないことから、別人が来たと見抜き、最終的に「顔に傷がついたとしても、自分は熙子と結婚する」と言いはって、そうした……というお話、聞いたことありませんか? しかし、ソースは残念ながら江戸時代の井原西鶴の小説です。 正確には西鶴の「武家物」といわれるジャンルの小説集『武家義理物語』にふくまれる短編のひとつで、つまり完全なフィクション。 彼女が病気をしたかの真偽もまったくわかりません。 「それでも熙子と結婚する」で終わればイイ話かもしれませんが、小説は「顔に傷がある女と結婚したからこそ、明智は妻の色気に惑わされず、武士として立派な仕事ができたのだ」と続き、「不美人婚のススメ」みたいなまとめで終わってしまう話でもあります。 不美人をあえて選んで結婚したという『三国志』の諸葛孔明の話もありますが、その影響も感じられますね。 まぁ、この逸話を採用したところで、顔に傷跡の特殊メイクを毎回、木村文乃さんに施すのも大変でしょうから、この逸話は今回の大河ではなかったことにされたのだと思います。 ほかに明智と熙子の愛情エピソードといえば、明智が、とても貧しかったといわれている越前時代初期、宴会費用がまかなえないため、当時の美女の第一条件だった美しい黒髪を熙子が売って、それでお金をなんとかした……というお話もありますね。

次の

明智光秀の子・孫・子孫たち

明智 光秀 妻

ただ残念なことに、「明智軍記」も「鈴木叢書」も、どちらも決定的な史料とは見なされていません。 しかし『明智軍記』は、光秀が亡くなってから100年以上も経過した江戸時代に書かれた軍記物であるものの、他の史料で知ることのできない情報が含まれており、見過ごすことができないものです。 そのため『明智軍記』は、「明智家の内情に詳しい者の子孫が編纂に加わった」という可能性を指摘されています。 『明智軍記』には、光秀と正室「煕子」の間に生まれた子供の情報が書かれており、側室の産んだ子供についての記述はありません。 あくまでも私見ですが、『明智軍記』の編纂には、煕子の実家「妻木家」の子孫 江戸時代も旗本として存続していた が関わったのではないか、と考えています。 この記事では、『明智軍記』に記載された光秀の子供の情報を元に、光秀が煕子の前に愛した女性「千草の産んだ子供」と、「側室の産んだ子供」の情報を加える形でご紹介していきますね。 ・長男 十五郎、明智光慶、玄琳、南国梵桂 【 1569年】頃の生まれ。 【 1582年】に光秀が山城国愛宕山 京都市右京区 で催した愛宕百韻に「光慶」の名前 があることから、実在が確実視されている。 ・次男 十次郎、自然、光泰 【 1572年】頃の生まれ。 茶匠「津田宗及(つだ そうぎゅう)」の茶会に光秀の子として「自然(じねん)」という名前があることから、実在が確 実視されている。 ・三男 乙寿丸 【 1576年】頃の生まれ。 光秀の妻「煕子」は【 1576年】、「天王寺砦の戦い」の直後に、過労で倒れた光秀を看病して回復させたのち、自身が病に倒れ、【 同年 11月】に坂本城で亡くなっている。 乙寿丸を懐妊していた最中、もしくは出産直後に光秀を看病 し、その無理がたたって煕子は亡くなった可能性が考えられる。 正室「煕子」の子 *「煕子」の産んだ子供 ・長女(倫、明智秀満の妻) 【 1582年」、坂本城落城時に夫「秀満」とともに死亡。 ・次女 名前不詳、明智光忠の妻 【 1582年】、坂本城が落城した時に夫「光忠」とともに死亡。 ・三女 珠、細川忠興の妻、洗礼名「ガラシャ」 【 1582年】、「本能寺の変」で、夫と舅は父「光秀」に味方せず、謀反人の娘となった「珠」 は、夫によって味土野(みどの)という人里離れた地へ幽閉される。 【 1584年】、「豊臣秀吉」の取りなしで細川家屋 敷に戻される。 【 1587年】、イエズス会士の計らいで侍女「 清原マリア」によって 受洗、ガラシャという洗礼名を授かる。 【 1600年】、「」の直前、「徳川家 康」に味方した夫「忠興」が出陣したのち、「石田三成」に人質にされることを拒絶。 家臣に介錯させ、壮絶な最期を遂げた。 《藤堂高虎》 「引用元より」 ・長男 十五郎、光慶、玄琳、南国梵桂 【 1582年】、「」の後の消息は、亀山城で病死したとする説、坂本城で他の一 族と自害したとする説、上総国に落ちのびたという説など、諸説入り乱れてい る。 諸説の中に、妙心寺で出家して「玄琳(げんりん)」と名乗り、後に摂津国で本徳寺を開い たとする説があり、「光秀生存説」とも絡む興味深いものとなっている。 ・次男 十次郎、自然、光泰 【 1582年】、「本能寺の変」の後、坂本城で他の一族とともに死亡。 ・三男 乙寿丸 【 1582年】、坂本城が落城した時に死亡したと言われているが、美濃国に落ち延びたとい う伝承がある。 現在の岐阜県山県市へ、父「光秀」とともに落ち延び、そこで「荒深 小五郎」と名を変えた父「光秀」とともに暮らした、と言われ、現在も山県市内には「荒深」姓が 残っている。 《坂本城の石垣:さんによるからの写真》 千葉県市原市に、明智光秀側室のものと伝わる墓があり、墓石には「フサ」「重五郎」「重五郎の妻」の、名前と戒名が刻み込まれているのです。 この墓は、墓石に名前が刻まれた重五郎の子孫 光秀の子孫 の方たちが、現在も大切に守り続けています。 嫡男が上総国に落ちのびたと考える人たちは、『重五郎=十五郎』、つまり光秀の嫡男「明智光慶」だと考えているわけですね。 さて、『明智軍記』と「愛宕百韻」に、光秀の長男として名前が出てくる「十五郎光慶」ですが、『鈴木叢書』にはその名前がありません。 『鈴木叢書』では、長男として「玄琳(げんりん)」というお坊さんの名前と、その玄琳が 「妙心寺に入った」ということが書かれています。 このことから長男は、もともと「光慶」という名前だったが、妙心寺で出家して「玄琳」と名乗るようになった、と考えられるようになりました。 妙心寺の僧侶「玄琳」は、塔頭・瑞祥院に居住し、同じく妙心寺の塔頭・大心院主の「三英瑞省」に弟子入りして、仏門にはげみます。 正室の産んだ長男、つまり嫡男でありながら、「光慶」には「初陣を飾った」という記録がありません。 あくまでも私見ですが、光秀は光慶を武将に向かないと判断し、【 1582年】の「本能寺の変」が起こる前に、光慶を妙心寺で出家させたのではないかと思います。 (もしかすると光慶は、病弱だった、または「」の次男「海野信親」のように、盲目だったため出家したのかもしれない) こうして光慶は僧侶「玄琳」となったのでしょう。 さて、妙心寺で修行した玄琳 光慶 は、和泉国貝塚 大阪府貝塚市 に向かい、そこで「 大日庵」を開きます。 「大日庵」は、後に発展して「海雲寺」となりましたが、戦火で焼失したため、岸和田に移転して、寺の名を「本徳寺」と改めました。 「本徳寺」で玄琳 光慶 は、父「光秀」の肖像画を描かせ、位牌を作っています。 この光秀の肖像画はとても有名なものですから、画像をご覧になった方は多いでしょう。 「明智光秀の肖像画」として現存する唯一のものです。 本徳寺所蔵の明智光秀肖像:よりパブリックドメイン 素直に考えれば、玄琳 光慶 が、父の供養を行うために作ったと考えられますよね。 ところがその肖像画には 「放下般舟三昧去 仏門に入って去っていった 」 という不思議な言葉がかかれているのです。 また光秀の位牌の裏には 「当寺開基慶長四己亥」 と書かれています。 「当寺開基」はこの寺を開いたという意味ですし、【 慶長4年】は【 1599年】で関ヶ原の戦いの前年です。 「光秀の位牌」の裏の文言によると「光秀が【 1599年】にこの寺を開いた」という意味になり、【 1582年】、「山崎の合戦」後に小栗栖で落武者刈りにあって「光秀」が亡くなったことと矛盾していますよね。 光慶が玄琳であることと、光秀が山崎の合戦後も生き延びたという伝承が、ここで繋がるのです。 『天王山より山崎合戦地を望む:さんによるからの写真』 玄琳 光慶 の後を追って大日庵に向かい、そこで光秀は息子の手によって得度(とくど)され、出家して潜伏生活を送ったと考えても、無理はないのではないでしょうか。 大阪府貝塚市の大日庵があった付近には 「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居」 という俗謡が残っています。 「十兵衛」とは「光秀」のことですから、「妻の髪を売った光秀が隠れ住んでいる」とこの俗謡は歌っているのですね。 ところで、【 1599年】は光秀と同一人物説のある「南光坊天海」僧正が、武蔵国川越 埼玉県川越市 にある「喜多院無量寿寺」の住職となった年でもあります。 《桔梗紋》 「引用元より」 明智氏は元々土岐氏の支流ですが、なぜ土岐氏の末裔が「光秀の子孫」と言い伝えたのでしょう? ある番組の企画で、クリス・ペプラーさんの先祖を辿ったところ、「土岐頼次」の長男「土岐頼勝」が、クリス・ペプラーさんのご先祖様であることが判明しました。 この土岐頼勝という人物が、実は「坂本城」が落城したときに逃れた光秀の息子であり、「土岐頼次」の養子となって「頼勝」と名乗ったのではないか、と作家「明智憲三郎」氏は推測しています。 その「明智憲三郎」氏はというと、光秀の子「於隺丸(おづるまる)」の子孫で、江戸時代は「明田」姓を名乗り、明治時代になって明智に戻したとおっしゃっていますが、『明智軍記』『鈴木叢書』には、「於隺丸」の名前は見当たりません。 つまり、現在伝わっている記録に残っていない 見つかっていない 側室や子供がいた可能性があるということです。 上総国に「十五郎」が逃げたという伝承も、もしかしたら記録に残っていない男子が逃げ延び、フサは側室ではなくその男子の乳母だったのかもしれませんね。 坂本城が落城した時に、「明智秀満」は光秀の妻子と自分の妻子を殺害して自害した、と言われていますが、「喜多村保之」のように、城から逃げ延びた子は、他にもいたかもしれません。 もしかしたら、これを読んでいるあなたも、「明智光秀の末裔の1人」かも知れませんよ。 一度、お寺の過去帳などで、自分のご先祖さまを調べてみてはいかがでしょう? 1,光秀の子供は、諸説あるものの「3男4女」または「6男7女」いたとされる。 嫡男は「明智光慶」。 三女は有名な「細川ガラシャ」 2,「本能寺の変」の直後、光秀の「長女」「次女」らは坂本城落城と同時に亡くなった。 三女「ガラシャ」と四女は生き延び、他の子供たちは亡くなったか逃げ延びたか、諸説ある 3,長男「明智光慶」は、光秀の側室「ふさ」とともに逃亡し、現在の千葉県へたどり着いたという説がある。 または、出家して「妙心寺」の僧侶となって、父「光秀」の肖像画を守り続けたとも言われている 明智光秀には複数の子供がいました。 残念なことに、その性別と人数の正確な数字は確定されていません。 光秀の子供の多くは、【 1582年】の「本能寺の変」の後、坂本城が落城した時に亡くなった、と考えられています。 《本能寺の変》 「引用元より」 「本能寺の変」の後も生きていたのが確実なのは、三女「細川ガラシャ」、そして推測ですが四女の「津田信澄の妻・京子」の2人くらいのものでしょう。 伝承を含めれば、妙心寺の僧侶「玄琳」となった長男「光慶」、美濃国に落ち延びた「乙寿丸」、側室の産んだ末子「内治麻呂 喜多村保之 」、「川勝丹波守」の妻となった「六女」、養女として嫁がせた信長の三女「秀子」が、「本能寺の変」の後も生き延びています。 現代に記録が伝わっていない 見つかっていない 側室や、その子どもたちがいた可能性を否定はできませんから、「クリス・ペプラー」さんや「明智憲三郎」さんのように、あなたも光秀の末裔かもしれませんよ。 一度、お寺の過去帳などでご先祖様を調べてみると良いかも知れませんね。

次の

明智光秀の妻「妻木煕子」~光秀はなぜ愛妻家と言われるのか

明智 光秀 妻

・「明智軍記」 長女・・・ 明智秀満(ひでみつ)の妻であり、一説では、名前は、倫子(りんこ)と言う。 夫である明智秀満は、明智光秀の家臣であり、明智五家老の一人と呼ばれた。 次女・・・ 明智光忠(みつただ)の妻。 夫である明智光忠は、明智光秀の家臣であり、明智五家老の一人と呼ばれた。 ・「明智系図」 長女・・・ 菅沼 定盈(すがぬま さだみつ)の妻であり、明智光秀の養女。 夫である菅沼 定盈は、徳川家家臣。 次女・・・ 桜井(松平)家次(さくらい いえつぐ)の妻であり、明智光秀の養女。 夫である桜井(松平)家次は、今川家臣。 二つの資料では、長女と次女の嫁ぎ先は、異なっています。 名前も定かではなく、詳しいことは、伝わっていません。 次に、三女と四女を見てみましょう。 細川ガラシャの名前で有名。 夫である細川忠興は、織田、豊臣、徳川の権力者たちに仕え、肥後細川家の基礎を気づいた。 四女・・・ 津田(織田)信澄(つだのぶずみ)の妻。 夫である津田信澄は、織田信長の家臣として活躍した。 ・「明智系図」 三女・・・ 津田(織田)信澄(つだのぶずみ)の妻。 細川ガラシャの名前で有名。 二つの資料では、二人の娘には、三女と四女の違いがあります。 しかし、嫁ぎ先は、二人とも一致しています。 この他に、明智系図では、五女、六女、七女までいますが、資料が乏しく、詳しくはわかりません。 ここで、嫁ぎ先が一致した、三女と四女である二人の娘を、見ていきましょう。 - 2020年 2月月16日午前2時54分PST 大善寺(だいぜんじ)にある津田信澄の供養墓 津田信澄は、織田信秀(信長の父)の息子である、 織田信勝(信行)の長男です。 父である織田信勝(のぶかつ)は、織田信長の弟であり、尾張統一の際に、織田信長によって、討たれています。 津田信澄にとって、 織田信長は叔父にあたります。 織田信勝が織田信長に制裁されると、津田信澄は信長を主君として、武功を挙げます。 津田信澄は、織田信長に厚遇されており、家臣として信頼を得ていました。 1578年(天正6)年には、 近江にある大溝(おおみぞ)城の城主になります。 しかし、 本能寺の変が起きたことにより、津田信澄の人生は、悲劇に一変します。 津田信澄は、織田信孝(のぶたか)を総大将とする、四国討伐軍に編成されていました。 丹羽長秀(にわながひで)、蜂屋頼隆(はちやよりたか)と共に、副将として参加する予定でした。 織田信長は、徳川家康の堺見物の為、津田信澄と丹羽長秀に、大坂での接待役を命じます。 本能寺の変が起きると、大阪城にいた津田信澄は、窮地に立たされることになります。 市中である噂が流れます・・・。 「明智光秀の娘を妻とする津田信澄は、明智光秀と共謀して織田信長を討った」 その噂を聞き、疑心暗鬼になった 織田信孝と丹羽長秀は、津田信澄を襲撃します。 丹羽長秀の家臣・上田重安(うえだしげやす)によって、 津田信澄は、討ち死にします。 謀反人の汚名を着せられた津田信澄は、大坂の堺で、晒し首とされました。 享年25歳とも、28歳とも言われています。 滋賀県高島市に 大善寺(だいぜんじ)があります。 大善寺には、寺の開基をした津田信澄の供養墓と、慰霊の石碑が建てられています。 妻の明智光秀の娘は、 その後の詳細は、明らかになっていません。 もしかしたら、大溝城から落ち延びて、どこかに匿われていたのかもしれません。 息子の津田昌澄(まさずみ)が後に、豊臣家に仕えています。 そこで、親子揃って生涯を閉じたと思いたいですね・・・。 勝竜寺城跡(かつりゅうじじょうあと) 住所:京都府長岡京市勝竜寺13-1 アクセス:JR長岡京駅から徒歩で10分 細川ガラシャの夫・細川忠興(ほそかわ ただおき) 細川ガラシャの夫・細川忠興は、どんな人物だったのでしょうか。 1563(永禄6)年、細川藤孝(幽斎)の長男として、京都で生まれます。 父の細川藤孝は、室町幕府13代将軍の足利義輝(あしかがよしてる)に、仕えていました。 織田政権時代 15将軍・足利義昭(あしかがよしあき)が織田信長と対立するタイミングで、 細川親子は織田家臣となります。 細川忠興は、織田信長の嫡男・織田信忠に仕え、15歳で紀州討伐で初陣を飾ります。 信貴山(しぎさん)城の戦いで、父・幽斎と明智光秀と共に、松永久秀勢を打ち破り、織田信長から感謝状を貰っています。 「細川家記」によると、織田信長から、細川忠興は、部門の棟梁としての器を、褒め称えられています。 本能寺の変が起こると、 明智光秀から、味方の誘いを受けますが、父・細川幽斎と共に拒否します。 この時、父・細川幽斎が隠居しました。 細川忠興は、領国である丹後南半国を譲り受け、 丹後宮津(たんごみやつ)城主となりました。 豊臣政権時代 羽柴秀吉に従順の姿勢をとった細川忠興は、北丹後の一色(いっしき)家を攻め滅ぼします。 その後、細川忠興は、羽柴秀吉によって、丹後全域の領有を許されます。 細川忠興は、福島正則(ふくしままさのり)や加藤清正(かとうきよまさ)と共に、 豊臣秀吉子飼いの「七将」に数えられます。 その後も、 小牧長久手の戦い、九州討伐、小田原討伐、朝鮮出兵と数多くの戦に、赴きました。 豊臣秀次事件の時、細川忠興は、豊臣秀次に借金がありました。 そのことで、豊臣秀吉に嫌疑をかけれますが、徳川家康の力により、疑いは晴れます。 徳川政権時代 豊臣秀吉が死去すると、石田三成(いしだみつなり)と徳川家康の対立抗争が起きます。 細川忠興は、 徳川家康に従順し、加藤清正や福島正則とともに、石田三成の襲撃に加わりました。 この時、豊臣家筆頭家老であった徳川家康に、領地を加増をしてもらいます。 関ケ原の戦いでの論功行賞により、 豊前国中津(ぶぜんこくなかつ)、約40万石の大名となりました。 その後、細川忠興は、小倉(おぐら)城に藩庁を移し、 小倉藩の初代藩主となります。 大坂の陣にも参戦し、三男の細川忠利(ただとし)に、家督を譲って隠居します。 1645(正保2)年に、肥後・八代(やつしろ)城にて、83歳で死去します。 細川忠興の辞世の句が残っています。 「皆どもが忠義 戦場が恋しきぞ いづれも稀な者どもぞ」 戦国の戦乱を切り抜けた、細川忠興らしい人柄が出ています。 文化人としても活躍 細川忠興は、文化人として、数多くの文化人や大名や公家と交流があり、多くの情報を得ていました。 細川忠興が書いた手紙は、 1800通以上と言われています。 父・細川幽斎同様、教養人であり、特に茶道に通じていました。 茶人・千利休(せんのりきゅう)を師と仰ぎ、 「利休七哲」の一人に数えられる程でした。 千利休が豊臣秀吉に切腹を命じられた時、お見舞いに行ったのは、細川忠興と古田織部(ふるたおりべ)の二人だけでした。 細川三斎(さんさい)と名乗り、茶人としても、活動をしています。 細川忠興は短期気だった!? 細川忠興は、茶道四祖伝書(ちゃどうしそでんしょ)のなかで、 「天下一の気が短い人物」と書かれています。 丹波平定の際に、明智光秀から「降伏してくる者を、むやみに殺してはならない」と諭されています。 戦場では武闘派の細川忠興は、怒りの沸点が低く、敵には容赦がない性格だったと言われています。 父・細川幽斎に激怒する 関ケ原の戦いの際、父・細川幽斎が守る田辺城が、西軍によって包囲されます。 しかし、朝廷の仲立ちもあり、細川幽斎は、敵方に城を明け渡しました。 その報を聞いた細川忠興は、 「なぜ最後まで戦わなかったのか」と激怒し、父・幽斎と一時不仲な関係になります。 妹の嫁ぎ先である、一色氏を謀殺する 細川忠興は、丹後攻略戦で、北丹後を支配していた 一色義定(いっしきよしさだ)を宮津城内で謀殺します。 その際、城内にいた一色義定の家臣や、雑兵もすべて皆殺しにしています。 一色義定に嫁いでいた 妹・伊也(いや)は、そのことを恨み、戦後に、 兄である細川忠興に斬りかかります。 この時、鼻に傷ができ、大名の間では、この傷に触れることを、配慮したといいます。 長男・細川忠隆(ただおき)を廃嫡する 細川忠興は、 長男の細川忠隆(ただたか)を、廃嫡しています。 廃嫡(はいちゃく)・・・嫡男に対して、相続する権利を廃すること。 細川忠隆の妻であった千世(ちよ)は、細川屋敷で、ガラシャが自害した際、姉の指示で 前田邸に逃れました。 千世は、前田利長(としなが)の妹だったため、前田邸に助けを求めました。 細川忠隆は、細川忠興に咎められ、千代と離縁をして、前田家に追い払うよう命じられます。 しかし、細川忠興は、 納得いかず、それに反発して、廃嫡されることになりました。 次男・細川興秋(ほそかわおきあき)を切腹させる 次男の細川興秋(おきあき)は、 大阪の陣で豊臣方に味方しました。 そのことに細川忠興は、激怒し、戦後、細川興秋に切腹を命じます。 徳川家康は、許そうとしましたが、細川忠興は、 自らの命令で、興秋を切腹させました。 細川忠興とガラシャとのエピソード 細川家家臣らが、歴代当主の事をまとめた書物があります。 「綿考輯録 めんこうしゅうろく 」という書物に、数々のエピソードが載せられています。 - 2019年 7月月2日午前7時43分PDT 味土野女城跡(みどのめじろあと) 父である明智光秀が本能寺の変を起こし、織田信長を討ち取る事件がおきました。 明智光秀は、細川親子に味方になってほしいと誘いますが、細川親子は、 頑なに拒否をします。 明智光秀の誘いを断った細川忠興は、すぐに次の行動に移っています。 家臣・松井康之(まついやすゆき)を通じて、織田信孝(おだのぶたか)に 「謀反の心はない」と伝えています。 そして、細川忠興は、正室である細川ガラシャを、 丹後国の味土野(みどの)に幽閉します。 細川ガラシャは、織田家臣の大名の娘から、一夜にして、「謀反人の娘」になってしまいました。 当時、離縁をすると、妻は自分の故郷に帰されることが普通でした。 しかし、謀反人の娘となったガラシャは、帰るところがありません。 味土野には、 明智家の「茶屋」があったとされています。 この味土野に送り返すことで、幽閉という形ですが、形式上では送り返したことになります。 細川忠興は、ガラシャへの愛情を抑えきれなく、幽閉地に通いガラシャに度々会っています。 この時に、 ガラシャは子供を出産しています。 現在、幽閉地跡には、「細川ガラシャ隠棲地の碑」が建っています。 味土野女城跡(みどのめじろあと) 住所 京都府京丹後市弥栄町須川 アクセス 京都丹後鉄道宮津線 峰山駅から車で30分 キリスト教の洗礼を受け、キリスト教徒となる 細川ガラシャの幽閉は、2年に及びましたが、羽柴秀吉の許しをもらい、 細川家の大阪屋敷に戻ります。 しかし、細川ガラシャの自由はなく、家臣2名が常にガラシャを見張っています。 ガラシャは、近親者以外からの伝言は受け取れなく、屋敷内でも許可された部屋にしか行くことができませんでした。 まさに、監禁状態で、生活をすることになります。 細川忠興は、摂津(せっつ)国・高槻(たかつき)城主であり、 キリシタン大名・高山右近と、親しい間柄でした。 高山右近から聞いた、キリストの教の講義を、細川忠興は、ガラシャに話していました。 細川ガラシャは次第に、 キリスト教の教えに興味を持ちます。 1587(天正15)年、夫の細川忠興は、九州征伐のため、大坂を留守にします。 細川ガラシャは、身を隠しつつ、大坂にあった イエズス会の教会を訪れました。 この時、ガラシャは、修道士に色々な質問をし、洗礼を受けることを希望します。 しかし、 教会側は、彼女の身元が、分からなく困ります。 教会側は、ガラシャの身なりから、身分が高いものであると判断し、洗礼は行いませんでした。 しかし、細川ガラシャは、再び外出ができる状態ではありませんでした。 教会には行けないガラシャは、侍女(じじょ)を通じて、教会とやり取りをしていました。 また、教会からもらった書物を読むことにより、信仰を深めていきました。 この間、 侍女の清原いと(清原マリア)や、他の侍女たちを教会に行かせ、洗礼を受けさせています。 この期間に、九州にいた豊臣秀吉により、 バテレン追放令が出されます。 この時、細川ガラシャは、イエズス会のグレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいにより、 先に洗礼を受けていた清原マリアから、洗礼を受けます。 ここで、「ガラシャ」という洗礼名を受けることになります。 ガラシャという名前は、ラテン語で「神の恵み」という意味を持っています。 九州から帰国した細川忠興は、ガラシャの洗礼を受けたことを知り、激怒し 、棄教をさせようとします。 細川忠興は、バテレン追放令が出されている中で、キリスト教を認めることはできません。 しかし、細川ガラシャは、 頑なに棄教を拒み、ついに細川忠興を黙認させます。 「フロイス日本史」によると、九州から帰ってきた細川忠興は、 以前より、残忍で悪辣な異教徒になったと書かれています。 また、キリシタンである乳母の些細な過ちに対して、鼻と耳をそぎ落とし、追い出したと伝わります。 細川忠興は、ガラシャに対して、強く当たることが、しばしばありました。 この時ガラシャは、 「離婚をしたい」と宣教師に告白しています。 キリスト教では、離婚は認められておらず、宣教師は、ガラシャを思いとどまらせました。 1600(慶長5)年、石田三成方の上杉氏を討伐するため、徳川家康は、会津に向かいます。 夫である細川忠興は、 上杉討伐に、同行していました。 「イエズス会日本報告集」に細川忠興が、大坂屋敷を旅立つ際に、家臣に命じたことが記してあります。 「自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻と共に死ぬように」 石田三成は、徳川方についた 大名の妻子を人質に取って、動きを牽制する計画を実行します。 大坂玉造にある細川屋敷にいた細川ガラシャは、人質になることを拒否します。 石田三成は、実力行使に出て、細川屋敷を兵に囲ませます。 屋敷内にいた侍女たちを外に脱出させたあと、 細川ガラシャは覚悟を決めます。 キリスト教では、自殺は禁じられていました。 キリシタンである細川ガラシャは、細川家家老の小笠原秀清(おがさわらひできよ)に介錯を頼みます。 小笠原秀清は、細川ガラシャの心臓を長刀で突き、介錯しました。 その後、小笠原秀清は、屋敷に火をかけて、自害しました。 細川ガラシャは、 享年38歳であり、若すぎる死となりました。 細川ガラシャの事件を知った各大名屋敷では、次々と、屋敷から妻子を脱出させることに成功しました。 オルガンティノ神父は、細川屋敷の焼け跡を訪れ、ガラシャの骨を拾い、キリシタン墓地に埋葬しました。 翌年には、細川忠興は、オルガンティノ神父に、教会葬を依頼し、葬儀に参列しました。 細川ガラシャの骨は、 大坂の崇禅寺(そうせんじ)に改装しました。 細川ガラシャの辞世の句が残っています。 「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」 意味は、「花も人も、散り時を、心得てこそ、美しい・・・」。 ガラシャは、殉教を望んでいましたが、細川家の為に死んだ彼女は、殉教者になれませんでした。 しかし、 殉教に限りなく近い、最期だったのではないでしょうか。 長男:玄琳・・・京都の妙心寺に入る。 (光慶と同一人物?) 次男:安古丸・・・山崎の戦いで戦死。 三男:不立・・・嵯峨天龍寺に入る。 四男:十内・・・坂本城落城の際に死亡。 五男:自然・・・坂本城落城の際に死亡。 (「明智軍記」の十次郎の幼名?) 六男:内治麻呂 ・・・喜多村保之(喜多村弥平兵衛) 連歌の記録を収めた「連歌総目録」には、 明智光慶(みつよし)が、連歌会に出席した記録があります。 また、この連歌会に 「自然丸」の名前の記載も見られます。 自然丸の名前は、茶人・津田宗及(つだそうぎゅう)の茶会記でも、実在が確認されています。 明智光秀が細川幽斎にあてた手紙には、 「十五郎」の名前が出てきます。 「十五郎」は文面の内容から、長男の明智光慶のことだと読み取れます。 このことから、二人の子供は、存在していた可能性があるとされています。 また、別の角度から、自然丸は光慶の幼名ではないかとも言われています。 また、宣教師ルイス・フロイスは、 「坂本城で明智光秀の二子が死んだ」と述べています。 ルイス・フロイスが言う、坂本城で死んだ「明智光秀の二子」とは誰なのでしょうか? 明智光慶 あけち みつよし 【長男】 明智光慶は「明智軍記」に、明智光秀の長男として登場します。 明智光慶が歴史に登場したのは、明智光秀が亀山城を築城する前後でした。 初参の記録もなく、特に目立った功績もありません。 1582年(天正10)年に、催しされた愛宕山の連歌会で、「明智光慶」の名前が登場します。 記録では、明智光慶は、父・明智光秀と同席し、 連歌の結句を詠んでいます。 また、宣教師のルイス・フロイスが書いた「フロイス日本史」の中で、明智光慶の感想を述べています。 「非常に美しく優雅で、ヨーロッパの王族を思わせるようであった」 明智光秀や妻・煕子が手塩にかけて、育てた息子だったのでしょうか。 1582(天正10)年、父の明智光秀が、本能寺の変を起こし、山崎の戦いが始まります。 その時、息子の明智光慶は、どこで何をしていたのでしょうか? これには、二つの説があります。 亀山城で自害した 本能寺の変が起きた時、明智光慶は、近江・坂本城にいました。 その後、山崎の戦いにより、敗戦した明智光秀は、京都の小栗栖(おおぐりす)で殺害されます。 坂本城は、帰還した明智秀満(ひでみつ)が守っていましたが、羽柴秀吉軍の猛攻撃を受けます。 坂本城の落城と共に、明智秀満は自害します。 一緒にいた明智光慶も、 明智一族と共に自害したと言われています。 明智光慶(あけち みつよし)生存説 歴史上で謎が多い人物には、 「落ち延びて生きていた」という話は、付き物です。 父である明智光秀にも、落ち延びた伝説があります。 その息子である明智光慶もまた、父親同様、落ち延びた伝説があります。 妙心寺(みょうしんじ) 京都府京都市 檀那(だんな)・・・特定の寺院に属して、その経営を助ける=布施をする人です。 明智光秀の妻・煕子(ひろこ)は、妻木氏から明智家に嫁ぎにやってきました。 また、玄琳の師である三英瑞省は、妙心寺の塔頭・大心院(だいしんいん)の住職でした。 この大心院は、 細川ガラシャの夫である細川忠興が、檀那となっていました。 妻木氏と細川氏が関係していて、明智家と深い繋がりを持った寺院であることがわかります。 玄琳は、明智家の家系図をまとめた 「明智系図」(「続群書類従」所収)を作成しました。 また、妙心寺には、 「明智風呂」と呼ばれるお風呂があります。 大嶺院の密宗(みっそう)和尚は、明智光秀の叔父と言われています。 その密宗和尚が、明智光秀の菩提を弔うために、明智風呂を創建したと伝わります。 本徳寺(ほんとくじ) 住所:大阪府岸和田市五軒屋町 アクセス:南海本線岸和田駅から徒歩で8分 明智光秀側室の墓(あけちみつひでそくしつのはか) 千葉県市原市 千葉県市原市の不入斗(いりやまず)に 「明智光秀側室の墓」と伝わる墓石があります。 その墓には、 「フサの方・土岐重五郎・妻のツネ」の名前が刻まれています。 明智光慶は、別名を十五朗と表記されることもあり、 「重五郎=十五朗」と解釈されています。 フサの方は、明智光秀の側室で、妻のツネは、この地で明智光慶と結婚した奥方です。 伝記では、坂本城落城の際、明智光秀の側室のフサの方と明智光慶は、坂本城を脱出します。 家臣・斎藤利治に守られて、 上総(かずさの)国(現在の千葉県)まで、落ち延びました。 フサの方は出家をし、この地にある 西光院という寺院に入ったと言います。 この墓は、明智光秀の子孫であると伝承される一族の方に、管理されているようです。 なぜ、落ち延びた場所が、上総国だったのでしょうか・・・。 実は、上総国には、土岐氏が一部の領地を持っていました。 千葉県いすみ市(旧夷隅郡夷隅町)に万木城【万喜城】(まんぎじょう)がありました。 万木城主は、土岐為頼という人物でした。 明智家の出自は、土岐氏から出ています。 もしかしたら、二人は、上総土岐氏を頼り、この地を目指したのかもしれません・・・。 明智光秀側室の墓(あけちみつひでそくしつのはか) 住所:千葉県市原市迎田 アクセス:JR内房線 姉ヶ崎駅から車で10分 おわりに・・・。 明智光秀が謎多き武将なので、その子供達も謎が多く、真相が未だにわかりません。 詳しく記載されているのは、細川ガラシャぐらいではないでしょうか。 細川ガラシャの夫・細川忠興は、豊臣秀吉や徳川家康に気に入られ、大大名となりました。 細川ガラシャは、その妻であったからこそ、歴史に名が残っていると考えられます。 「明智光秀側室の墓」が千葉県にあるのは、この記事を書くまでは知りませんでした。 上総国(かずさのくに)はかつて、源頼朝が北条氏の力を借りて、打倒平家に向けて、挙兵した場所です。 源氏の流れを汲む明智家に、明智光慶は生まれました。 父の仇を獲る為に、上総土岐氏の力を借りて、豊臣家を倒す・・・。 明智光慶はそんな夢を見ていたのかも知れません・・・。

次の