松田聖子 コンサート 久留米。 松田聖子コンサート2019 久留米 セトリ・感想【8/5】|Lyfe8

松田聖子

松田聖子 コンサート 久留米

開催日:2019年8月5日 月 開場:17:30 開演:18:30 、8月6日 火 開場:17:30 開演:18:30• 開催場所:久留米シティプラザ ザ・グランドホール• 所在地:福岡県久留米市六ツ門町8-1• 予約枚数制限: プレミアムシート1名様 2枚まで S席 1名様 4枚まで• チケット情報 porta-net. jp チケットの関する情報は、porta-net. jpをご覧下さい。 今回、情報をご提供頂き追加公演のことを知りました。 コンサートや舞台情報など調べてはいますが、今回の松田聖子さんのコンサート情報は気がつきませんでした。 情報を親切にご連絡いただきましてありがとうございます。 ファン必見ですね〜! またまた貴重過ぎてチケットが手に入らない気がしますね。 考えてみたら、8月5日は久留米市の夏の一大イベント、筑後川花火大会の日なので、松田聖子さんのコンサートと重なってるのでホテルや交通機関は大混雑するでしょうね。

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松田聖子 コンサート 久留米

松田聖子さんは1962年3月10日福岡県久留米市荒木町に生まれました。 お父さんは社会保険事務所に勤務の公務員。 お母さんは庄屋出身で、お母さんの姉が院長婦人だった高良台病院で出産しましたが、難産でした。 生家は柳川城の城主だった蒲池氏第16代蒲池鑑盛の三男、蒲池統安の子孫。 江戸時代は柳川藩家老格だった旧家です。 幼少期は太っていた松田聖子さんは「ブタまんじゅう」と呼ばれていたそうです。 久留米市立荒木中学校に入学しテニス部に所属していました。 1977年4月8日カトリック系の久留米信愛女学院高等学校に入学。 キリスト教研究部に入部し、聖書の勉強に熱心でした。 行事の度に皆の前で聖書を読む「女神」という役職に選出されています。 大ファンだった郷ひろみさんのコンサートが福岡で行われるたびに見に行き、その頃から歌手に憧れるようになりました。 1978年CBSソニーと集英社主催の「ミス・セブンティーンコンテスト」九州地区大会で優勝。 CBSソニー制作部若松宗雄氏にスカウトされ、その紹介で東京音楽学院九州校に通うようになります。 1979年若松氏の導きによりサンミュージックプロダクションのオーディションを受けるため上京。 社長や男性社員はピンとこなかったが、直接歌唱を聴いた女性幹部社員に推されて合格。 同プロダクションと契約。 1979年7月高校を中退し、歌手デビューのために上京して堀越高等学校に転入。 松田聖子をいう名前をつけられます。 1980年2月資生堂の洗顔クリーム「エクボ」のCMイメージソングの歌唱起用が決定。 同年4月1日「エクボ」のCMイメージソング「裸足の季節」で歌手デビュー。 4月13日NHK総合『レッツゴーヤング』サンデーズのメンバーとしてレギュラー出演開始。 同年9月18日「青い珊瑚礁」でTBSの『ザ・ベストテン』の第1位獲得。 同年12月「青い珊瑚礁」で第22回日本レコード大賞新人賞を受賞。 弟31回NHK紅白歌合戦に初出場。 「聖子ちゃんカット」と呼ばれるヘアスタイルが大流行。 1981年初主演映画『野菊の墓』公開。 1982年8枚目シングル「赤いスイートピー」発売。 1985年1月23日交際を公にしていた郷ひろみさんとの破局について会見を行いました。 同年6月24日神田正輝さんと東京都目黒区サレジオ教会で結婚。 1986年10月1日長女神田沙也加さんを東京飯田橋の東京逓信病院で出産。 1987年結婚出産後もアイドル人気は衰えず、ママになったアイドルの意味の「ママドル」と呼ばれました。 1996年シングル「あなたに逢いたくて~Missing You~」が8年ぶりのオリコンチャート1位、売上げ110万枚のミリオンセラー、松田聖子さんの最大のヒットとなりました。 3曲目の「風は秋色」から1988年の「旅立ちはフリージア」までの24曲がシングルチャート連続1位を記録しています。 1985年に「DANCING SHOES」で海外進出しました。 1990年にはシングル「All the way to Heaven」「THE RIGHT COMBINATION」などを海外発表し、「THE RIGHT COMBINATION」はカナダで2位とヒット。 1990年代からは作詞は自分で行い、新しい聖子ワールドを展開。 32枚目のシングル「きっと、また逢える…」以降は作詞だけでなく作曲も自ら取り組むようになりました。 1992年のアルバム『1992Nouvelle Vague』から1998年のアルバム『Forever』までの6枚はセルフ・プロデュース全曲作詞作曲(作曲の多くは小倉良さんとの共作)が基本となりヒットさせました。 1999年のアルバム『永遠の少女』では11年ぶりに作詞を松本隆さんが担当し作曲も松田聖子さん以外の作曲家の作品となりました。 2011年には竹内まりやさん作詞作曲のシングル「特別な恋人」がオリコンチャート14位に。 2016年にはYOSHIKI作詞作曲のシングル「薔薇のように咲いて 桜のように散って」がチャート6位のヒットになりました。 テレビ出演は減っていますが、夏のコンサートや冬のディナーショーで稼いでいるようです。 日経エンタテインメントの調べでは、クリスマスのディナーショーの本数最多が松田聖子さんの 23本。 ディナーショーのチケットは5万円くらい、ビルボードライブ東京で行うライブチケットがなんと 8万9500円とのことです。 ギャラがCMが2800万円、映画が1000万円、ディナーショーが2000万だそうです。 さすがディナーショーの女王と呼ばれるくらいで、ディナーショーのチケットの代金も相当なものですね。 ディナーショーの売れ行きを見るとあの頃のアイドル人気は今も健在といったところでしょうか。 50歳の年齢を過ぎてもまだ聖子ちゃんワールドを保っているそのピチピチとした若さと美しさに脱帽です。 これからのますますのご活躍をお祈りしています。

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松田聖子 コンサート 久留米

SEIKO5 久留米紀行 次の項目へジャンプ 久留米は聖子、蒲池法子(現:神田法子)が生まれ育った街。 79年7月に久留米を離れ、 そのあとで両親も上京した今、久留米に戻る理由は完全に消滅した。 聖子も「墓参り」 という以外に戻れなくなってしまった生まれ故郷をご紹介。 久留米市 福岡県南西部に広がる筑紫平野の中心にあり、市の北部に九州一の大河・筑後川がゆった りと水をたたえ流れている。 農産物の大集積地であり、商工業都市。 久留米城の旧城下町 で人口約23万人。 ブリヂストン・月星化成・日本ゴム・アサヒコーポレーションなどの工 場があり、ゴム製品とシューズの産額は日本有数。 久留米の特産品は古くから木綿のかす り(久留米がすり)などの織物製品。 ごく小数の人が昔からの手織という織り方で国の重 要無形文化財に指定されている。 聖子はこの地で生まれ、17歳4カ月まで暮らした。 両親 の出身も共に福岡県で、父・孜(つとむ)さんは柳川市、母・一子(かずこ)さんは八女 市。 両市とも久留米市の南方に位置する。 全盛期には、市内のレコード店内に聖子神社と いう神棚まで作られ、また同時期に人気を博したチェッカーズのメンバーも久留米出身と いうこともあり、聖子やチェッカーズのメンバーの実家をまわるツアーも出現した。 久留米市マップ 石橋文化センター 写真: 久留米市出身でブリヂストン会長だった石橋正二郎氏が、会社の創立25周年記念に久留 米市に寄贈したもので、市立図書館、文化ホール、石橋美術館、市民文化会館、日本庭園 などで構成される大規模施設。 ブリヂストンの社名はこの石橋の苗字が由来している(英 語でストーン・ブリッジを逆さにしたもの)ことは有名。 聖子は中・高校の時にこの図書 館で勉強した。 高校時代の聖子のバス通学ルート上にある。 久留米信愛女学院 写真:/// 高等部が聖子の母校。 キリスト教のミッションスクール。 中学から短大までの一貫教育を 行なうお嬢さん校で、カトリック教育で校風が厳格なことで知られる。 聖子は中学の担任 に「あなたの成績では信愛はとても無理です」と言われてハッスル。 短期間の猛勉強の末 に合格したとか。 入学後、顧問のシスターが好きになりキリスト教研究部に入部。 デビューのきっかけとなったミスセブンティーンコンテスト[ラブアタックアイドル] 九州予選出場は2年生になったばかりの春休みに行なわれた。 3年生の1学期まで在籍し、 その後の上京で東京・堀越学園高校に転校。 両親は「芸能界で失敗してもいいように」と 信愛女學院に再転入手続きが出来るようにともとの担任に懇願していた。 1年生の時の阿 蘇山で行なわれた新入生学年研修合宿で、聖子は先生達から「女神」に選ばれる。 「女神」 は学年代表として全校生徒の前で聖書などを読みあげたりする重責をになった。 高校生と してのほとんどを信愛で過ごしたため、先生の善意によって聖子には信愛の卒業アルバム が贈られた。 信愛の中学・高校生は登下校で正門をくぐる際に、校舎に向かって一礼する という校則がある。 今は聖子が通っていた時代のチャペル(聖講堂)は校門奥にそのまま あり、現在は新しいチャペルが正門前に建てられている。 である。 福岡のコンサートには、お世話になったシスターが 毎年来ているという。 がある。 西鉄久留米駅 写真: 聖子は川崎麻世のコンサートに行くからと嘘をついて母を連れ出し「ミスセブンティーン」 に出場するために利用したのがこの西鉄久留米駅。 西鉄の終着駅である福岡市の天神は九州 最大の繁華街で、ミスセブンティーン九州予選が開かれた福岡市民会館へは天神駅から歩い て10分ほど。 思いがけない聖子の九州大会優勝で、蒲池母子は帰りの電車で大きな優勝トロ フィーと巨大な花束を抱えて復路、車内で右往左往することとなった。 一階はバスのターミ ナルともなっており、聖子はここでバスを乗り換えて信愛女学院行のバスに乗っていた。 信 愛はバスの終点で、信愛行きバスは5分間隔で運行され、かなりの本数出ている。 聖子はよ く友達とこの駅の甘味喫茶であんみつを食べていた。 中学時代の同級生と初デートしたのも この近辺の映画館。 自宅へ帰るには、50、51番乗り場から船小屋行きバスに乗り国道209号 を南下し高良台下車。 聖子の生家(久留米市荒木町荒木1XXX番地) 写真:、 元実家。 閑静な住宅団地の中にあり、平屋建てで敷地約80坪、門扉だけは取り替えられたが、 植木やブロック塀、家そのものは聖子が生まれ育った当時のまま今も残されている。 角地で、前は荒木中学の土手、横は荒木中学。 瓦は派手なオレンジ色で、近隣でもよく目立 つ。 荒木中学校からもよく見え、荒木中の生徒にとってもこの家が聖子の生家であるは周知 の事実。 中学校のテニスコートのすぐ脇に位置し、中学校への最短距離はわずか3メート ル。 中学校の裏門から聖子宅の門までも10メートルもない。 近すぎるので、聖子は中学生に なってから、いつも始業のチャイムが鳴ってから家を出るという、遅刻常習犯となった。 休 み時間に家に忘れ物を取りに帰ったり、昼食を家で食べたりすることのも日常茶飯事だった という。 中学時代はテニス部に入部し、最後まで続けた。 聖子が生まれた高良台病院もすぐ 近所にある。 最寄りのバス停は高良台(こうらだい)で家から歩いて約7分。 84年に父親の 孜さんが東京に転勤となったために、聖子は両親とはれてまた一緒に暮らすようになり、そ れ以来、この元実家は貸し出されている。 久留米市荒木町拡大マップ 荒木中学校 写真:、 、 市立中学校で聖子の母校。 福岡教育大学付属中学を受験したが、失敗し、この荒木中学校に 通うことになった。 自宅の隣に位置する。 聖子は遅刻魔だったのに、母・一子さんはPTA 会長だった。 JR荒木駅 写真:、 聖子宅から一番近い駅で、歩いて17分の距離にある。 九州の大動脈である鹿児島本線の駅の ひとつで、博多駅まで直通で行ける。 今もこぢんまりした木造の駅舎が郷愁を漂わせる。 蒲 池家では買い物などで外出するときは、この荒木駅ではなく、福岡市の中心街である天神に 直通する西鉄久留米駅のほうをもっぱら利用していた。 写真集「聖子Photograph」に荒木駅 にいる聖子の写真が掲載されている。 スカウトしたCBSソニーの若松宗雄氏の勧めで、福 岡市の平尾昌晃歌謡学院に週2回通うのに利用したのもこの駅。 荒木小学校 市立小学校で聖子の母校。 聖子は兄・光久(みつひさ)さんが通っていた久留米大学付設小 学校を受験するはずだったが、受験日当日に肺炎で寝込んで受験できず、荒木小学校に通う ことになった。 歩いて約15分の距離で、鹿児島本線の踏切を越えた所にある。 聖子は約40分 近くかけて歩いて登校していた。 小学校時代、聖子は放送委員で校内放送をしていた。 家か らは遠い。 高良台保育園 聖子が通った保育園。 自宅から歩いて約7分の距離。 高良神社 聖子が初詣で毎年行っていた神社。 上京する前にも参拝した。 久留米大学 私立大学。 80年11月2日に医学部学園祭で聖子はミニ地元公演を行なっている。 久留米大学付設高校 九州でも五指に入るという屈指の名門進学校。 聖子は当時、ここの男子生徒と付き合ってお り、下校時にわざと付設高校を通る路線のバスに乗ったりしていた。 しかし、この路線に乗 ることすら信愛学院で禁止されていた。 E-mail:.

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