打ち上げ花火 考察。 打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?を考察!難解なストーリー・結末を解説

打ち上げ花火(アニメ映画)ネタバレ感想と評価。『君の名は』共通点考察も

打ち上げ花火 考察

打ち上げ関連記事2つ目です。 1つ目はあらすじから感想まで書き尽くしましたが今回は核心に近い部分での考察を主にしていきたいと思います。 これも前回同様ネタバレを多く含んでいます。 というかネタバレしかありません。 何か思いつくたび更新していきたいと思います。 注 以下の文章には、「1st if」「最初の世界」など、私独自の表現をしている箇所があります。 説明は前の記事に書いてあるので、読む上で支障に感じる場合は先にそちらを読むことをお勧めします。 日常モノでもあり、恋愛モノでもあるでしょう。 解釈は人それぞれなので、これから述べる私の考察も数多くあるうちの一つの参考として頭の隅にでも置いていただけると幸いです。 なずなは最初夏休みの間に転校する由を教師に伝えておいたため、予めそうなることはわかっていました。 となると、彼女はその日に限って母親たちから逃げる必要がなかった。 祭りのどさくさに紛れて逃避しようという想いが少なからずあったのかもしれませんが、その時はまだ逃走先の当てがありません。 あまりにも無謀すぎます。 では本気で逃げていなかったのか?自分の衣服などを詰め込んだ荷物が入ったスーツケースを引いているところは良いのですが、浴衣姿なのが引っかかります。 浴衣は祭りの服装ですが、これで「本気で逃げている」と思われることはまずないでしょう。 ですがこうなると、典道に助けを求めたシーンと矛盾してきます。 なずなは典道に、「典道が水泳勝負で勝つはずだった」と予測していました。 彼女もまた、後の典道同様水晶玉を投げて典道が勝つ未来に収束することを望んだのでしょうか。 はたまたそうだとしたら、祐介が勝った世界では全てうまく行かなかったのか。 典道が勝つ世界にしか、彼女の願いは叶わなかったのか。 私はこの記事を書くまでずっと「観客が最初に見た光景、平凡な田舎での日常生活こそが"元の世界"」と思っていましたが、この仮定を考慮してからは想像の幅が広がったような気がします。 これが成り立つなら、最初に見たあの世界ですら"元の世界"ではなく、"なずなが改変 してきた何番目かの世界"ということになります。 冒頭のシーンで水泳水着で海の底に落ちる二人が描かれていますが、終盤の海に沈む二人のシーンによく似ています どちらも背景に花火が映っている。 彼女が気付いていないだけで、実は二人にとって理想の世界があったのではないでしょうか。 ただこの仮定においては重大な疑問が残ります。 以前まで水晶玉を投げ続けていたとするなら、なぜその後も投げなかったのでしょうか?母親に捕まりスーツケースから落ちた水晶玉を典道が拾ったことで、所有権がなずなから典道に切り替わったということでしょうか。 その後は水晶玉を投げるのは決まって典道です。 なずながいるシーンでも、「なずな、投げるぞ」とだけ許可を貰い投げています。 なずなの所持品なのに他人に託すものなのかな、とこの点はずっと謎に包まれています。 典道が一回水晶玉を投げた後の教室のシーンにて、なずなが彼に思わせぶりな表情を向けていましたが、あれは色々な意味に捉えることができるかもしれません。 「典道が私の思う通りに動いてくれた」、「典道を恋人として見ている」、「典道の今後の行動に期待したい」など。 何かしらの願望があったことは間違いなさそうです。 なずなが物語中盤から口にしている「駆け落ち」とはどういうことでしょうか。 定義は上記の通りですが、この意味ではないと私は考えました。 「駆け落ち」に対して「心中」と表現を間違えた典道ですが、あながち間違いではないと思います。 典道のこの時の願いは、「とりあえず彼女を救ってやりたい」。 しかしこの時点でのなずなの願いは分かりません。 「典道と一緒に逃げたい」というより、「典道が必要」なニュアンスのように取れます。 要は親から逃げる云々より、典道という存在を確保することが彼女にとって重要だったのではないでしょうか。 それが恋人という形であっても、心中というバッドエンドで終わる関係であっても。 典道がの頂上で水晶玉を投げる直前、走ってきた祐介に突き飛ばされますがあの行動は少し疑問に感じました。 水晶玉の能力が改変にせよにせよ、典道が「もし〜〜〜なら」と願う以前の世界がどれを引きずっているのかが分かりません。 なずなに最初の世界の出来事を伝えても「知らない」の一点張りだったことから、恐らく水晶玉を投げる人以外の人間が保持できる記憶は、その世界と直前の世界が限界かと思われます。 もしそうなら、祐介が激昂して突き落とす前の世界は「自転車になずなを乗せて祐介を置いていく」という世界なのでしっくり来ます。 私は一応これで勝手に納得しています。 花火は希望の象徴、だそうです。 そんな花火が見たこともない上がり方をしているというのは不幸を表しているのではないでしょうか。 典道がそれを察したのかは分かりませんが、「こんな世界、あってはいけない」と、おかしな世界を全てやり直しています。 そんなおかしな世界が直ったのが、花火師が水晶玉を打ち上げた世界というわけなのですが、これがまたどんな世界か分からない。 花火師は酔っ払っていたので何かを望んでいたわけでもなく、また典道が何かを望んだわけでもない。 ある意味何の干渉も受けていない、純粋な世界になったということでしょうか。 玉虫色な回答になってしまいますが、「もしも」が詰まった氷が二人の目の前で砕け散った描写は、もう他の可能性は完全に消えてしまったことを意味するのかもしれません。 結局、最後はどうなったのでしょうか。 ヒントは教師が典道を呼ぶ声、祐介の表情ぐらいしかないと思います。 ------- 近日編集予定 ------- "なずな"のなのですが、「あなたに全てを捧げます」らしいです。 畑がかなり描かれているので意味があると思いますが、果たして誰に捧げているのでしょうか。 というのは愚問ですね、ではなぜ捧げるのでしょうか。 典道に全てを任せられる、と思ったのは最初の世界で典道を必要としていた点から分かりますが、どうも捧げる点だけがうまく解釈できません。 結果としては主人公である典道、ヒロインのなずなが救われていません。 ラを個々の解釈に委ねてしまうと意見も無数に出てきますが、二人が愛し合うのは 改変 後の世界での出来事です。 しかもその世界が全て存在してはいけないものだとしたら、彼らは恋仲であるべきではなかったことになります。 これでは報われない。 そういう想いも込めて、典道は水晶玉を投げ続けたのではないでしょうか。 花火を下から見るのは花火師の方々くらいですかね。 同じ映画で2記事書くこと、多分これからもないのでは?普段は何も考えずに映画を楽しむ派なので、慣れないことをすると頭が疲れますね。 楽しいことですが、皆さんも考察は程々に。 じゃあな。 yuu-lightprogrammer.

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ストーリーが難解だったので「 打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? 」の考察をしてみた。 │ あにそさ

打ち上げ花火 考察

2017年8月18日(金)にようやく公開された映画 「打ち上げ花火下から見るか、横から見るか」 感想を見てみると、酷評が多くありますね 笑 スポンサーリンク なぜ酷評されているのか、映画を観た私も感想と共に考察していきたいと思います。 酷評される理由 ツイッターを見てみると、このような感想が。 打ち上げ花火、僕が見た感想ツイート二つを合わせると、君の名は感覚で見に行ったやつは期待外れ感がすごい、文学作品として見ながら、登場人物の言動の意味、タイムリープ時点などを考察しながら見ると面白く、後で語り合いたくなる そんなかんじらしい — きっしー JRzwy 打ち上げ花火 感想メモ 良 なずなちゃん可愛い 主題歌、BGMがいい 脇の声優が豪華 悪 キャラデがぱっとしない 作画が映画クオリティではない 主役が棒 心理描写がない為感情移入しにくい 母親が良くも悪くも女 宮野の無駄遣い ラストがはっきしないエンド — ふけがお yosyua1104 打ち上げ花火下から見るか上から見るか見終わったお 感想は….. 曲がよかった。 — NAO NAOYUKI0930z 打ち上げ花火、下から見るか横から見るか? 観ました! 感想ですが、 ・ストーリーがよくわからない。 — 広嶋一樹 4uhr まず、この映画ですが、フジテレビでドラマ化されており、大体の内容が頭に入っている方も多いと思います。 そんな中でアニメ化され、声優陣は超豪華とくれば、この映画に対する期待値はとても高くなります。 それに、「君の名が」を見た人たちにとってみれば、またあのような物語が観られるのでは?という期待から「打ち上げ花火」を観て何かが違う?と感じた人が多かったのではないかなと感じました。 よく感想に書かれている意味が不明という感想は私も抱いてしまいました。 典道となずなが電車に乗ってどこかへ行こうとするシーンがあるのですが、そこでなずなは、 「女の子はどこでも働けると思う。 」 といい、水商売をやったり、アイドルになろうかな?と言って典道を惑わせます。 そこで、松田聖子の「瑠璃色の地球」を歌いだすのですが、映像がアイドル?な映像に切り替わります。 まるで、子供の歌を歌う番組?というかなんというか、、いきなりなずながもしもアイドルになったらの映像に切り替わるため、ついて行けませんでした。 そして、そのシーンが結構長い、、 なぜそこでアイドル映像を入れ込むのか意味がわからないし、もう十分だと思うのに延々と流れていたため、ここで「???」と感じてしまった人が多かったのではないかな。 と感じました。 歌うだけで十分だったと思うのですが、、 あとは、謎が残るシーンがいくつかありましたね。 まず、丸い玉は誰のものなのかということ。 映画の中だけで類推してみると、なずなの父親が残したものではないかと思いました。 なずなの父は水難事故で亡くなっており、なずながガラスの球を見つけた場所で発見されました。 そのため、やり残したことがあるなずなの父が、タイムループできるガラスの球をなずなに残したとも考えられると思いました。 話の中で出でくる世界が正しい世界なのそうでないのかは、丸いものがヒントになっていましたね。 普通の世界では、風車も時計回りに回ります。 しかし、典道が作った世界では、半時計回りになっていました。 風車や灯台の光、ガラス玉の破片など、よく見ると回転の方向が異なっていました。 私が見つけられたのはこのくらいですが、他にもいろいろな比喩が隠されているかもしれません。 声優や映像がとてもよい。 思春期の恋愛や人間関係を映像や比喩を使ってうまく表現している。 想像を膨らませることが好きな人は好きな作品。 「君の名は」と同様、伏線があり、それを確認する上では何度も観る楽しみがある スポンサーリンク 最後までお読みいただき、ありがとうございました!•

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米津玄師 打ち上げ花火 ガチ考察

打ち上げ花火 考察

あらすじ(ネタバレ注意) 友引高校は、学園祭を明日に控えて大騒動。 夜食調達のために、深夜の友引町に出かけたあたると面堂は、異様な雰囲気のチンドン屋とデカ帽子の少女を目撃した。 翌日、生徒たちは再び学園祭の準備をしている。 時間が進まず、毎日が学園祭の前日なのだ。 この事態に気づいた温泉マーク先生とサクラは、友引高校自体に原因ありと生徒たちを追い出し、その解明に乗り出した。 しかし、温泉マークもいつの間にか消え、サクラは錯乱坊に相談しようとするが、錆ついた鍋を残したまま錯乱坊も消えていた。 あたるたちは久々に帰宅。 しかし、無事に帰れたのはラムとあたるだけ、メガネたちはバスに乗っても、電車でも町中をグルグル回るだけで、友引高校の正門前に戻ってくるのだった。 面堂のハリアーに乗って空から偵察に出かけた一同は、友引町全体が巨大な亀の背に乗って、宙に浮かんでいるのを見た。 あたるたちのサバイバル生活が始まった。 生き残っているのはハリアーに乗っていたものと諸星家の人だけ。 人々を失った友引町はだんだん廃墟と化してゆく。 ラムはこの無期限に続くサバイバル楽園に上機嫌だったが、この楽しみもつかの間だった。 例のデカ帽子の少女が現われる度に、竜之介がしのぶがと一人一人消えて行く。 サクラと面堂はあたるを囮に使ってこの事態の張本人を追いつめる。 その姿は、人類始まって以来、夢を作り、人々に邪気を吹き込み続けていた夢邪気だった。 あたるたちのいる世界は夢邪鬼の作ったラムの夢の世界なのだ。 あたると夢邪鬼の一騎討ちが始まった。 夢邪鬼の魔法のトランペットを手に入れたあたるが、それを吹き鳴らすと夢を喰う伝説の獣・バクが現われた。 バクはあたるのいる夢の世界を食べ始める。 理想の夢の世界を破壊された夢邪鬼は復讐のため、あたるに次々と悪夢を見せる。 その悪夢の循環から解き放たれる方法を謎の幼女から教わったあたるはそれを実行する。 再び学園祭前日の友引高校で目覚めたあたる。 果たしてそこは現実かはたまた夢の世界か…。 ( より引用) 解説 本作を製作する際に監督の押井守さんは以下のようなコメントを残されたそうです。 「『うる星やつら』は好きではない。 これって、誰が見ても相思相愛な2人が互いを好きだと認めないゲームをして遊んでるだけの漫画じゃないか。 」 その言葉を体現するかのようにして作られたのが、この「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」という作品なんですね。 本作はヒロインであるラムの夢の中で物語が進行していきます。 ダーリンとお母さまやお父さまやてんちゃんや終太郎やめがねさんたちとずっと楽しく暮らしていたいっちゃ。 それがうちの夢だっちゃ。 」 これは劇中のラムのセリフですが、こんなラムの思いが本作の夢の世界に反映されているんですね。 そしてラムはこの自分の夢の世界を維持するために、この世界に異議を唱える存在や自分の恋敵を次々に夢の世界から抹消していきます。 自分の望む世界を、文化祭の前日を何度も繰り返すんですね。 しかし、終盤についに主人公のあたるが、現実世界へと戻ることを決断した時点で物語が終了します。 そして、彼のセリフに非常に重要なポイントが隠されています。 好きな人を好きでいるために、その人から自由でいたいのさ。 」 つまり、ラムの夢の中で繰り返されていた楽しいみんなでの生活は、「モラトリアム」そのものだったんですね。 あたるはそんな世界を拒絶して現実の世界へと戻って行きます。 そして、あたるが現実世界に戻るきっかけとなったのが、ラムへの好意の自認であったわけです。 そしてその好意が発展していくことで、この作品における事件のすべてが収束していきます。 結局のところ、何が言いたいのかといいますと、押井守は2人が大人になるためのイニシエーションとして、「恋愛」を描いたのではないか?ということです。 「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」という作品では、ラムの「夢」の世界が描かれて2人がお互いの好意を認識した時点で、「夢」というモラトリアムから現実へと戻ってくるように設計されているのです。 しかしですよ、この「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」という作品には、実は致命的な弱点があるんですね。 それはあたるは現実世界に戻ったように見えて、実は現実世界になど戻れていないという点なんですね。 というのも、「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」という映画作品自体がフィクションという虚構でしかないからなのです。 フィクション内でいくら現実世界を描こうとしても、それはフィクションに過ぎません。 つまり、あたるはラムの生み出した「夢」の世界から、恋愛感情の自覚というイニシエーションを経て、脱出したわけなんですが、抜け出した先にあるのも結局のところ「虚構=フィクション」の世界でしか無かったんですね。 まとめますと、恋愛感情の自覚が「夢=虚構=モラトリアム」からの脱出に必要なイニシエーションであり、それがそのまま大人になるためのイニシエーションであるということを押井守監督はこの「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」の中で描こうとしたのです。 しかし、フィクションの中で、いくら「現実世界」を描こうとしても、それがフィクションの中にある以上、それは「虚構=フィクション」の域を出る事ができないというジレンマを抱えていたんですね。 33年の時を経て・・・。 さて、ここから映画「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の考察に移っていきたいと思います。 本作が作られた最大の意義は何かと考えた時に、それは33年の時を経て「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」を完成させたことだと考えています。 本作の世界構造 さて、まずは本作「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の世界構造について説明を進めていきます。 上に手書きではありますが、簡単に世界構造を図解した画像を掲載しました。 まず、一番外にあるのは、この映画そのもの、つまりフィクションの世界ですね。 これがそもそもの大前提になります。 フィクションの世界というのは、我々、つまり「現実世界」の人間が作り出した「虚構世界」なんですね。 このフィクションの段階では、水泳対決で祐介が典道に勝利して、なずなは祐介を祭りに誘います。 祐介は典道との約束をすっぽかしてしまい、結果的になずなは母親に家に連れ戻されてしまいます。 すると、典道はガラス玉を使って、このフィクションの世界に働きかけます。 そして自分だけの世界を作り出していきます。 典道は祐介に水泳対決で勝利し、なずなは典道を祭りに誘います。 しかし、駅でなずなの両親に捕まってしまい、なずなは連れ戻されてしまいます。 そして自分が作り出した世界を自ら改変していきます。 典道は両親の手からなずなを救い出し、一緒に電車に乗り込みます。 そして灯台で2人で花火を見るのですが、追いかけてきた祐介に押されて灯台から転落してしまいます。 さらに、典道はガラス玉を使って働きかけていきます。 自ら自分の世界に改変を加えていきます。 典道となずなを乗せた電車は海の方角へと向かっていきます。 2人は海に向かい、2人の時間を過ごします。 そこで2人はお互いの好意を確かめるのでした。 イニシエーションとしての恋愛 先ほども述べたように、押井守監督は「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」において、子供から大人になるためのイニシエーションとしての恋愛を描き出しました。 一方で岩井俊二が手掛けたオリジナル版の「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」のテーマも実は同じで、イニシエーションとしての恋愛なんですよね。 ドラマ版につきましては、個別の記事を書いておりますので、良かったらご覧ください。 参考: こちらの記事でも述べていますが、典道は花火を下から、祐介達は花火を横から見るように演出することで、恋愛というイニシエーションを経て、少し大人になった典道を印象付けました。 アニメ版「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」はストーリーや設定こそ大きく変更されましたが、実はそのテーマ性は変化していないんですね。 アニメ版はいわば、ドラマ版と「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」の要素を併せ持った作品に仕上がっているわけです。 典道はガラス玉を使って夏の1日を何度も繰り返します。 それはいわばモラトリアムの延長なんですね。 なずなと典道はいわば早い段階で両想いなんですよね。 しかし、お互いに気づかないふりをしているわけです。 これは「うる星やつら」におけるラムとあたるの関係性に似ています。 そして、典道はなずなに思いを告げようとはしませんが、ただ、なずなと一緒に居たいという思いから何度もその1日のモラトリアムを繰り返すのです。 これも「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」のラムの思いに通じるものがありますよね。 恋愛関係を発展させるのではなく、ただお互いの思いは秘めたままで一緒にいる、その夏の1日を永遠に繰り返していたい、これが典道が何度も自分の世界を書き換え続ける理由なのです。 そして典道はなずなに自分の好意を打ち明けようとします。 その刹那、ガラス玉が花火師のおじさんによって打ち上げられて、空で弾けます。 つまり、典道が恋愛というイニシエーション達成したことで、典道の作り出した世界が崩壊へと向かっていくことになるんですね。 そして砕けたガラス玉の破片には、典道の世界で実現される可能性のあった「IF」のモラトリアムたちが映し出されました。 スポンサードリンク 考察:なぜ「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」を超えたのか? ここからは、アニメ版「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」が33年の時を経て、なぜ「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」を超えたのか?について考えていきたいと思います。 みなさんは本作のラストシーンを覚えていますでしょうか?教室で担任の先生が点呼する中で、生徒が返事していきますが、そこに典道となずなの姿はありませんよね。 この点はいろいろな考察ができると思います。 しかし、私はこのラストシーンにこそ、アニメ版「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」が作られた最大の意義が隠されていると考えています。 「今度はどの世界で会えるかな?」 典道となずなは、映画そのもののフィクションの世界で出会い、そして何度も改変される典道の世界でも繰り返し会ってきました。 つまり、この二人は恋愛というイニシエーションを経て、また新たな世界へと旅立とうとしているのです。 それは元からいた映画の中の「現実世界=フィクション」でも典道が作り出した世界の中でもないのです。 ではどの世界なのでしょうか?それは、「映画=フィクション=虚構」の世界の外、つまり我々が生きている現実世界なのです。 つまりラストシーンである「映画=フィクション=虚構」の世界の中に典道となずなの姿が無かったのは、2人が恋愛というイニシエーションを経て、「夢=虚構」から、つまり映画そのものという虚構から真に解き放たれたのであるということを示しているのです。 つまり本作「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」の世界構造というのは、我々の生きる現実世界をも巻き込んだ壮大なメタ構造の様相を呈しているわけです。 これは押井守監督が、映画「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」でも表現しきることができなかったことです。 33年の時を経て、ラムとあたるはようやく長いモラトリアムを脱し、現実世界へと帰還することができたのではないでしょうか? キャラクターをフィクションから解き放つという大胆なメタ構造を用いて、「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」が33年前に描き切れなかった主題を「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」は描き切って見せたのです。 ではなぜ、恋愛がここまで重要視されるのかということを考えてみたいと思います。 おそらく多くの人が小学生から中学生の時期に初恋を経験すると思います。 この時期には、自己認識だけがどんどんと発達してきた一方で、ゆっくりと発達してくる他者認識というものがようやく顕在化してくる時期に当たるんですね。 つまり、自分が全て、自分が大好き、自分が何事にも優先されるという自己認識しか持たない人間は未熟なんですね。 しかし、徐々に人間は社会性や他者認識を身につけていきます。 そして、自分と同等の存在=絶対的他者に対して好意を持つ、という他者認識の最たる例が恋愛なのです。 しかし、人間は他者認識を身に着けずに、自己認識だけを保持し続けて、「子供としてのモラトリアム」を延長し続けることができます。 これが、「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」においてラムが作り出した世界であり、「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」において典道が作り出した世界なんですね。 これらはまさに自分のための世界であるわけです。 ラムも典道もそれぞれ自分の思惑があって、このモラトリアムを形成しているのです。 しかし、2人はそれぞれあたる、なずなへの好意に気づき、相手を絶対的他者として受け入れることで、他者認識を身に着け、大人への一歩を踏み出すわけです。 他者認識の最たる例こそが「恋愛」であり、それ故に「子供のモラトリアム」からの脱却において、「恋愛」はイニシエーション的役割を果たすのです。 ただドラマ版の大ファンとして言わせていただくなれば、中盤までのドラマ版のストーリーをなぞっている部分の出来は酷すぎます。 こればっかりは擁護のしようがありません。 ドラマ版の大ファンである大根仁が脚本に携わっておきながら、なぜこんなことになったんでしょうか? またアニメーションのレベルも正直劇場版クオリティに達していません。 キャラクターの顔の作画の統一感がありませんし、出来の悪いCGが随所に見られました。 製作期間が短かったなんて話もありましたが、それにしても酷いです。 しかし、中盤以降の出来は本当に素晴らしかったと思います。 考察はいろいろと出来ますが、今回は「うる星やつら2:ビューティフル・ドリーマー」との比較をしながら、作品の素晴らしさを考えてみました。

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