法隆寺 金堂 火災。 文化財防火デーの目的と由来、法隆寺の火災原因について

龍の謂れとかたち 法隆寺金堂の二層目の軒を支える龍

法隆寺 金堂 火災

今日という日はどんな日でしょうか? 日本史の中の出来事を覗いてみましょう。 1949年(昭和24)の今日の朝7時頃、世界最古の木造建築とされる法隆寺金堂で火災が発生し、国宝の壁画を焼損しました。 出火の二日前に、法隆寺の境内に住む女性のところへ毒入りの菓子が届くという怪事件があり、放火ではないかとする説もありましたが、現在では、出火の原因は、そこで使われていた電気座布団の漏電とされています。 この頃、法隆寺では劣化が進んでいた壁画を修復する為の模写作業を行なっていたのでした。 この火災をきっかけにして、1950年 5月文化財保護法が制定されました。 また、1955(昭和30)年からは、この日は文化財防火デーとなりました。 火災が発生し、激しく燃えている時、当時の法隆寺貫主(かんしゅ)の佐伯定胤(さえきじょういん)氏は 「お止め下さるな。 私はあの火の中へいかねばばらん。 手を放して下さい。 」 と言って燃え盛る金堂の中へ飛び込もうとなさったのを、寺僧達が押しとどめたそうです。 押しとどめた…というよりも羽交い締め(はがいじめ)にして止めたそうです。 鎮火したあと、水浸しになった金堂に行くと阿弥陀浄土(あみだじょうど)の大壁は見るも無残な有様で、そこに佐伯貫主は長時間立ち尽くしておられたそうです。 そこには放水によって出来た穴が三箇所も…そして、この日の夜、50年間務めた法隆寺貫主を辞退したのです。 1200年もの間、多くの人々の力添えで守られてきた文化財が、事故とはいえ、一瞬にして焼損してしまったのはさぞかし辛かったことでしょう。 この事件は日本国民に衝撃を与えたのみならず、海外でも注目されたようです。 太平洋戦争中に、米国空軍に対し、日本の文化財を守るように活動したハーバード大のウォーナー博士は 「なんという驚きだ。 戦火から日本の文化財を守ったのは私一人の力ではない。 私と同じ考えの者が皆協力してくれたから、日本の文化財を守れたのだ。 日本は文化財を大事にしようという意識が薄いのではないか。 」 と嘆息したそうです。 また、東京消防庁のウェブサイトに、ロンドン・タイムズの当時の東京支局長のコメントがでているので紹介します。 文化財防火デーの契機となった法隆寺金堂火災」より引用) この火事で壁画が焼損してしまった法隆寺金堂は1954年(昭和29)に解体修理を終えて復旧しましたが、壁画のあった壁は空白のままでした。 1967年(昭和42)、法隆寺からの発願で再現壁画を制作して壁にはめ込むことになり、再現壁画は翌1968年(昭和43)2月に完成、パネルにはめ込んだ上で金堂の壁に設置されました。 そして同年11月に開眼法要が営まれ、法隆寺金堂内部はようやく火災前の姿に戻ったのでした。 法隆寺では、毎年1月26日(金堂火災の起きた日)、金堂と収蔵庫にて「金堂壁画焼損自粛法要」が営まれ、その後防火訓練が行われています。 火事は怖いですね。 まだまだ寒い日が続きます。 火の元にはくれぐれも気をつけましょう。 今日はここまでです。 人気記事 Top10• 4,614件のビュー• 3,143件のビュー• 3,135件のビュー• 2,722件のビュー• 2,558件のビュー• 2,304件のビュー• 2,267件のビュー• 2,254件のビュー• 2,231件のビュー• 2,184件のビュー• Archives• Profil.

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法隆寺・金堂

法隆寺 金堂 火災

四天王立像 Standing statues of Shitenno 国宝 持国天立像 増長天立像 広目天立像 多聞天立像 (引用:新版 古寺巡礼奈良1『法隆寺』淡交社)• 木造 彩色切金• 像高:持国天133. 3cm、増長天134. 3cm、広目天133. 3cm、多聞天134. 2cm• 須弥壇の四隅に安置される。 (東南:持国天、西南:増長天、西北:広目天、東北:多聞天)• 飛鳥時代• いずれも眉根を寄せ、甲冑を着け、手に武器をとり、邪鬼の上に直立する謹厳な姿。 直立する動きのない姿勢が特徴(後世の四天王像は体を大きく動かし、仏敵に備える体勢をとる)• 両腕から垂下する天衣の下端が後ろから前に翻るのは飛鳥様式には見られない奥行き方向の表現であり、新しい様式展開を看取することができる。 樟材製で金箔を細かく切って文様を表す切金を交えた彩色が施される。 外陣旧壁画 Gejin Wall-painting 重要文化財 1号壁 2号壁 3号壁 4号壁 5号壁 6号壁 7号壁 8号壁 9号壁 10号壁 11号壁 12号壁 (引用:『法隆寺』法隆寺発行)• 外陣の内壁に大小12面の壁画が描かれていた• 釈迦、阿弥陀、弥勒、薬師の各浄土を描いたとされる4面の大壁と菩薩像を描いた8面の小壁• 6号壁の阿弥陀浄土図(中央に阿弥陀如来、左右に観音・勢至菩薩、上方には天蓋)が代表的• 鉄線描とよばれる肥痩のない輪郭線や強い隈取り、肉体の抑揚を明確にあらわす描法が特徴• 7世紀後半に伝えられた初唐の充実した絵画様式を基本としている 位置 名称 解説 1号壁 大壁 著色釈迦浄土図• 東側の大壁• 中尊は紅衣をまとい、印相は説法印で釈迦の特徴が顕著• 左右に脇侍菩薩2、羅漢10、上部に円い天蓋と飛天2を描く 2号壁 小壁 著色菩薩像• 左手に紅蓮華を持つ半跏像• 5号壁の像と一対をなす日光菩薩と推定• 10号壁の薬師の脇侍 3号壁 小壁 著色観音菩薩像• 宝冠に化仏があるので観音像 4号壁 小壁 著色勢至菩薩像• 宝冠に水瓶を付けているから勢至像 5号壁 小壁 著色菩薩像• 2号壁と対をなす月光菩薩と推定• 10号壁の薬師の脇侍 6号壁 大壁 著色阿弥陀浄土図• 西側の大壁• 阿弥陀三尊と20余の小さな新生菩薩を現す• 中尊は説法印を結ぶが、説法印の阿弥陀は奈良時代に多い• 脇侍菩薩は向かって右が宝冠に化仏を付けた観音、左は宝瓶を付けた勢至 7号壁 小壁 著色観音菩薩像• 観音の通常の姿、聖観音と推定• 3号壁の観音像と似ている 8号壁 小壁 著色文殊菩薩像• 詳細は不明• 対をなす11号壁が普賢菩薩であることから、普賢に対する文殊であると推定 9号壁 大壁 著色弥勒浄土図• 北側西寄りの大壁• 剥落が多く、不明瞭な部分が多い• 中尊の他、脇侍菩薩2、神王形2(梵天・帝釈天の説あり)、四神4、金剛力士2、羅漢2• 前方に獅子、天蓋の両側に飛天を描く 10号壁 大壁 著色薬師浄土図• 北側東寄りの大壁• 本来は東側にくるべきであるが、南方釈迦が東に回ったので、この位置になったと推測される• 中尊は両脚を垂下し、左手に宝珠様の持物(薬師の瑠璃宝珠と推定)が確認される• 脇侍を含む菩薩4、羅漢2、神将6が左右対称的に描かれ、下方に獅子、天蓋の左右は飛天を配す 11号壁 小壁 著色普賢菩薩像• 騎象の普賢菩薩で観普賢経などに説かれている来儀像 12号壁 小壁 著色十一面観音菩薩像• 頭上の十一面• 7号壁の聖観音と対をなし、これらが相対として描かれたことは観音信仰の盛況を示す.

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4月分の当選者発表

法隆寺 金堂 火災

四壁十二面の国宝壁画は焼けてしまった。 朝日新聞は出火の翌日の社説で、「経済の自立的再建が当面の最大課題であるが、文化のことは金が出来てからゆるゆるやるというのでは、ものになる日はついに来そうもない」と書き、二日後の二十八日のコラム「天声人語」では「 法隆寺を焼くような国は文化国家とはいえない。 (略) 昭和国民の二大失敗は、侵略我と金堂の焼失である」と惨事を評した。 焼損から再現までの様子と文化財保護の重要性を伝えた就面を紹介する。 当時、国宝である 金堂や五重塔などの解体修理が行われていた法隆寺には、工事開始を告げるサイレンが毎日午前八時に鳴っでいた。 しかし、その日、通常の時刻より 昭和24年(1949)1月26日の朝発生した「 法隆寺金堂全焼」を伝える朝日新聞の号外一時間ほど早くサイレンの音が聞こえたようで、 法隆寺・佐伯定胤貫主は「普通の鳴らし方にも非常警報の鳴らし方に非ず」と日記に記したという。 法隆寺の火事を伝える一報は、奈良発の号外として「けさ法隆寺金堂全焼」の見出しで五行の記事を掲載した。 ショックを隠せず 「二十六日午前七時ごろ法隆寺金堂= 奈良県斑鳩町=から出火、 世界最古の木造建築物である同金堂をついに同人時全焼した」と記し、原因は「 漏電説が有力」と報じた。 早版号外では、見出しが「法隆寺全焼」となっており、伽藍全体が焼けたともとれるものになっていたという(一九八九年五月二十二日付け、連載『金堂炎上4』)。 翌二十七日には一面トップで 、「法隆寺金堂炎上 国宝壁画大半失う」の大きな見出しとともに、十一段の記事となっている。 焼損した壁画に合掌する佐伯貫主を写したものが掲載されている。 催災当時八十三歳だった佐伯貫主は「なんとも申し訳ない」と語り、法隆寺国宝保存会顧問の 伊東忠太氏は「困ったことになった。 再生は望みなし」とショックの大きさを隠せなかったようだ。 なお、 佐伯貫主は出火の責任をとって、二日後に貫主辞任を表明(二十八日付け)。 後任には 間中定泉氏が就くことになる。 仏像と同じく壁画に描かれた仏は信仰の対象でもあったが、古代美術として「インドのアジャンタ、あるいはペルシャの影響を受け(略)写実的なデッサンの確かなこと。 構図の緊密なことなど美術的に見ても わが国が世界に誇り得る宗教画の最高傑作」と紹介している(二十七日付け)。 実はこの壁画は昭和十五年(一九四〇)から模写が行われていた。 描かれた年代は七〜八世紀とされるが、剝落が進んでおり明治期から保護すべきだという声があがっていた。 大正期の法隆寺壁画保存方法調査委員会の設置などを経て、 昭和九年(一九三四)に総工費百七十五万円、十〜十五年の修理期間をかけることを国が決め、文部省(当時)に法隆寺国宝保存事業部などを設置。 寺に 国宝保存工事事務所があった。 これが 昭和六十年(一九八五)まで続いた 「昭和大修理」の始まりである。 解体修理は難問が多く、金堂や五重塔にかかる前に、比較的構造が簡単な食堂や東大門などから進められた。 金堂壁画についでは現状記録という観点から写真撮影をし、壁画の模写をすることになっていた。 太平洋戦争が勃発する前年の昭和十五年(一九四〇)八月から二年の予定で始まったこの模写は、 戦局の悪化や参加した画家たちが招集されたことなどもあって、十七年以降には自然休止してしまう。 戦後の二十二年から模写が再開され、完成が急がれていたなかで、 二十四年一月二十六日の火災の前日夕方まで作業が続けられていた。 世界に誇る国宝壁画復元の機運は一気に盛り上がる。 裏面では、 「科学の権威を動員」という見出しで、「法隆寺金堂の炎上をきいて 東西の学者が続々大和法隆寺にかけつける、なくなったものへの 痛恨も大きいが、 穴だらけの土塊となってしまった 十二面の残部と焼残った黒焦げの大柱四十二本をもとでにあの金堂の雄姿が再建し得るかどうか、日本人のだれもが望むこの復元問題」とし、学者や知識層、関係者などの意見を紹介している。 また、出火原因については、「原因調査の手段として初め失火、放火の二仮定説をたて取調べに当たった」という奈良地検の談話を紹介しっつ、「放火説は今のところ現場にもその他にもこれを肯定する根拠はない。 自然失火説が有力になってくる」と報じている。 そして二月二日付けで、「 奈良地検が出火原因は電気座布団の過熱からと断定を下した」と掲載した。 焼損した金堂壁画の保存から再現への道のりを記事で追ってみる。 出火から四日目の二十九日付け紙面では「十二面とも抜取り 大宝蔵殿に保管・金堂壁画の対策決る」の見出しを掲載し、二十八日に行われた緊急対策協議会の結果を報じている。 その内容は、「 壁全体に硬化法(アクリル樹脂注射と噴霧)を施して鋼鉄のフレームで締付けたうえ、ウィンチでつり上げ、レールにのせて十二面とも抜取る」「壁画は大宝蔵殿へ保管」など六つの決定項目を紹介している。 なかでも「法隆寺壁画の全容は、 たすかった天人小壁二十面と現状のまま残った壁画十二面と完成模写品とを後世に伝える」という意見に世界に誇る古美術再現の意欲を感じさせる。 辞任を表明しでいた法隆寺の佐伯貫主である。 同じ二十九日の紙面に掲載された、 「強く反対の意向を表明した」という貴主の談話は次のようなものだった。 「角をためて牛を殺すような従来のやり方には法隆寺一山こぞって反対する。 学者達の徒らな 元文ママ)好奇心のため聖徳太子以来千三百年の血の流れた信仰の中心を台なしにしたではないか。 これらはいわば生体解剖に等しい行いで、こんなものは本当の科学とはいえない」 とはいえ壁画再現は佐伯貫主にとっても拒みきれないものでもあったようで、昭和二十六年(一九五一)三月六日に金堂壁画の移動は開始された。 同時に木枠に入った壁画の移動法要も行われた。 なお壁画の模写は 出火三日後の一月二十九日から、焼け残った金堂内で再開されている。 元日の一面で、金堂壁画の再現が報じられた。 白壁のままだった金堂に、現代技法を生かした仏画がよみがえることになった。 「法隆寺金堂の壁画を再現」「画壇の精鋭十四氏に委嘱」の見出しの囲み記事には金堂外観の全景と、画家で、再現プロジェクトの総監修者でもある 安田靫彦(やすだ ゆきひこ)と前田青邨(まえだ せいそん 両氏の写真が掲載されている。 「焼失した大壁四面、小壁人面の計十二面の壁画は、いずれも特別の和紙に描かれ、 約一年の予定で焼失直前の姿によみがえります。 約半数は昭和十五年から行われた前回の壁画模写にも参加しでおり、平均年齢は 五十八歳。 ほかに 助手が四十人と大所帯となった。 復元方法については「 剥落模写といって、昭和二十四年当時の壁画の状態をそっくり復元しょうというもの。 戦前に作った原寸大の コロタイプ版写真を紙に焼付け、壁画の焼け残った部分や前回の模写や 原色版写真などをもとにして、 彩色をほどこし、それを木のワクにはって壁にはめこむ」と紹介している(同日付け)。 焼失当時から文化財保護を強く訴えてきた朝日新聞社が 法隆寺壁画の再現を決めたのは昭和四一年(一九六六)。 制作画家や方法、 用紙、絵具などの検討を文化材保護委員会(現・文化庁) と繰り返し交渉し、「法隆寺金堂壁画再現委員会」を組織し た。 再現の制作の基本方針は、総監修の安田画伯など関係者との協議の結果、「 焼失前の壁画にないものは描き加えない」「 壁画のよごれ、ひび割れ、剥落などもそのまま模写する」などを決め、模写は三月一日にスタートした。 模写開始から約四カ月たった六月二十七日には、明治と大正時代に行われた模写作品を見学する安田画伯たちの様子を紹介(東京本社版)。 「壁の粒子までひとつひとつ表現している前回模写の前では 『実物がなくなったいまではとてもこうはいかない。 感じをつかみとって表現するまでだ』 と意欲をもやしたり、 技術上の問題を交換したり(略)」 さらに、七月には「制作すすむ」と題し、暑さに負けず筆を運ぶ安田・前田・橋本・吉岡の各総監修者とともに、助手として参加している東京芸術大学の女子学生らも 写真で 掲載(一九六七年七月三十一日付け東京本社版)。 壁画が三メールを超える大作なので、アトリエの天井を抜いたなどの苦労話とともに、「各画伯ともほぼ下塗りを終え」と制作が順調にすすむ様子を紙面にしている。 ちなみに制作は時には一日十五時間、休みも月に一回ということがあったという(一九六人年八月二十七日〜九月五日付け)。 そしてその約半年後、 壁画は額装され金堂に収められることになった。 世界でも類を見ない再現壁画は、清浄を念じて香水をそそぐ「清水開眼」などが行われ、白鳳の姿が斑鳩の里に戻った。 額装された壁画を金堂に運び入れる作業は、昭和四十三年(一九六八)十一月七日に始まった。 「絵具がはげ落ちないようにと、前日から、まずやわらかい 白薄紙(和紙)につつみ、さらに ハトロン紙、防水紙で包むほどの慎重さ。 (略) 額装作業は、展覧会用のパネルから、再現した壁画をはずし、金堂の壁にはめ込む作業。 (略)東京の額装制作専門会社の作業員五人が、小麦でつくった生ふのりでシワのいかないようにていねいに五日がかりではっていたもの。 一号壁画などの大壁画はパネルを床に寝かせて、木の橋を渡しての大作業。 のりの粘着力が十分ほどしかないので大壁画を一挙に張りつけなければならない難作業だった」と紹介した(十一月八日付け)。 「快晴の十八日午後、金堂商人口前に特設された舞台を中心にした式場で荘厳に営まれた」と書き出された記事は、釈迦、阿弥陀、薬師、弥勒の浄土のお姿がほのかな日の光に浮かび上がった。 」と再興なった金堂の様子を紹介。 また、法要については「儀式の開幕を告げる唄ではじまり、仏に花を供養する散華、舞楽など荘厳な儀式がつぎつぎ営まれた」とある。 その金堂焼失から二十二年たった昭和四六年(一九七一)には「天人小壁(飛天図)」の再現壁画など二十面も金堂に取り付けられ、一般に披露されることを紹介している(一九六九年三月七日付け奈良版)。 文化財保護法と防火デー 敗戦から四年目、復興を目指していた日本に衝撃を与えた法隆寺金堂の火災は、文化財保護法と文化財防火デーの制定のきっかけとなった。 文化財保護法は、昭和二十五年(一九五〇)五月三十日に制定され、日本における文化財を保存、活用し、国民の文化的向上を目的とする法律だ。 また出火した一月二十六日が「文化財防火デー」となったのは昭和三十年(一九五五)。 防火デーは文化財保護意識のより徹底を図ることを意図し、法隆寺金堂の焼損した日であること、一〜二月が一年のうちで最も火災が発生しやすい時期であることから定められた。

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